2014年03月11日

<問26>生駒の歴史<続き>  

承前

11幕末・明治維新(1853〜1868年)

 時が過ぎ、幕藩体制に対する批判が高まる中、嘉永6(1853)年6月3日に黒船が来航すると、これを機に幕末・明治維新という激動の時代に突入する。

 黒船来航の約5年後の安政5(1858)年6〜9月に安政五ヵ国条約が締結されて約200年にわたる鎖国の扉が開かれた。

  ・日本が開国すると、長崎に来航した外国人の中には暗峠を越えて江戸に向かう人もいました。これらの中には、長崎から江戸への旅のことを「大君の都」という書物に記したイギリスの駐日公使のオールコックもいました。「奈良市史 P.445」によると、彼は、文久元(1861)年5月12日に暗峠を越えました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Gご参照

 反幕府勢力は、文久3(1863)年の天誅組の乱を嚆矢こうし(はじめ)に討幕運動を開始した。

  ・天誅組の乱は現地の民衆の支持を組織できなかったためにたやすく鎮圧されましたが、この反乱者の逃走ルートの1つになったのが生駒の街道でした。⇒このことについては、<問14>歴史が息吹く生駒の古道の(3)ご参照

 慶応3(1868)年12月9日に新政府が樹立されると、新政府軍は慶応4(1868)年1月3日、幕府軍と戦端を開いた(約1年3か月に及ぶ戊辰戦争の始まり)。この鳥羽・伏見の戦いは同月6日には新政府軍の勝利で終わり、翌日、新政府は、徳川家の圧政に苦しめられてきた万民を救うために徳川慶喜を追討すると宣言、翌月には反幕諸藩からなる大軍を江戸に向けて発した。

  ・鳥羽・伏見の戦いで敗北した幕府軍の逃走ルートの1つになったのが生駒の街道でした。⇒このことについては、<問14>歴史が息吹く生駒の古道の(4)ご参照

 民衆の幕府批判を強化するために日本史上で初めて旧支配者の圧政から人民を解放するとの名目で戦争開始が宣言されると、各地で、世直し一揆が起こった。生駒の地でも、慶喜追討宣言の2週間後の1月21日、「生駒谷におこった『世直し一揆』の一つである」(生駒市誌 X)矢野騒動)がおこり、幕藩体制崩壊の一翼を担った。。

  ()矢野騒動とは、旗本松平氏領(北田原村・南田原村・小明村・辻村・俵口村・谷田村・菜畑村・有里村・萩原村・小瀬村・小平尾村の平群郡11ヶ村)の領民の蜂起のこと。

  ・矢野騒動については、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Iご参照。ラブリータウンいこま(12:20〜)ご参照

 世直し一揆が激化し、単なる負担軽減要求から、文字通りの世直し、つまり、今日で言う土地制度(土地所有)の民主化(耕作農民が安心して農業できるだけの土地を平等に分配すること)を要求するものへと変化する、つまり、新政府の期待以上に民衆の旧支配者に対する批判が高まり、平等を求める反乱にまで発展しかねない様相を帯びてきた。それを察知した新政府と幕府は、新政府を支持するイギリスの忠告もあり、早期に慶喜追討戦を終わらすべく妥協し(つまり、慶喜は追討せず、すなわち、徳川家はつぶさず、静岡の80万石の大名とする代わりに江戸城は開城するとし)、慶応4(1868)年4月11日、江戸城は無血開城され、それを象徴的事件として幕藩体制は崩壊した。この後も戊辰戦争は、明治2(1869)年5月18日の函館戦争終結まで続くが、それは旧幕府軍の愚かな武士の意地による消化試合の戦いであって犬死(意味のない命を粗末にする死)するものを量産した(東北の戊辰戦争である秋田戦争において生駒氏は新政府側に組した)。なお、戊辰戦争で戦死した新政府軍の将兵は、慶応4(1868)年6月29日に新政府が創建した靖国神社(当初の名は東京招魂社)に、弔いの対象たる神として祀られた。一方、同じ戦争での死者であっても旧幕府軍側の人々は、東京招魂社に祀られることはなく打ち捨てられ、見せしめとされた(維新勢力には死者は平等という精神はなかったのである)。

12明治時代(1868〜1912年)

 幕藩体制(武士が全国の土地・人民を分割して支配)に代わるものとして、法令に基づき(=法治主義により)政府が直接に全国の土地・人民を一括統治する<政府が全国の人民から一括徴税する> 仕組みが西欧の模倣でつくられ、それに沿って、行政組織が整備され、地租改正等により、地主制が成立した。結局、明治維新は土地の民主化は実現せず、それは昭和中期のアジア太平洋戦争の敗北による大日本帝国の崩壊後まで待たねばならなかった。

生駒の地での状況は次の通り

(1)1870(明治3)年、旗本堀田氏領上知あげち(官に返納)により高山村 東方・鹿畑村は奈良県に編入される、など。

(2)1871(明治4)年、廃藩置県により、郡山藩は郡山県となる。さらに郡山県が廃され、大和一円は奈良県となる。

(3)1889(明治22)年、添下そえじもの北倭村、平群郡北生駒村・南生駒村発足(4月1日)。全22ヶ村

 北倭村・・・高山谷・鹿畑・鳥見谷の5ヶ村(高山村・鹿畑村・上村・南田原村・北田原村)<下線は旧郡山藩

 北生駒村・・・生駒谷北部の6ヶ村(山崎村・谷田村・俵口村・小明村・辻村・菜畑村)<下線は旧郡山藩領>

 南生駒村・・・生駒谷南部の11ヶ村(小瀬村、乙田村、小平尾村、萩原村、藤尾村西畑村鬼取村大門村小倉寺村、有里村、壱分村)<下線は旧郡山藩領>

(4)1896(明治29)年、添下郡と平群郡は合併して生駒郡となった(郡山・竜田の2町と17村)。

(5)以上のような行政整備、地租改正等にともなって生駒の地でも、地主制の形成が進展した。

  ・日露戦争(1904.2〜1905.9)が開始された7か月後の9月、与謝野晶子は、雑誌「明星」に新体詩「君死にたもうことなかれ」を発表しました。これは、非戦・避戦の精神が顕現化したものと考えられ、現在に至るまで、非戦・避戦を訴えています。かかる影響力のある新体詩を残した晶子は、生駒山も和歌に詠いました。⇒これについては、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(6)ご参照

  ・1911(M44)年に 生駒トンネル工事に着工。1914(T3)年に竣工⇒これについては、<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−➈ご参照。 生駒トンネルについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(2)もご参照 

13大正時代(1912〜1926年)

  ・1918(T7)年に、日本初のケーブルカーが鳥居前駅〜宝山寺駅間に開通。それは、1929(S2)年には生駒山上まで延長され、生駒山上遊園地が開設された。この遊園地で1931(S4)年から動いている飛行塔は、全国最古の現役の大型アトラクション⇒これらについては、<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−Bご参照。

  ・1918(T7)年に、泉鏡花作「紫障子」発表。この作品の中で、宝山寺の浴油供よくゆくが登場⇒これについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(7)ご参照

  ・1919(T8).1.1・1.15に、「赤い鳥」(1・2月号)にて、生駒山も舞台とする、芥川龍之介作「犬と笛」が発表される⇒これについては、<問23>短編小説「犬と笛」ご参照

14昭和時代戦前・戦中(1926〜1945年)/敗戦(1949年)>

 明治時代に入って導入された法治主義は模倣しただけ(=形だけ)のもので真の法治主義(民主的に制定された法令に基づいて統治される)ではなく、人治主義(法令ではなく有力者の勝手な裁量や判断に立脚すること)とさほどかわらなかったため、土地所有の民主化も基本的人権の尊重等も実現せず、地主制に立脚する非民主主義が国家のあり方となり、それは、権力の暴走を規制することができずに、朝鮮等の侵略による植民地支配、日中戦争、アジア太平洋戦争による300万人強の日本民族の死と3000万人強の他民族の死を導き、国の崩壊をもたらした。

 それに対する反省から、敗戦を機に民主主義(自由と平等をめざす政治のあり方)により国家の権力を規制する日本国憲法<1946(S21)年11月公布、1947(S22)年5月施行>が制定されることで、真の法治主義(基本的人権・人民主権を規定した憲法を最高法とし、それに基づいた法令にのっとって政府が権力を行使する)が導入された。

 そんな民主化の流れの中で、土地所有の民主化(地主制の廃止=小作農の解放)が行われ、生駒地域でも、「生駒史誌 X」によれば、「昭和二十一年十二月、生駒、南生駒、北倭の三町村<引用者注:北倭・北生駒・南生駒の3村のうち、北生駒村は、1921年(大正10)年2月の町制施行で生駒町と改称した単位に農地委員会が設立され、農地の買収と小作人の解放が推進された。( I )実施前の昭和二一年では、小作農家は四六八戸で全農家八〇五戸の五十八%を占めていたが、終了の昭和三十一年では、自作農家は一一九五戸で全農家一二八五戸の九三%に増加し小作農家は九〇戸七%に減少し、小作農はほぼ解放され」、生駒の地においても、地主制は崩壊した。

 こうして、政府が強制的に地主から農地を買い取り小作人に安く売り渡すという( I )により、全国でも、生駒の地でも、土地所有の民主化が実現した。

 なお、生駒郡では、昭和に入ると、村の合併、村の町への編入や都跡村の奈良市への編入が行われようになり、戦後には、村の町政施行が進み、平城村は奈良市への編入により郡から離脱、郡山町は市政施行により大和郡山市を発足させて郡から離脱、のち、富雄町・伏見町は奈良市への編入により、片桐町は大和郡山市への編入により、それぞれ郡から離脱、生駒町も1971年に市政施行して郡より離脱した。こうして、2019年12月現在、生駒郡に留まっているのは、平群・三郷・斑鳩・安堵の4町である。

 この間、生駒では、すでに1921(T10)年2月に北生駒村は町制施行し生駒町となっていたが、生駒町は1955(S30)年に南生駒村を、1957(S32)年には北倭村を編入し、1971(S46)年11月1日に市政施行して生駒市となった。

上記の生駒関係行政区の変遷をまとめたものはこちら

  ・昭和初期、ブルーノ・タウトは生駒山頂上の住宅設計をおこないました。⇒これについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(1)ご参照

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  解答・解説

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