2014年01月06日

<問27>解答・解説  

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解答>(1)伊勢物語  (2)藤原定家  (3)源実朝  (4)井原西鶴  (5)上田秋成  (6)与謝野晶子  (7)阿波野青畝あわのせいほ  (8)万葉集  (9)柿本人麻呂  (10)西行(法師)  (11)A 堀辰雄  B 和辻哲郎

解説

(※)生駒山のこと

(1)について  伊勢物語<wikipedia>  在原業平<wikipedia>  〔大意〕はmanapediaから引用しました。   参考記事<リンク>

(2)について  藤原定家<wikipedia>  教弘寺

(3)について  金槐和歌集<wikipedia>  源実朝<wikipedia

(4)について  井原西鶴<wikipedia>  芭蕉と同時代の西鶴(芭蕉生誕の前前年に生誕し芭蕉没年の前年に逝去)は、芭蕉風の俳諧が風靡する時勢に対して、談林派俳諧師として対抗的な感懐を抱いていました。

    ※俳諧と俳句・・・鎌倉時代ごろから興った連歌れんが(5・7・5字の長句→7・7の短句→5・7・5字の長句→7・7の短句を、別々の人が100句になるまで詠む)が、室町時代に入って滑稽的・洒落的要素を付与されたのが俳諧はいかい連歌で、略して俳諧といいます。俳諧の最初の長句を発句といい、必ず季語と切れ字(切れ、つまり、終止、の働きをする字や言葉で、かな、けり、なり、ぞ、がも、等)を入れなければいけないとされました。芭蕉の登場により発句の独立性が高まり、明治時代に入って、正岡子規が従来の座の文芸たる俳諧から発句を独立させて俳句という個人の文芸とし、近代の俳句を確立し、子規に兄事けいじした高浜虚子が「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱して発展させました。俳句の確立・発展に伴い、俳諧の発句、それを詠う俳諧師も溯って俳句、俳人と呼ばれるようになりました。

(5)について  上田秋成<wikipedia

(6)について  みだれ髪wikipedia>(全文を青空文庫で読むことができます。)  与謝野晶子wikipedia>  チョコレート語訳とは<リンク>  晶子の夫の鉄幹も生駒山を詠んでいます⇒雲を見ず 生駒葛城 ただ青き この日なにとか 人を咀のろはむ(鉄幹)

(7)について  俳句と古里 愛した生涯  高浜虚子<wikipedia>  阿波野青畝wikipedia>  ホトトギスの四S⇒ご参照<リンク>ミラー

(8)について

 @出典⇒「日本古典文学大系1〜4 萬葉集一〜四」(岩波書店)から引用しました。ただし、注(※)については、一部加筆しています。

 A万葉集<wikipedia>  巻15-3589の和歌の解説⇒はじめての万葉集.pdf   巻15-3590の和歌の解説⇒はじめての万葉集.pdf

 B長いので問題文に入れられなかった、生駒山を詠った長歌万葉集 巻6−1047

 ➃歌碑は、万葉歌碑データベース<リンク>生駒市の歌碑<リンク>をご参照

(9)について   柿本人麻呂<wikipedia

(10)について   西行<wikipedia>  外山の里(地図)については、この記事〔生駒検定<全国版><問27>の解説 の 参照事項〕をご参照

(11)について   堀辰雄wikipedia>  和辻哲郎<wikipedia>「古寺巡礼」全文<青空文庫

(※)生駒山地の中央部にある暗峠を吟じた俳句については、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Mをご参照 

(※) うたまくら ゆかし生駒山暗がりの道の句とふみ ・・・共に、生駒市誌より

(※)「後拾遺和歌集」(1086年撰)、「新勅撰和歌集」(1232年撰)、「続後撰和歌集」(1251年撰)、「続古今和歌集」(1265年撰)、「続後拾遺和歌集」(1326年撰)、「新千載和歌集」(1259年撰)、「新後拾遺和歌集」(1284年撰)などにも、生駒山を詠った和歌が収められています。

(※)リンク

 ➀生駒市デジタルミュージアム・・・万葉歌碑6か所ミラー生駒山を詠んだ和歌7首ミラー   A生駒山を詠んだ和歌と俳句