2014年03月11日

<問27> 古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。  

 古来、生駒山は、人々に愛され、多くの和歌や俳句に詠まれてきました。それらについての次の各問に答えてください。

(1)次の和歌が登場する、平安初期に成立した歌物語は何ですか。<ヒント:在原業平が作者ともいわれています。>

二十三段 君があたり 見つつを居らむ 生駒山 雲なかくしそ 雨は降るとも

 〔注釈〕「な〜そ」で禁止を表す。

 〔大意〕あなたがいらっしゃるあたりを見続けておりましょう。生駒山を、雲よ、隠さないでおくれ。雨は降ろうとも。

 〔補足〕この歌は、新古今和歌集にも所収されています(巻15 恋歌5 1369)。

(2)次の五首の和歌を詠んだ歌人は誰ですか。<ヒント:古今和歌集(平安前期に編纂)や新古今和歌集(鎌倉初期に編纂)などから選んだ小倉百人一首(鎌倉初期に成立)の選者です。>

いこま山 あらしも秋の 色にふく 手染のいとの よるぞかなしき

 〔大意〕生駒山では、嵐も紅葉を混ぜて秋(あき)の色模様に吹いている。薄情な男への愛が冷めて心に空(あき)ができた夜(よる)に縒(よ)る手染の糸の色もやはり秋(あき)の色は深く、もの悲しい。

いこま山 いさむる嶺に ゐる雲の 浮きて思はき ゆる日もなし

〇 秋の色と 身を知る雨の ゆふ雲に 伊駒のやまも おもがはりして

〇 津の国の こやさく花と 今もみる いこまの山の ゆきのむらざえ

白雲の 春はかさねて 立田山 をぐらの峰に 花にほふらし(新古今和歌集 巻第一 春歌上 91

 〔注釈〕立田山は竜田山ともいい、竜田川の流域や竜田川と大和川の合流付近の生駒山地の峰々の総称で、その峰々の中の1つがをぐらの峰。その峰は教弘寺の境内の背後にあり、今日では小倉山と呼ばれている(小倉山の位置は、このページ「生駒山越えの(峠)道」と「平群の山(矢田丘陵)越の(峠)道」の地図をご参照/教弘寺の位置は、このページに記載の庄兵ヱ道北部の概念図にも載っています)。

 〔大意〕白雲が春は二重に立っている立田山。その中の小倉山には花が咲きほこっているのであろう。

(3)次の和歌を詠んだ歌人は誰ですか。<ヒント:この和歌は「金槐きんかい和歌集」(鎌倉初期に成立)に収められています。>

347 雲ふかき み山のあらし さえさえて 生駒の嶽たけに 霰あられふるらし

 〔大意〕雲が深くたれこめた山に嵐が吹き、一面に冷えこむと、生駒の岳には霰が降るだろう。

(4)次の俳句を吟じた俳諧師は誰ですか。<ヒント:<問13>歴史を見つめてきた暗峠のLの答と同一人物で、浮世草紙「世間胸算用せけんむねさんよう」の作者でもあります

〇 霞かすみつゝ 生駒見ねども 夕べかな <1692年刊行の和気遠舟編「すがた哉」に入集>

 〔大意〕霞がかかって生駒山は見えないけれど、春の夕べの風情は手にとるようにわかる。

(5)次の和歌を詠んだ歌人は誰ですか。<ヒント:怪異小説「雨月物語」の作者として知られています。>

生駒山 かげまだ峰に 別かれぬを 浪華の海に 月になりけり

(6)次の二首の和歌を詠んだ歌人は誰ですか。<ヒント:この二首は「みだれ髪」<1901(M34)年に発表>(↓下図は表紙)に収められています。> なお、この2つの和歌についても俵万智さんは超訳しています。

45 誰ぞ夕ゆふべ ひがし生駒の 山の上の まよひの雲に この子うらなへ

 〔俵万智 超訳↓下図は表紙>生駒山の 夕べさまよう 雲たちで 誰か私の 恋占って

271 すげ笠に あるべき歌と 強ひゆきぬ 若葉よ薫れ 生駒葛城

 俵万智 超訳〕「歌人なら 歌を詠んで」と囁いた 若葉よ薫れ 生駒葛城

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(7)次の俳句を吟じた俳人は誰ですか。<ヒント:正岡子規に始まる近代俳句の流れを確固たるものにした高浜虚子の教えを受け、今日に至る近代俳句の隆盛をもたらした、水原秋桜子しゅうおうし・高野素十すじゅう・山口誓子せいしと共に「ホトトギスの四Sしいエス・よんエス」と呼ばれる。>

生駒より 峰山高し 麦刈れば



(8)次の和歌を収めている和歌集は何ですか。<ヒント:日本最古の和歌集(奈良時代末期に成立)です。> 出典は<解説>に記載しています。〔折口訳〕は折口信夫の訳のことで、その訳文中の< >は引用者の注です。       

巻 6- 977 直越ただこえの この道にして 押し照るや 難波の海と 名づけけらしも <733年 神社忌寸老麿かみこそのいみきおゆまろ(伝不詳)>

 〔注釈〕直越・・・奈良からまっすぐに大阪へ生駒山地を越えて行く道のことで、複数ある(ご参照)。この歌のそれがどれかは不詳。   この道にして・・・この道において。  押し照るや・・・難波にかかる枕詞。

 〔大意〕(この直越の道を上りきって見てみると、ほんとに難波潟に一面に日の光が照りつけている。)この道でこそ、なるほどオシテルヤ難波の海と名づけたものであるらしいな。

 〔折口訳〕昔神武天皇が、浪速ナニハの海と名をおつけになつたといふが、大方此直越タヾゴエの道でおつけになつたのであらう。其に違ひない。(當時浪速の國の説明傳説を、かういふ風に訛傳<かでん/誤って伝えること>してゐたものと考へるがよい。)

巻 8-1428 おし照るや 難波なにはを過ぎて うちなびく 草香の山を 夕暮に わが越え来れば 山も狭に 咲ける馬酔木の にくからぬ 君を何時いつしか 往きてはや見む <作者未詳>

 〔注釈〕うちなびく・・・草にかかる枕詞。  草香の山・・・ここは狭義の草香山(直越の道を上りきったところの山)のよう(草香山について詳しくはこのページご参照)   山も狭に・・・山も狭いほどに。

 〔大意〕難波を過ぎて、草香の山を夕暮れに越えて来ると、山いっぱいに咲いている馬酔木の花のように、心を引かれるあなたに、何時お逢いできるか、行って早くお逢いしたい。

 〔折口訳〕大和の方へ歸つて來るのに、難波を通り過ぎて、日下山<=草香の山>を日暮れに自分が越えて來ると、山も狹い程、一杯に咲いてゐる馬醉木の花ではないが、惡しくない<あしくない/この和歌集の原文では「不惡」となっている>美しい君をば、早く行つて見たいものだ。

巻10-2201 妹いもがりと 馬に鞍置きて 生駒山 うち越え来れば 黄葉もみぢりつつ <作者未詳>

 〔注釈〕妹がりと・・・妹(妻・恋人)の許へ。がりは方向をしめす。  

 〔大意〕妹の許へ行くとて馬に鞍を置いて生駒山を越えて来ると、黄葉がしきりに散っている。

 〔折口訳〕いとしい人の家に行くとて、生駒山を越えて來る、と紅葉がどん/\散つて居る。

(小明町の総合公園内グランド東の駐車場隅に歌碑あり)

巻12-3032 君があたり 見つつも居らむ 生駒山 雲なたなびき 雨は降るとも <作者未詳>・・・(1)の元歌

 〔大意〕わが君の家のあたりを見ておりましょう。生駒山に、雲よ、たなびかないで下さい。たとい雨は降ろうとも。

 〔折口訳〕いとしい人の住んでる邊<あたり>は、あの邊だと跳めても居よう。どうか雨が降つても、あの生駒山に雲が懸つてくれな。

(北大和一丁目の四季の森公園/芸術会館美楽来に歌碑あり)

巻15-3589 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてそ吾が来る 妹いもが目を欲り <736年 秦間満はだのはしまろ(伝不詳)

 〔大意〕夕方になると、ヒグラシが来て鳴く生駒山を、越えて私は行く。妹に逢いたくて。

 〔折口訳〕日暮れになると、蜩<ひぐらし>が來て鳴いて居る生駒山をば、越え乍<なが>ら私が行くことだ。いとしい人の顔が見たさに。(此は、難波で出發の日を待つて居る間に、家に歸つた時に、歌うたものである。) 

(生駒市立大瀬中学校の門前に歌碑あり)

巻15-3590 妹に逢はず あらば為方無すべなみ 岩根いはね踏む 生駒の山を 越えてそ吾が来る <736年 遣新羅使人>

 〔大意〕妹に逢わないでいれば、どうにもしようがないので、岩を踏んで歩くけわしい生駒山を越えてやって来たことだ。

 〔折口訳〕此後、長くいとしい人に逢はなければ、遣る瀬<やるせ>ないことであらうと思うて、生駒山を越えて、逢ひにやつて行くことだ。(此は、暫らく奈良の自宅に歸つて居た間に、思ひを敍べたものである。作者は、前の間滿ハシマロと、同人か別人か訣<わか>らない。)

(高山竹林園内に歌碑あり)

巻20-4380 難波門なにはとを 榜ぎ出て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく <下野国の防人・大田部三成おほたべのみなり

 〔注釈〕難波門・・・難波の港  神さぶる・・・古めかしく神々しい。

 〔大意〕難波の港を漕ぎ出てみると、神々しい生駒の山に雲がたなびいている。

 〔折口訳〕難波の港をば、漕ぎ出て眺めると、神カウ々しく古びて見える、高い膽駒<いこま>の峯に、雲が長くかゝつてゐる。

  (生駒山上遊園地/西畑町の国道308号線である奈良街道暗峠越えの街道沿いに歌碑あり)

(9)(8)の和歌集には、次の歌も収められています。この歌を詠んだ歌人は誰ですか。<ヒント:後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。>

巻3-255 天離あまざかる 夷ひなの長道ながぢゆ 戀ひ來れば 明石の門より 大和島見ゆ

 〔注釈〕天離る・・・枕詞。空遠く離れている意からヒナ(田舎)にかかる。  ゆ・・・道筋をずっと経過する意を表す格助詞。  大和島・・・大和国の西の境をなす生駒・葛城の連山が、瀬戸内海からあたかも島のように見えるのでこういった。

 〔この歌が詠まれた背景〕を「生駒市誌U」はこのように述べています⇒古代の生駒山は、奈良の都と難波の港をとを結ぶ東西交通の要路にあたり、旅する者の重要な標識となり、必ず越えねばならない難所であり、国をしのぶ郷愁の山でもあった。多感の〇〇〇〇〇は、なつかしい故郷に長い旅から帰る途中、明石海峡から大和の一角に聳えている生駒山を望見して、その喜びを歌い上げている。(〇〇〇〇〇には、答えの人名が入ります。)

 〔折口信夫訳( )内は引用者注〕石見(いわみ/現島根県にあった国)のはてから、長い邊土(へんど/都から遠く離れた土地)の旅路を續(つづ)けて、大和が早く見たいと焦(じ)れながら來たが、明石海峡から大和の國が見えた。嬉しい事だ。

(10)次の歌の作者は誰ですか。<ヒント:武士の家に生まれ平清盛を同僚とする北面の武士となったが、23歳の若さで出家して、平安末期の動乱の諸国を遍歴しつつ清新な秀歌を詠み、その歌は新古今和歌集には94首も入っており入撰数最多となっている。>

秋篠や 外山とやまの里や しぐるらむ 伊駒いこまの岳たけに 雲のかかれる(新古今和歌集 巻六 585

 [注釈]秋篠は平城京の北西、西大寺の北の地名で秋篠寺(奈良時代の776年建立)があり、古来、外山の里と呼ばれていた。

 [大意]秋篠の外山の里からながめれば、時雨しぐれが降っているのだろうか。生駒の山に雲がかかっている

(11)次の文の(  )に入る人物名を答えてください。<ヒント:Aは「風立ちぬ」や「大和路・信濃路」等を代表作とする作家、Bは日本の思想と西洋哲学の癒合という独自の哲学体系の構築をめざした学者、です。
  (10)の秀歌を生んだことで分かるように、秋篠(外山の里)から見える生駒山の姿は古来、多くの人々の心を引きつけてきました。それは近代になっても変わりませんでした。
  たとえば、歌人であるがゆえに(10)の歌を当然に知っていた会津八一は、その歌を念頭に次のように詠いました。
    あきしのの みてらをいでて かえりみる いこまがたけに ひはおちむとす <八一が24(T13)年9月までに詠んだ歌集である「南京新唱」に所収/この歌の解説(リンク)〜下の写真(クリックで拡大)もこのページより〜
17生駒山.jpg
  また、31(S16)年10月、古代のロマンを作品化する構想をまとめるために大和路を訪れた( A )は、会津八一の歌も念頭に置きながら書いた(といわれている)妻に宛てた手紙の中で次のように述べています(・・・は省略部分)。
  ・・・とにかく何処か大和の古い村を背景にして、Idyll(引用者:イデイル/田園詩)風なものが書いてみたい。そして出来るだけそれに万葉集的な気分を漂わせたい・・・いま、秋篠寺という寺の、秋草のなかに寝そべって、これを書いている・・・此処はなかなかいい村だ。寺もいい・・・秋篠の村はずれからは、生駒山が丁度いい具合に眺められた・・・。
  なお、秋篠の近く(南東約2q)にある平城宮跡から見た生駒山について、( B )は19(T8)年5月刊行の「古寺巡礼」の中で次のように述べています。
  法華寺村を離れると道は昔の宮城のなかにはいる。奈良と郡山の間の佐保川の流域(昔の都)を幾分下に見渡せる小高い畑地である(引用者:今日のように整備されていない当時の平城宮跡はこのような印象だったのです)。遠く南の方には三輪山、多武の峯とうのみね、吉野連山から金剛山へと続き、薄い霞のなかに畝傍山・香久山も浮いて見える。東には三笠山の連山と春日の森、西には小高い丘陵が重なった上に生駒山。それがみな優しい姿なりに堂々として聳そびえている。堂々としてはいても甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら住んでみようという気も起こるはずである。
  かかる平城宮跡から見た生駒山は、奈良県景観遺産となっています(ご参照)。
  秋篠と生駒山とのかかわりを詠んだ歌としては、鎌倉時代初期の「新古今和歌集」の撰者の1人である藤原家隆の次の歌もあります。
    ながき夜の 生駒おろしや 寒からむ 秋篠の里に 衣打つなり   
 [大意]生駒山から寒い風が吹いてくる長い夜ではあるが、愛しい人を待ちながら、衣を柔らかくしてつやを出すために砧(きぬた/木の棒)で衣を打つ音が、冬の秋篠の里にこーん、こーんと響いています。
  今日では建築物が増えて生駒山と秋篠の里は隔てられているようにも感じられますが、何十年か前までは、生駒山からの風が秋篠の里に吹いてくることが体感できるぐらいに両者は緊密だったのです。

  解答・解説