2014年03月11日

<問26>生駒の歴史<続き> 

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鎌倉時代(1185〜1333年)

 公武2権力並立は長くは続かず、公(上皇)が武(幕府)に仕掛けた1221年の戦争(承久の乱)で敗北した公の側は、厳しく処分され、その貴族とそれに加担した武士の所領約3000か所が、幕府の任命する地頭(荘園内の年貢徴収と荘園の管理)の設置により幕府の支配下となり、武士の政治権力独裁が実現し、以後、公(朝廷)は武(幕府)の従属下におかれることとなった(承久の乱を機とする北条泰時による公の処断を日本唯一の革命とする説もある⇒ご参照)。ただし、貴族・大社寺による土地・人民支配が完全に終わるのは戦国時代まで待たねばならない。

  ・鎌倉幕府第3代将軍の源実朝は、生駒山を和歌に詠いました。実朝は承久の乱の前々年の1219年に暗殺され満26歳という若さで亡くなり、源氏将軍が断絶しました。⇒実朝が生駒山を詠った和歌については、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(3)ご参照

  ・生駒の地の行基ゆかりの竹林寺で修行を積んだ忍性は、承久の乱の約20年後の1243年に大和国の般若寺近辺に北山十八間戸を創設するなど、ハンセン病などの重病者を保護・救済する活動を展開しました。このことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像(8)ご参照 

 この時代には、幕府から地頭<公領(国衙領)内の徴税・管理人/幕府から任命された荘官(荘園内の年貢徴収・管理人)>に任命された武士による国衙領・荘園の横領(税・年貢を上納しないで我が領土のようにしてしまう)が行われた。また、幕府が全国に配置した守護(各国の軍事・行政権を行使)により国司は権限を奪われていき形だけのもになり、律令制は実質終了していった(形式的には明治維新まで存続)。

 この時代の生駒の地の状況を伝えるものとしては、上鳥見庄は鎌倉末期には57町7段(27.4ha)という大きな荘園となった/生駒谷では二分方が仁和寺御室(出家した天皇の住居)領となった、との記録が残っている。なお、一乗院の荘園(一分方)を「生馬下庄」、仁和寺の荘園(二分方)を「生馬上庄」と記載した史料もある。また、生駒市誌第5巻には、鷹山庄と上鳥見庄は、応永年間(1394〜1428)になっても、平安時代と同様に前者は興福寺一乗院方の、後者は興福寺大乗院方の荘園であったと記載されており、また、生馬庄は、鎌倉時代の文献に一乗院方の荘園として記されているとしている。このように鎌倉時代にあっても興福寺という旧仏教勢力の荘園支配は続いていた。日本の中世といえば、支配者が朝廷勢力(天皇や公家)から武士勢力に代わり、鎌倉時代に台頭した新仏教が旧仏教を駆逐した時代である、というイメージがあるが、旧仏教勢力が、中世においても依然として支配勢力の一部として大きな力をもっていた。

南北朝時代(1333〜1392年)

 この時代の動乱の中で、守護の大名(地頭などの武士を家臣にして任国の支配権を強め領主になったもの)化が進展し、地頭の多くは有力守護の被官(家臣)となっていった。

 この時代の生駒の地の状況を伝えるものとしては、高山谷の鷹山庄は一乗院領、鳥見谷の上鳥見庄は大乗院領、との記録(『( C )造営段米田数帳』)が残っている。

  ・暗峠から直線距離で南西約700mの旗立山(486m)<地図>には、この時代に見張り場があったといわれています。

室町時代(1392〜1493年

 南北朝の争乱を経て室町時代に入ると、守護大名(守護が大名になったもの)は表向きは荘園制度を否定しないものの、その領国支配(国をまるごと支配)は荘園制度を次第に崩していった。

 そして、( D )の乱(1467〜1478)が勃発し、それが原因となって世は戦国時代へと移行した。

 そんな中、生駒の地では、高山谷の鷹山庄は興福寺一乗院領、との記録(『( C )造営段米田数帳』)も残っているが、( D  )の乱が拡大すると、生駒庄荘官(荘園内の年貢徴収・管理人)でもあった生駒氏は、身辺の危険を感じ、戦火を逃れて1475〜1476年、鷹山氏と交代するかのように、縁者を頼って、交通の要所たる尾張国丹羽にわ郡小折こおりに移住していった。生駒氏については、<問24>生駒ゆかりの諸群像(9)ご参照

 なお、( D )の乱のときの天皇は103代天皇後土御門であった(位1464〜1500年)。

  ・この天皇の勅命により大徳寺の住持じゅうじ(寺の主僧)に任ぜられた、100代天皇後小松の落胤ともいわれる一休宗純は、晩年、南山城の酬恩寺を根拠地に京都東山や摂津、和泉堺などの間を頻繁に往来し、古来、交通の要衝であった大和国の高山の中村の里を通る街道を月1回は通ったといわれています。⇒このことについては、<問14>歴史が息吹く生駒の古道(1)ご参照

  ・また、この天皇に、大和国の高山城主頼栄よりさかの次男の宗砌そうせつが考案した茶筌が献上されました。⇒このことについては、<問4>自然が生んだ伝統工芸ご参照/茶筌については、<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古(2)もご参照

戦国時代(1467〜1590年)

 戦国時代には、戦国大名(戦いによって大名になった者で荘園制度を否定する)による領国支配や地方武士等の国盗り合戦(地域支配権の争奪)により荘園制度の崩壊が進行した。

生駒の地では、鷹山氏が、

戦国時代黎明期<( D )の乱の時期>、

この頃に生駒の地を去った生駒氏と交代するように

立ち現われ(歴史の表舞台に登場し)、

大和の地方武士のひとりとして、

大名や有力地方武士への臣従離反や他の地方武士との連携離反

を繰り返しつつ

疾風怒涛の戦国の世を約100年間、交通の要衝たる高山を拠点に、

大和・山城・河内等一帯を転戦し、駆け抜けた。

その過程で、生駒の地の3荘園(鷹山庄・上鳥見庄・生馬庄)

一掃された。

そして、鷹山氏は、

戦国時代終焉期(安土・桃山時代)、

立ち去った(歴史の表舞台からは退場した)

まさに、荘園制度という公家・大社寺といった古代勢力がつくりだした古い土地支配の仕方を一掃して、武士による新しい土地支配の仕方を完成させていった(=世直した)戦国の世の申し子だった。

鷹山氏の詳細については、こちらをご参照ください>

安土桃山時代(1573〜1603年)

(1戦国の戦乱の中で荘園制度が崩壊するとともに力を失った大社寺の荘園支配は生駒の地でも終焉した。そんな中、天正3(1575)年3月、全国統一を進めてきた ( E  )より南山城守護に任じられていたばん/はなわ直政が大和守護の兼務を命じられ、( E  ) の支配が生駒の地にも及んできた

(2)そんな中、1577(天正5)年、信貴山城の戦い松永久秀 VS ( E )>が起こると、鷹山氏は松永側で参陣し、敗北して没落した。

(3)天正4(1576)年4月、直政が石山合戦で討死すると、筒井順慶が、 同年5月に( E ) より大和一国支配を任され、天正8(1580)年11月に拠城を筒井城から郡山城に移した(理由は、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったためであるが、ここにも、かつて奈良盆地は海であった名残が残されていた)。順慶は、家臣の島左近生駒谷を支配させた。順慶は、天正10(1582)年6月2日に本能寺の変が起こると、明智光秀の与力(自分より有力な武士に従う武士)であったにもかかわらず( F ) に恭順し、その家臣となり、大和の所領は安堵された。

  ・司馬遼太郎「関ケ原」は、島左近が暗峠を往来する場面を描いています。⇒このことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(10)ご参照

  ・本能寺の変が起こったとき、堺で遊覧していた家康は急遽三河国へ逃げ帰りました。そのルートの候補の1つが生駒の街道です。⇒このことについては、<問14>歴史が息吹く生駒の古道(2)ご参照 

(4)( F )は、本能寺の変の11日後の6月13日の山崎の合戦で光秀を討ち、合戦の2週間後の6月27日の清洲会議を経て、その10か月後の天正11(1583)年4月19日から4日間の賤ヶ岳の戦いに勝利することで天下人への地歩を固めるが、山崎の合戦の翌月の1582年7月には山崎の地を手始めに太閤検地を本格開始した。太閤検地は、1598年まで続けられ、荘園制度の完全終了をもたらすことになる。

(5)天正12(1584)年8月に順慶が病死すると、その養子の定次が跡をついだが、翌年8月、突如、伊賀上野城に国替させられ、翌月の天正13(1585)年9月、( G )が 、但馬国出石城から紀和泉(紀伊・大和・和泉の三国)百十万石の太守一国以上を領有した大名として郡山城に入城。

 郡山城主となった( G  )は、太閤検地とともに、いち早く刀狩(兵農分離、つまり、武器を取り上げて農民には耕作に専念させることで年貢徴収の確実化を図ること。これで、平安時代半ば以来の農民の「武装化=武士化」は不可能になり、身分の固定化がなされた)も実施した。これにより、生駒の地の「武装した農民」(半農半武)も普通の農民に戻らされた。刀狩令は、天正16(1488)年には全国に発せられた。

  ・なお、( G  )は、暗峠を越えて郡山城と大坂城を往来して豊臣政権を支えました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のCご参照  

 太閤検地により、(公家や大社寺ではなく、実際の)土地保有者は石高所有者として検地帳に記載され、各村々はその結合体として、石高を中心に編成され、自然発生的な村が「行政単位=課税単位」として決定付けられることで政治支配の基礎とされた。 <土地所有形態を革新していった太閤検地と刀狩は、ともに、農民を武士の完全支配下におく政策だった。>

 小田原征伐をもって、天正18(1590)年7月、( F  )の全国統一はなった。 

(6)天正19(1591)年1月に( G  )が病死すると、その養子の秀保が跡を継いだ。秀保は、(  F  が開始した朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に文禄1(1592)年3月に出陣し、翌年10月に帰還した。生駒の地では、秀保が郡山城主のときの文禄元(1592)年、 高山村 東方ひがしかた(高山の東半分)と鹿畑が秀吉家臣の堀田一継の、高山村 西方にしかた(高山の西半分)が秀吉家臣の森可政よしまさの所領となった。

 秀保が郡山城主のときの文禄3(1594)年、( F  )は、改めて太閤検地の方針を規定  

(7)文禄4(1595)年4月、秀保が病死すると、その後継ぎがいなかった(大和豊臣家が断絶した)ので、同年7月、豊臣政権五奉行の第三席である増田長盛郡山城主となり、生駒の地もその支配下に入った。 

 生駒の地では、長盛が太閤検地を実施したようで、1595(文禄4)年中にそれが終わり、その結果、荘園制は完全に消滅し、21の村(大字)が成立した(のち、東田原村が2つに分かれて22の村となる。この22の村とはどこなのかについては、後述の明治時代の記述が分かりやすい)。最高石高は、高山郷ともいうべき高山村の1430石余、最低石高は、小倉寺山村の70石余。

(8)慶長3(1598)年8月 、( F  )病死。長盛は、慶長5(1600)年9月15日の( H )の戦いには参加せず、戦後の9月25日、出家して謝罪するも、高野山に追放され、のち、大坂夏の陣で豊臣氏に与し、戦後その責任を問われ自害した。

  ・( H )の戦いに敗北した西軍の将島津義弘は、敵中突破を敢行し、暗峠を越えて逃走しました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のFご参照

10江戸時代(1603〜1868年)

 戦国の戦乱(=荘園制度を完全否定する世直しでもある)太閤検地によって荘園制は完全に廃止された。つまり、中世権力(平安時代末期より台頭してきた武士)が古代権力(平安時代までに権力を確立し、その力を中世権力と反比例させてきた貴族・大社寺)より土地・人民の支配権を奪うという400年に及ぶ歴史的作業がやっと完全終了し、江戸時代に入って幕藩体制(幕府と藩による領国支配) が確立され、鎌倉時代に入るころより進められてきた武士が全国の土地・人民を分割して支配する<武士が自己の支配地の人民から年貢を徴収する>仕組みがようやく完成した。

  ・1603年に江戸幕府が創設されてから約10年後の1615年に大野治房率いる隊は暗峠を越えて大和国へ侵入し、郡山城を陥落させました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のCご参照

  ・その約85年後の1689年、江戸時代前期を代表する諸学問の学者であり、紀行家でもあった貝原益軒が田原の里(現生駒市北田原町・四条畷市下田原)を訪れ、ここはあたかも桃源郷のようであると紀行文に記しました。⇒これについては、<問18>生駒に「桃源郷」があった!ご参照 

  ・その3年後の1692年、井原西鶴が、暗峠を舞台とする「数の子追い剥ぎの物語」が記された浮世草紙「世間胸算用」を刊行しました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のLご参照

     西鶴は、生駒山を吟じた俳句も詠んでいます⇒これについては、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(4)ご参照

  ・その2年後の1694年、芭蕉が暗峠を越えました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」の@ご参照

  ・その約10年後の1705年、お蔭参りおかげまいりが爆発的に流行し、一日七万人もの参加者が暗峠を越えました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のEご参照

  ・その5年後の1730年に開設された堂島米会所の米相場を東海地方に伝達するため、生駒山地天照山てんしょうやま旗振山(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)とされました(高見の烽とぶひに、このことについての言及あり)。

幕藩体制下、生駒の地の状況は次の通り

(1)( H )の戦いののち、大和国は小藩領と天領に細分されたが、生駒の地の所領地については、1605(慶長10)年前後の状況を記した「慶長郷帳」によれば、次の通り(乙田村については、なぜか不詳)。

 @高山谷東部・鹿畑⇒添下そえじもぐん・こおりの高山村 東方・鹿畑村・・・秀吉死後に家康に帰順して旗本に取り立てられた堀田氏の領地(687石余)

 A高山谷西部⇒添下郡の高山村 西方・・・秀吉死後に家康に帰順して旗本に取り立てられた森氏の領地 (743石余)

 B鳥見谷・生駒谷北部⇒添下郡の上村・東田原村・・・天領(代官小堀政一)

 C生駒谷中部⇒平群郡の小明村・俵口村・谷田村・山崎村・辻村・菜畑村⇒竜田藩領(片桐氏)

 D生駒谷南部⇒平群郡の壱分村・有里村・萩原村・小瀬村・小平尾村・藤尾村・大門村・鬼取村・小倉寺村・西畑村・・・天領(代官大久保長安)

 <こうした村々の名前は地名として今に残り、その地域の歴史を今の我々の目の前に伝えている。>

(2)1615(元和元)年

  鳥見谷・生駒谷北部・南部⇒上村・東田原村と南生駒の天領<(1)-D>が郡山藩となる(天領消滅)。

   ・1619(元和5)年には、郡山藩領は4,500石となる、との記録がある。

(*)1624(寛永元)年、黒添池くろんどいけ築造工事着手。竣工は、181年後の1803(享和3)年。

(3)1639(寛永16)年、生駒谷中部の竜田藩領の6ヶ村が郡山藩領に編入される(竜田藩領消滅)。

(4)1678(延宝6)年、東田原村が北田原村と南田原村に分かれる。(残された資料ではなぜか不詳だった)乙田村の再検地実施される。

(5)1679(延宝7)年、高山谷・鹿畑以外の領地再編成

 @鳥見谷・生駒谷中・南部⇒上村、山崎村・壱分村・藤尾村・大門村・鬼取村・小倉寺村・西畑村・乙田村(吉田源左衛門領、御餌指ごえざし<餌指とは鷹の餌となる小鳥を捕らえる職務>新三郎領を除く)の9ヶ村のみを郡山藩領とする。

 A生駒谷北・中・南部⇒北田原村・南田原村・小明村・辻村・俵口村・谷田村・菜畑村・有里村・萩原村・小瀬村・小平尾村の11ヶ村5千石を、旗本松平氏領とする(これは、以後幕末まで190年間続く)。

    ・交通の要衝たる辻村の豪農矢野氏の屋敷内に松平氏領の陣屋である生駒陣屋陣屋とは藩庁または代官所のこと)<ご参照⇒その1その2>を置く。

(6)1688(元禄元)年頃、乙田の御餌指領、天領となる。1801(享和1)年、乙田領の一部(天領の御餌指領)を郡山藩領に編入。

  ・この時代の中頃、進歩的意義をもった、つまり、次の時代へと社会を動かす要素を持った学問の二大潮流、蘭学国学が発展し、前者では「解体新書」(1771年に翻訳開始し1774年に刊行)が、後者では「古事記伝」(1764年に起稿し1798年に脱稿)が著されたが、古事記伝は、暗峠のことを「この道は近いから直越じかごえという」と記しています。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のKご参照

  ・「解体新書」が刊行された2年後の1776年(アメリカ独立宣言の年)には、近世日本文学の代表作である「雨月物語」が刊行されましたが、その作者の上田秋成は生駒山を和歌に詠っています。⇒これについては、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(5)ご参照

  ・18世紀末に大和の国に立ち寄った一茶は、暗峠を俳句に吟じました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のMご参照

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