2013年12月01日

平氏と源氏の興り

  )@50代天皇桓武の第三皇子の葛原親王かずらわらしんのう(親王とは天皇の嫡出子ちゃくしゅつしのことの子の高見王たかみおう(王とは親王の地位を与えられていない皇子やその他の天皇の男系の子孫のこと)または孫の高望を臣籍降下皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることさせて平の姓を名乗らせ、平高望たいらのたかもち従五位下の下級貴族)が898年に上総国の介に任じられて現地に赴き、任期が過ぎても都に戻らず土着して武士団を形成した(高見王は実在せず、高望が葛原親王の子という説がある)。これが桓武平氏(桓武天皇を出自とする方の平氏)の武士団始まりで、のちに1167年に武士として初めて太政大臣になった平清盛はこの流れの棟梁である。   

          なお、天慶2(939)年11月平高望の3男または4男の平良将の子の平将門は反乱を起こし、一時(約2か月間)、関東一円の諸国(下野・上野・上総・安房・相模・伊豆・下総)を支配した。同じころ、藤原不比等の次男の房前を祖とする家系である藤原北家の藤原純友従七位下の下級官人/藤原氏の家系図ご参照)は伊予国の掾じょう(三等官)に任じられて現地に赴き、任期が過ぎても都に戻らず土着して海賊の頭目となり、将門が反乱を起こした翌月、約2年間にわたる反乱を起こした。この2つの反乱を合わせて承平天慶の乱という。

     A一方、56代天皇清和の第六皇子の貞純親王さだずみしんのうの子の経基王つねもとおうが臣籍降下により源の姓を名乗り、源経基(正四位上の中級貴族)の子の源満仲みなもとのみつなか(正四位下の中級貴族)が983年に摂津国の守に任じられて現地に赴き、任期が過ぎても都に戻らず土着して武士団を形成した。これが清和源氏(清和天皇を出自とする方の源氏)の武士団の始まりで、のちに1180年〜1192年にかけて鎌倉幕府を開いていく源頼朝はこの流れの棟梁である。