2014年03月11日

<問26>生駒の歴史 

<随時、部分修正することがあります>

次の文は、土地制度の変遷を主軸にした生駒の歴史について述べたものです。(  )に入る語句を答えてください。

なお、この問題文は、2つの理由により、大変な長文となっていますが、ご了承ください。

続き

生駒の地には、いつから人が住み始めたか

 この記事には、「有史時代になっても生駒谷はまだ湖水で、そこに暮らした人たちが現われました。縄文人です。岸辺で狩猟生活をした原住民の縄文文化は小平尾遺跡といわれ、萩原からは食器の一部の土器の断片。また、菜畑、有里では、矢じりや石器が発掘されています。鹿や猪、鷹などが獲物だったのです。」とあり、遅くとも、縄文時代には人が住み始めていた

縄文時代(前14000年頃〜前数世紀頃)・弥生時代(前数世紀頃〜後3世紀中頃)

(1)狩猟採集漁労という獲得経済を主とする、縄文時代とそれ以前の時代(旧石器時代・先土器時代)にあっては、土地・他者を支配するという必要性がなかったため土地・人民支配というものはなかった。当然、生駒の地も同様であった。⇒<問17>「生駒」の語源・由来ご参考

(2)水田耕作という生産経済を主とする弥生時代になると、土地・他者の支配の必要性が生じるようになり、「国家」(土地・人民の支配機構)というものが生まれるようになって、部族国家が各地に誕生<部族とは、いくつかの氏族(血縁集団)の結合体>、やがて、それらのいくつかが連合した部族連合国家(諸部族長の連合政権)も各地に形成されていった。最も有名な部族連合国家は、卑弥呼が治めたとされる( @ )である。その場所はいまだ確定されていないが、それと同様の部族連合国家は北九州をはじめ各地に成立し、「 @ 富雄川流域説」もあるように富雄川流域をも含む大和にも形成されていたと考えられ、生駒の地もその国家の領域であったと思われる。

(3)(1)から(2)への移行期、つまり、縄文から弥生への移行の時代に、列島先住民(縄文人)と半島からの渡来人(弥生人)とが出会い衝突した。それが、今に至る「日本民族」と「里山という日本の国土のあり方」を形成させたが、この日本史上最大級の出来事は、長く人々の心に刻まれ言い伝えられてくる中で、いつしか、豊秋津洲とよあきつしま(現生駒市)を舞台とする日本神話(生駒の神話)がつくられていった(生駒の神話は里山の誕生の過程を反映したものご参照)。そして、8世紀に入って、記紀(古事記・日本書紀)の作者は、共に「神武天皇の項」で生駒の神話を記した。古事記(712成立)は国内向けに天皇の正統性を訴えるために、日本書紀(720年完成)は外国向けに日本という国の正統性を主張するために、それぞれ作成されたものであるが、その内容に説得性を持たすためには全くの創作ではなく、各地に伝わる神話や伝承を盛り込む必要があり、それらを、作成意図に沿って修正して記述している。そのため、記紀に記された神話や伝承は、元の内容通りではなく、また、記と紀とは食い違う記述もある。従って、記紀を読む際には、元の内容がどうだったのを判断するリテラシー(適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する力)が必要である。<問1>神話の里(その1)〜生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)〜<問15>神話の里(その2)〜「国生み神話」の舞台〜 ご参照 

古墳時代(3世紀中頃〜592年)・飛鳥時代(592〜710年)

 各地の部族連合国家は地方権力機構(権力とは人民を統治する力)であり、人口増大に伴い支配領域が拡大してくると他の国家との軋轢が生じて戦争が起こるなど権力を不安定にさせる要因が生まれた。そこで、その要因を排除するため、各地の地方権力を制して中央集権国家をつくる動きが推進され、701年の( A )の制定をもって、645年の乙巳いっし・いつし・おっしの変を機に整備が加速されてきた律令格式 (各種の法令)に基づき全国に国司と呼ばれる役人を派遣して朝廷が直接に全国の天皇が治める土地(公領=公地)・天皇が治める人民(公民)を支配する(これを公地公民という)仕組みを持つ律令制の国家、つまり、「律令国家=中央集権国家」が成立した。これは、朝廷が全国の人民から直接に徴税(いくつかの生産物を徴収し、いろいろな労役を課すこと)し兵役を課す国家であった。

     )国司・・・高官(高級官吏)は守かみ(一等官=長官/事務統括)と介すけ(二等官=次官/長官補佐)で、守は中級・下級貴族、介は下級貴族・下級官人が任命された。その下に、下級官吏として、掾じょう(三等官/一般事務)、目さかん(四等官/書記)が置かれ、下級官人が任命された。以上の守・介・掾・目を国司という(ときに、守のみを国司という場合もある)。なお、位階は30段階あり、五位以上が貴族とされ、三位以上を上級貴族、四位を中級貴族、五位を下級貴族、六位から初位までの者と雑任ぞうにんと呼ばれた者達を総称して下級官人といった。

  ・蘇我入鹿乙巳の変で倒されましたが、その前々々年の642年に入鹿は山背大兄王やましろのおおえのおうを攻撃し、王は生駒山中に逃げました。⇒このことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像(13)ご参照

  ・乙巳の変の翌々日に即位した36代天皇孝徳は、652年に難波宮を完成させ、この地を都と定めましたが、この宮殿は生駒山の最高峰から真西にあり、それが生駒山の謎の1つとなっています。⇒このことについては、<問2>古来、列島中央部にあってその存在感を示してきた「生駒山」・・・の(1)ご参照

  ・伝承によれば、乙巳の変の10年後の655年、役行者が、山背大兄王が逃げ込んだあたりの生駒山中の般若窟とその周辺を修験道場とし、ここに都史陀山大聖無動寺としださんだいしょうむどうじを建てました。この修験道の寺は、8世紀末には空海も修行しましたが、いつのころからか衰退し、時が過ぎ、1678に湛海律師がこのお寺を再興して、歓喜天を祀り、寺名を宝山寺と改名すると、1914(T3)年に大軌(現近鉄奈良線)、1918(T7)年に生駒ケーブル、が開通するまで、六つの宝山寺参詣道を盛んに人々が往来しました。⇒このお寺が、1981年8月公開の山田洋次監督「男はつらいよ」のロケ地となったことについては、<問10>「男はつらいよ」生駒の巻ご参照。このお寺の浴油供よくゆくについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(7)ご参照。このお寺に、芥川龍之介が、直木三十五、宇野浩二と共に遊行したことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(2)ご参照。このお寺の参道にあった料理旅館で高橋和巳が知られているだけでも2回文学仲間と交流宿泊をしたことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(15)ご参照。

  ・乙巳の変で入鹿を倒した中大兄皇子は、その13年後の658年には、皇位継承にかかる難を避けるため市経いちぶ(現生駒市壱分町)の地(「生駒市誌 X」は、無量寺が皇子の皇居という一説もある、と記しています)に閑居かんきょしていた有間皇子を謀略により処刑しました。⇒このことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(11)ご参照

  ・乙巳の変の15年前の630年より遣唐使が派遣され、その第8回(702〜704)には、山上憶良や美努岡萬みののおかまろがいました。なお、1872(M5)年、岡萬の墓誌が大和国平群郡萩原村竜王(現在の奈良県生駒市青山台)の丘陵から出土し、のち、岡萬の墓が建てられました。

  ・乙巳の変の18年後の663年の白村江の戦いの敗北によって高まった、都への緊急の知らせをのろし(烽火・烽燧・狼煙)によって伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から、生駒山地に高見の烽(とぶひ)が設置されました。⇒このことについては、<問2>古来、列島中央部にあってその存在感を示してきた「生駒山」・・・の(1)ご参照   

  律令制が形成されていく中で、律令に基づく土地制度である班田収授制)が実施されていき、これまでの「氏族単位で田畑や山林を占有し使用する」形態からとってかわっていった。

    ()班田収授制・・・戸籍をつくり、そこに載せて受田資格を確認できた人民へ朝廷から『田』(口分田)が班給(田を割り当てて強制耕作させ、徴税・徴兵すること)され、死亡者の『田』は収公(朝廷が没収)される。

奈良時代(710〜794年)

全国的にも、生駒の地でも 律令制が実施された。

 班田農民(口分田を班給された農民)は、税(物納・労役)と兵役の負担が重く、( A )の発布直後から、他郷(他地域)の働き手がほしい有力農民(他の班田農民を支配下に入れて多くの口分田を支配下に入れた有力班田農民)の下にさかんに逃亡した(当然に国司は連れ戻そうとしたがだめだった)。

  ・重い負担で農民の貧窮が進むと、710年に母を亡くし、712年に喪が明けるのを待って農民を救済しようと立ち上がったのが行基でした⇒このことについては、<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人ご参照

  ・712年に古事記が、720年に日本書紀が、それぞれ編纂されました。この2つを合わせて記紀といいますが、記紀には、生駒を舞台とした日本神話(生駒の神話)が記載されています。⇒生駒の神話については、<問1>神話の里(その1)〜生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)〜<問15>神話の里(その2)〜「国生み神話」の舞台〜ご参照。

  ・記紀には、景行天皇とその子のヤマトタケルノミコトが平群の山(矢田丘陵)を詠った国思歌が収録されています。⇒このことについては、<問2>「生駒山」・・・「矢田丘陵」・・・「西之京丘陵」・・・(3)ご参照 

 班田農民の逃亡で田が荒れてきて思うように徴税できない中、743年、税収増をはかって墾田永年私財法が実施されると、土地制度は変質していった。墾田永年私財法は、開墾した土地は私有地にしてもよい(ただし納税はしなければならない)というもので、貴族・大社寺は、重い負担から逃れるために逃亡してきた農民を使って開墾を進めて私有地(これが荘園)を拡大していった(開墾によって拡大した荘園を墾田地系荘園または初期荘園という)。こうして、公地公民(律令制)は崩れはじめ、荘園制度が発生し始めた。

 荘園制度とは、私有地(=荘園)の領主として貴族・大社寺が土地(私有地)・人民を支配する<貴族・大社寺が自己の支配地の人民から年貢を徴収する> 仕組みである(現地で、年貢徴収や管理をおこなった者を荘官といい、領主の家臣が派遣されたり現地の有力農民が任命された)。

律令制の崩壊開始を背景とする政局の混乱

 律令制は構築されて半世紀もたたないうちに、崩壊をはじめた。農民は負担に耐えかねて逃亡し、徴税・徴兵はうまくいかなくなり、多くの農民の貧窮が進む一方で有力農民が出現して貧富の差が拡大し、貴族や大社寺は荘園経営で富裕化していき、当然に社会不安は高まった。このような社会状況は政治運営を困難化させ、政局の混乱と支配層の内紛をもたらした。それらの事件をざっと並べると次の通りである。

 長屋王の変(729年)→藤原広嗣の乱(740年)→橘諸兄の失脚(756年)→橘奈良麻呂のクーデター計画失敗に終わる(757年)→藤原仲麻呂の乱(764年)→道鏡の皇位譲位要求(769年)→藤原百川による道鏡の追放(770年) 

 <東大寺大仏建立の歴史的な背景と意義

 律令制の崩壊開始で社会不安が高まり、政局の混乱が始まると、45代天皇聖武は仏教の教えを遍あまね広めることで平穏な世界を実現せんとし、民衆から菩薩と慕われ絶大な信頼を集めていた行基を740年に招聘して大仏の建立をめざした。行基は、仏教に導かれた延べ260万以上もの民衆の力を結集して大仏建立を推し進めた。ついに大仏は完成し、752年に壮大な大仏開眼供養会が開催された。大仏は、正式名称を盧舎那仏るしゃなぶつ(下に)といい、「宇宙の真理」を万人に照らすことで人々に「平穏な世界」を実現させようという仏である。宇宙の真理とは、「慈(喜びを与える)(苦しみを取る)の実践(苦しみと喜びの共有)により縁起の法すべてのものは互いに支え合っている、との根本法則)の自覚・認識がもたらされ、苦悩を超克することが出来る、というものである。大仏が建立されたからといって平穏な世界(抑圧のない、すべての人々が自由で平等であるがゆえに苦しみのない世界)がすぐに出現するなんてことはない。しかし、大仏は人類の進むべき道を明らかにし、「目指すべき平穏な将来世界」と「苦しみの多い現実世界」との矛盾を生じさせた。矛盾は原動力。大仏は人類の歴史を平穏な世界へと進める原動力の役割を果たしており、今日、かかる大仏は富士山とともに日本のアイデンティティーを形成している。⇒大仏の建立については、<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人もご参照

   (盧舎那仏華厳経に説かれる仏である(このページの「華厳経と盧舎那仏」ご参照)。華厳経と縁起の法の関わりについてはこの記事をご参照。

  ・752年の大仏開眼供養会では、その2年前に逝去していた行基の姿はありませんでしたが、736年に難波津まで出迎えた行基の案内で暗峠を越えて平城京に来京していた菩提僊那ぼだいせんなが、開眼の筆を執り聖武上皇に代わって開眼師を務めました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Hご参照

  ・755年、759年に唐招提寺を創建することになる鑑真が暗峠を越えて平城京に至りました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Bご参照

  ・道鏡が皇位譲位を要求したとき、和気清麻呂はこれに反対し、そのため大隅国に流罪とされ、そこに向かう途上で暗峠を越えました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Aご参照

  ・政局の混乱にもめげず、この時代、進取の気風は失われず先進的な技術・政治制度・文化の習得や仏典等の収集を目的に中国に派遣された第9(717年)〜第17回(779年)の遣唐使の一行が、都の平城京から暗峠を越えて難波津に行き、そこから大陸に出立しました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Jご参照

  ・生駒の地に、長福寺が、その寺伝によると、聖武天皇の勅願で行基により開創されました。このお寺は、15(H27)年7月4日に放映された「ブラタモリ」のロケ地となりました。⇒このことについては、<問19>仏教芸術(建築・絵画)ご参照

  ・生駒の地に、長弓寺が、記録・伝承によると、聖武天皇の命で行基により開創されました(このとき746年、その境内に、鎮守社(そこの土地やそこにある事物を守護する土着の神を祀る神社)として伊弉諾いざなぎ神社も創建されました)。

    ⇒このお寺が建立されたいきさつについては、<問2>「生駒山」・・・「矢田丘陵」・・・「西之京丘陵」・・・の(5)ご参照

    ⇒このお寺にあった三重塔の初層(一階)部分は、現在、東京のプリンスホテル高輪エリアの中心である日本庭園の中核をなしている「観音堂」となっています。このことについては、<問16>仏教芸術(建築)ご参照

  ・この時代の末期、日本に現存する最古の和歌集である万葉集が成立しました。そこには、生駒山を詠った和歌が7首収められています。⇒このことについては、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(8)ご参照

  ・万葉集には、柿本人麻呂生駒・葛城の連山を詠った和歌も収められています。⇒このことについては、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(9)ご参照

  ・万葉集には、平群の山(矢田丘陵)を詠った長歌が収録されています。⇒このことについては、<問2>「生駒山」・・・「矢田丘陵」・・・「西之京丘陵」・・・(4)ご参照 

平安時代(794〜1185年)

 荘園での農民の負担(年貢)は班田農民のそれより軽かったので、税負担(物納・労役)に苦しむ班田農民は、荘園という逃げ場ができると、そこに逃走する者があとを絶たなくなり、902年の延喜の荘園整理令(口分田の復活をめざす)の失敗をもって、維持不可能となった班田収授制は強制終了した<下記の資料ご参照>。以後、これまでに班給された口分田は実質上農民の私有地となっていき(ただし、国司から税は徴収された)、「公地(公領)」は、やがて、いわば「朝廷を領主とし国司を荘官とする荘園」となっていった(ただし、これは、貴族・大社寺を領主とする荘園と区別するため国衙領こくがりょうと呼ばれる)。なお、班田収授制が崩れだすと、天皇は冨を確保するため、9世紀初めから、勅旨田ちょくしでん(勅旨、つまり天皇の命令で設置される田)という名の皇室領(いわば、天皇を領主とする荘園)をさかんに拡大した。

   <資料>吉備国(現岡山県)の邇磨(旧名 二万)郷にまごうの朝廷への納税人口調査の残された記録

  660(皇極6)年 約20,000人<徴兵数>→765(天平神護1)年ごろ 1,900余人→860(貞観2)年頃 70余人→893(寛平5)年 9人→911(延喜11)年 0人<約20,000人いたこともあった朝廷への納税農民が、約250年の間に、すべて荘園支配下に入った。>

 荘園は、当初は、皇室領を除いて免税地ではなかったが、9世紀の末には、貴族・大社寺の荘園は、不輸の権(租税を、一部または全部、一時的にまたは永続的に、納めなくてもよいという特権)を獲得し、11世紀からは不入の権(役人を入らせなくてもよいという特権)も獲得して、荘園は朝廷から半ば独立的な存在となった。ここに荘園制度は、貴族が領主である荘園が、貴族が牛耳る朝廷から半ば独立的な存在となるという矛盾した土地制度となった。矛盾が歴史を動かす。これ以降、日本の歴史は、現地の支配者として台頭した武士が、中央(現地から遠く離れた都)の支配者(貴族)とそれと結ぶ大社寺から領主権を奪うことで、この矛盾を解決していく歴史となる。

 農民の中でも武装してやがて武士となっていく有力農民は、小農民を支配下に入れて盛んに開墾をおこない開発領主(在地の小領主/土豪などともいう)となり、国司からの税徴収を免れるために、上級領主(貴族・大社寺)に領地を寄進し、いわばみかじめ料をはらって下級領主(下級領主権=現地での支配権を保持)となり、荘官(荘園内の年貢徴収・管理人)になった。このようにして拡大した荘園を、寄進地系荘園といい、10世紀ごろから増加した。

 以上のような動きは、857年に( B 良房が初めての人臣じんしん(皇族以外の人間)摂政となって開始し969年の安和の変ののちに摂関(摂政と関白)が常置されて本格化して1086年の院政開始まで続いた( B )氏の摂関政治による天皇権力の弱体化(=公地公民意識の一層の希薄化)の下で進行した。院政は承久の乱(1221)まで続く。なお、( B )氏は、院政開始後も一定の政治力を保持し、鎌倉時に入って5摂家に分立するも没落することなく、公家社会では一定の影響力を持ち続け、政治の中枢とは隔絶したまま明治に至る。⇒( B 良房については、<問24>生駒ゆかりの諸群像(9)ご参照

生駒の地でもこの時代、以下のように荘園制度で覆われていった

 <( B 氏の氏寺である( C )は、( B )氏の権勢の庇護の下で勢力を全国化させ、大和一国も支配下に治め、生駒の地も次のようにその支配下に置かれた。この土地・人民支配体制は、「戦国時代=下剋上という世直しの時代」まで長期にわたって続いた。>  以下、生駒の地図.jpgを見ながらお読みください。

(1)高(鷹)山谷(富雄川最上流)では、( C )の荘園として鷹山庄が成立 

    ( C  )は2つの院(一乗院と大乗院)で構成されていて、その最高職である別当は、両院の門主が交互に就任する習わしとなっていたが、鷹山庄は一乗院の支配地となった。鷹山庄は( C  )雑役免田ぞうえきめんでん、との記録が『( C  )雑役免帳』に残されているが、雑役免田とは、国衙こくが(その地域を治める役所)に納める生産物一般農産物や特産物・雑役(各種の労役)のうち、雑役を免除されて生産物だけを納める田地のこと。当時は、生産物の物納より労働力を奪われる雑役を強制される方がはるかに苦痛であった。

(2)鳥見谷(富雄川上中流域)では、( C  )の荘園として鳥見庄が成立

    鳥見庄が拡大すると、時期は不明だが、上鳥見庄かみつとみのしょう(現生駒市上町・鹿畑町とその周辺/伊弉諾いざなぎ神社が鎮守/遺跡)・中鳥見庄なかつとみのしょう(奈良市三碓町とその周辺/添御県坐そうのみあがたにいます神社が鎮守)・下鳥見庄しもつとみのしょう(奈良市石木町とその周辺/登弥とみ神社が鎮守)の3つに分かれ、順に、大乗院仁和寺御室おむろ(出家した天皇の住居)領、( C  )西金堂さいこんどう領となった。

(3)生駒谷(竜田川流域)では、12世紀前半(院政前期)、開発領主が、虎の威を借って土地支配を安定化させるため私領を一乗院に寄進して荘園が成立(生馬庄)。この荘園は、鎌倉時代前期、現地支配権(領主職しき)が3分の2と3分の1に2分され、二分方一分方という区分ができた。後者では、「壱分」という地名が現在も残っている。現菜畑駅東100mの十字路は「傍示ほうじふだを立てて、ここが境であることを示すこと、また、その場所の辻」といっていたが、そこが両者の境であり、そこから北側一帯が二分方であった。

  ・平安初期の8世紀末ごろ、若き空海は生駒山中の般若窟(都史陀山大聖無動寺としださんだいしょうむどうじ)で修行しました。⇒これについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像(14)ご参照 

  ・平安初期に成立した歌物語「伊勢物語」には、生駒山を詠んだ和歌が登場します。⇒これについては、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(1)ご参照

  ・平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き(1162〜1241)、2つの勅撰集「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」や小倉百人一首を撰進した藤原定家は、生駒山を和歌に詠っています。⇒これについては、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(2)ご参照

  ・定家より約40歳年上の西行(1118〜1190)も生駒山を和歌に詠っています。これについては、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(10)ご参照

荘園制度が展開されていく中、

 貴族の生活は豪華になっていく一方、農民の負担は続いて社会不安は高まり、盗賊も横行するようになった。それと共に、都で暮らし甘い汁だけを吸ういわば社会の寄生者となった貴族への批判が高まる中で、多くの荘園の有力農民は武装して武士(貴族・大社寺のように「権威や特権に頼る」のでなく、「<自力=実力(武力)>に頼って」私有地を拡大せんとする者)として台頭し、武士団を形成。一方、国衙領(公領)においても、多くの守かみ(一等官の国司)や介すけ(二等官の国司)が遥任(現地には赴任せず都に住んで任国からの収益を吸うだけの者)となる中で、現地に赴いた守やそれより下位の国司の中には、現地に土着して武士団を形成して勢力を張るものが出て、各地の武士団を糾合して棟梁となるものも出現した。それが平氏と源氏である(平氏と源氏の興りご参照)。こうして、社会の底辺から実力が物をいい始める傾向が出てくると、10世紀後半より、大社寺も、興福寺・延暦寺のように自らの荘園守るために独自の武力(=僧兵)を組織していった。

古代から中世へ

 1086年の院政開始で摂関家<( B )氏のこと>による摂関政治が終わると、院政の下で、皇室と摂関家の対立、そのそれぞれの内部対立がおこり、やがて、各勢力が平氏と源氏の武力を頼りに抗争するようになり、保元の乱(1156年7月1日)・平治の乱(1160年1〜4月)が起こった。これらの乱を通じて武士が台頭し、1167年頃〜1179年にかけての平氏政権が成立していく時期を経て、1180〜1185年の源平合戦(治承・寿永の乱が起こり、それに勝利していく源氏が、関東御料関東御分国関東御口入地という広大な荘園・国衙領を財源とする武士の権力機構として1180年〜1192年にかけて鎌倉幕府を成立させ、公(朝廷・貴族・大社寺)と武(武士)の2権力が並立することとなった。

続き