2017年02月27日

<問24>生駒ゆかりの諸群像  

)1930年代前半、生駒山頂上の住宅地設計をした人がいます。この住宅地設計を「生駒山嶺さんれい小都市計画」といいます。その人は、1933年にドイツでナチス政権が誕生すると日本に亡命し、3年半の滞日中に各地を歩き、日本の伝統的建築や民俗的美意識を高く評価して日本美を再発見し、「ニッポン」「日本文化私観」「桂離宮」などの著書を著し、日本文化について優れた文章を残しました。この人は、日本に来る前にはドイツで多くの住宅を設計し、そのいくつかは、後の住宅建設に大きな影響をあたえたことから世界文化遺産に登録されています。この著名な建築家はだれでしょう。


)下に記した文は、宇野浩二の小説「△△△△△」からの引用文です。△△△△△には著名な小説家の氏名が入ります(漢字5字)。その小説家とはだれでしょう。<問23>の答と同じ人物です。なお、引用文の〇〇には、その小説家の姓のみが入ります。引用文を読むと、大衆文学の新人作家に贈られる直木賞の由来である直木三十五と、純文学の新人作家に贈られる〇〇賞の由来である△△△△△とが一緒に生駒に遊行していたことがわかります。


 ・・・・・妙な事をいう、とは、思ったが、私は、床とこを出て、支度をし、〇〇も支度をした。そうして、「では、行きましょう」という直木(引用者:直木三十五)のあとについて、私たちは、その茶屋を、出た。ところが、すぐ近くだ、と思ったのが、自動車にのせられ、上本町六丁目にゆき、そこから、奈良ゆきの電車にのせられ、生駒駅でおろされた。・・・・・生駒山は、海抜は二千尺ぐらゐであるが、金剛山脈の北部を占める生駒山脈の主峰であり、河内と大和の境にそびえる山である。二千六百年の昔、勇敢な神武天皇も越えられなかった、という伝説の山である。大阪から真東にある奈良まで行く電車がなかなかできなかったのは、この大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかったからである。数年の歳月と巨額の金額をつひやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった。・・・・・この生駒山の山腹の東側に、『生駒聖天』として名高い宝山寺がある。・・・・・その宝山寺にまゐるために、生駒駅から宝山寺までケエブル・カアができた。さうして、ケエブル・カアができるとともに、そのケエブル・カアの停車場の横から、ケエブル・カアの通じる坂にそうた道に、アイマイな茶屋が十数軒あらはれ、そのアイマイ茶屋のために、アイマイ芸者が五十人ちかく集まって来た。直木が、「しづかな所」と称して、〇〇と私を案内したのは、このケエブル・カアの停車場のちかくの、ちょっとした茶屋であった・・・・・。


)次の経歴を持つ、著名な学者は誰でしょう。

 生駒山をはさんで生駒市の西隣の大阪府枚岡市(現・東大阪市)で62(S37)年9月に生まれ、小学3年生のとき生駒市の東隣の奈良市の学園前に転居。中学・高校時代は、生駒山を東西に貫くトンネルを走り抜ける近鉄電車に学園前駅で乗車して大阪に通学。高校生のとき、父から医師になることを勧められたものの、将来の進路に迷っていた。しかし、現在、生駒市立病院の指定管理者である徳洲会の理事長である徳田虎雄氏の著書「生命だけは平等だ」を読み、徳田氏の生き方に感銘を受けて医師になることを決意、神戸大学医学部に入学。卒業後、国立大阪病院整形外科で臨床研修医として勤務したが、研究者を志して退職し、大阪市立大学大学院に入学。在学中、米国グラッドストーン研究所に留学。帰国し、大阪市立大学薬理学教室助手に就任。しかし、研究がうまくいかず、科学雑誌で見つけた、生駒市にある奈良先端科学技術大学院大学(先端大)の公募に「どうせだめだろうから、研究職を辞めて臨床医に戻るきっかけのために。」と考え応募したところ、99(11)年12月に助教授に採用され、研究を再開、iPS細胞の開発に成功した(なお、現在は先端大の最寄り駅は近鉄けいはんな線北生駒駅だが、同線が未開通の当時、先端大は近鉄学園前駅とバスで結ばれていた)。03(15)年9月に教授になったが、翌年、京都大学に移った。06(H18)年8月、米学術雑誌セルにマウスの細胞からiPS細胞を作成することに成功したことを報告する論文を掲載。この論文が直接のきっかけとなって、12(H24)年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。


)下に記した文で始まる「満月と近鉄」という短編小説は生駒を舞台としています。この作品を書いた小説家を次から選んでください。なお、この作品には、<問22>の答である小説家かと思わせるような長脛ながすね君が登場します。

     万城目学  仁木英之  前野ひろみち  森見登美彦


 若い頃、生駒山の麓で仙人のような暮らしをしていたことがある。十八の春から夏にかけてのことで、今から二十年近くも昔のことになる。私が暮らしていたのは、近鉄生駒駅から「ピックリ商店街」を抜け、宝山寺の参道を五分ほどのぼった「蓬莱荘」であった。


大佛おさらぎ次郎賞は、優れた散文作品に贈られます。その42回目(2015年度)は、生駒市在住詩人の回想記「朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ」に贈られました。この詩人は誰でしょう。次から選んでください。

    金石範キム・ソクポム  李恢成イ・フェソン  金時鐘キム・シジョン  柳美里ユウ・ミリ  梁石日ヤン・ソギル


)生駒山の麓に住まいする詩人の貞久秀紀さだひさひでみちさんは、98(H10)年に「空気集め」という詩集で、 詩壇の芥川賞と呼ばれる賞を受賞されました。この賞の名前は何でしょう。次から選んでください。

       H氏賞  O氏賞  Z氏賞  A氏賞  N氏賞


)次の文は、「紫障子」という文学作品の紹介記事です(・・・・・は省略部分)。〇〇〇にはこの作品の作者名が入ります。この作者(漢字3字)は誰でしょう。


 ・・・・・猿沢池・・・・の池畔にたたずむ旅龍はたごでの情景が、濃密な怪談への発端となる小説がある。〇〇〇の「紫障子」。〇〇〇が奈良を舞台にした唯一の作品・・・・・。特殊な信仰や伝説から濃厚な怪異譚かいいたんを編む〇〇〇のスタイルは、この作品でも存分に発揮されている。・・・・・作中で京の芸舞妓げいまいこらが、より妖艶ようえんたらんとして執り行うとされる蛇神の秘儀は、上方の花柳界に伝わる「巳みいさん信仰」(引用者 : 蛇神信仰のこと)と、花街からの信仰も厚かった奈良・生駒山宝山寺の「浴油供よくゆく」がベース。〇〇〇はそこから「今昔物語集」の纐纈城こうけつじょう伝説を連想したらしい。人間を太らせ、脂や血を搾り取るという説話だ。・・・・・舞台となった勝手屋のモデルは定かでないが、五重塔が映る猿沢池は当時のまま。浮世を逆さまに映す鏡のような水面に、〇〇〇は何を見たのだろうか。〜都ものがたり 奈良「〇〇〇 猿沢池畔を舞台に執筆」<朝日新聞/17(H29).6.8>〜


)次の文は、「新詳説 日本史 改訂版」(山川出版社/94.3.5発行)の中の、鎌倉仏教について述べた文です。(  )には、生駒にゆかりがある(遺言により、分骨を埋葬するお墓が生駒山東稜の竹林寺の行基の墓に並んである)人物の名前(漢字2字)が入ります。その人物の名前は何でしょう。<行基については、問3をご参照>

 このような新仏教に刺激され、旧仏教側も新たな動きをみせた。鎌倉時代の初めころ、法相宗の貞慶や華厳宗の高弁は、戒律を尊重して南都仏教の復興に力をそそいだ。ややおくれて律宗の叡尊や(  )らは、戒律を重んじるとともに、貧しい人々や病人の救済・治療などの社会事業にも献身し、多くの人々に影響を与えた。(  )は奈良に病人の救済施設北山十八間戸きたやまじゅうはちけんどを建て、施療や慈善につくした。(太字は原文による)

)次の文は、生駒を出自(本貫)とする生駒氏の略歴を記したものです。(  )には、生駒にゆかりのある人物の名前(漢字4字)が入ります。その人物の名前は何でしょう。

 平安時代、藤原氏一門の四家系のうち北家が着実に勢力をのばし、藤原北家の(  )は、858(天安2)年、その外孫清和天皇が9歳で皇位につくとその摂政となった。皇族以外のもの(人臣)で摂政になったのはこれがはじめてであった。こうして(  )は、人臣摂政の先例を開くことで摂関政治成立への道を開いた。(  )は、現在の生駒市である大和国平群郡生駒郷(生駒庄/生駒邑むら)に山荘を営んでここを根拠地とし、のち、その5代子孫、つまり、その孫左大臣時平の曾孫の信義が、藤原氏の荘園となっていた生駒庄の荘官(荘園内の年貢徴収・管理人)となって生駒郷谷口村に土着し、やがて、その生駒藤原家は生駒氏・生駒家を称した(生駒藤原家が、生駒在住時代に生駒氏・生駒家を名乗り始めたのか、尾張に移り住んでから名乗ったのかは定かではないが、生駒氏は藤原北家の末裔といえる)。生駒氏は、応仁の乱が拡大すると、身辺の危険を感じ、家広のころに戦禍を逃れて、1475〜1476(文明7〜8)年ころ、前野將右衛門を頼って交通の要所たる尾張国丹羽にわ郡小折こおりに移住し、生駒氏の名の通りの馬借ばしゃく(馬を用いた広域輸送業)油売り(あの斎藤道三はこの業で国盗りを実現する力をつけた)や灰(染め物の原料)売りの商圏を飛騨から東三河にまで拡大するなど尾北の豪族(武家商人)として大いに勢力を張り、小折城ともいわれる小型の城郭である生駒屋敷を構え、尾張生駒氏三代の家宗(いえむね )の時に織田信康(信長の叔父)に仕えるようになり、のちには、信長に仕え、その経済力と情報収集力で信長を支えた。尾張平定、桶狭間合戦、犬山城攻め、西美濃攻めの諸戦略は、商圏の要であり多くの食客も往来するがゆえに諸国の情報が集まる情報基地でもあった生駒屋敷で練られ、その戦いの費用は生駒家によって賄われ、信長がいち早く大量に鉄砲を調達できたのも生駒氏のおかげであり、信長の天下布武への道は生駒屋敷が起点となった。陸の物流業である「馬借」を営む生駒氏は川の物流業を営む川並衆とは交流があり、その関係で、川並衆とされる藤吉郎(のちの豊臣秀吉)や蜂須賀小六が生駒屋敷に出入りしていたが、藤吉郎が、信長が恋に落ちた家宗の娘の吉乃きつのに信長への仕官を求め仲介を依頼したことや草鞋を懐で温めて信長に差し出したことや蜂須賀小六との絆を強めたことなどは、信長が、吉乃との逢瀬を楽しみ、情報を入手するために頻繁に通っていた生駒屋敷(信長本拠の清洲城から約15kmにあり、馬を飛ばせば約1時間)でのエピソードである。なお、生駒屋敷に住み生駒の方と呼ばれた吉乃は、信長の嫡男・二男・長女をもうけた。生駒氏は、本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の九州征服時、讃岐国西部61000石の大名となり、四国平定後には讃岐一国17万3000石を与えられ、本城の高松城を築城し支城の丸亀城を改修、豊臣家三中老(五大老と五奉行との意見が合わないときの仲裁役の一人とされ、また秀頼の補佐役としても重きをなした。関ヶ原の戦では、真田家と同様のやり方で家門の存続を図るため、生駒親正ちかまさは西軍に属す一方、その子の一正かずまさは東軍につき、父からの遺封(受け継いだ所領)を本領安堵されたが、その孫高俊たかとしのとき、徳川3代将軍家光在位の1640(寛永17)年、家臣の対立から生駒騒動と呼ばれるお家騒動が起こり、領地を没収され、出羽国矢島やしま(現在の秋田県由利本荘市矢島町)1万石に改易された。のち、財政上から封地分封(領地の分割相続により分家をつくること)して旗本(1万石未満)となり、交代寄合衆(旗本ではあるが大名なみの処遇を受け参勤交代の義務があった)として幕末に至った。幕末の秋田戦争で生駒氏は奥州列藩同盟を離脱して新政府方として戦い、1868(明治1)年、親敬ちかゆきは新政府に忠誠を誓って矢島藩15000石を興こし、廃藩置県後、男爵に列せられた。なお、近年、秋田の名産品として脚光をあびている生駒塗の創始者である生駒弘・親雄ちかおさん親子は、出身地は由利本荘市で、祖先は四国高松城主(藩主)の生駒公といわれている。また、女性アイドルグループの乃木坂46のメンバーで、1stシングルから5thシングルまでと12thシングルのセンターを通算約1年8か月つとめた生駒里奈さんも、由利本荘市の出身である(生駒里奈さんは生駒氏の末裔とのうわさがあるが、それについては、ご自身も所属事務所も何も表明をしていない)。古文献「物部文書」には、生駒の神話の準主人公の饒速日命ニギハヤヒのみことと同名の神が、由利本荘市の「鳥見山とりみやま(現在名は鳥海山)の潮の処(山上?)」に降臨したと記されている。この点でも由利本荘市は生駒市と縁のあるところである。

10)次の文は、ある小説家の著作「関が原」の中の文です。この文に登場する生駒山地の中央部にある暗峠を東西に越える街道を暗越奈良街道(現国道308号)といいますが、この街道を暗峠から大阪側に下った付近にこの小説家の記念館があります。この小説家の名前を答えてください。(文中の・・・・・は中略部分)

 花が散って、青葉になった。峠道である。ひとりの伊賀者が、赤埴あかはにの坂をのぼりながら深編笠ふかあみがさの武士のあとを見え隠れにつけている。名を、源蔵。山伏の姿に扮していた。源蔵は徳川家の伊賀同心のひとりで、家康の謀臣本多正信から、「つけて、こまかく報告せよ」と命ぜられていた。・・・・・深編笠のぬしは、初老をとっくに過ぎているくせに、足がはやい。ぶあつい肩と、弾機ばねのような腰をもっていた。石田三成の謀臣島左近である。・・・・・三成の動きは、左近を注視していればいい、と正信はおもい、徳川家の伊賀、甲賀同心のうちから五十人を選りぬいて江戸から上方によびよせ、ほとんどこのことにかかりきらせていた。源蔵は・・・・・ずっと尾行している。左近は、伏見から淀川くだりの船に乗り、大坂についた。・・・・・大坂城の南側にある自分の屋敷の門前を通りすぎてしまい、城の王造口から高井田の宿に出、そこで一泊した。翌早暁そうぎょうに宿を出立した。とっとと東へゆく。目の前に、生駒・葛城のなだらかな連山がみえる。それを越えれば大和の国である・・・・・。峠の名は、暗峠といわれる。雑木の枝が鬱然と道をおおい、緑の洞穴ほらあなをゆくようであった。河内枚岡からのぼり、越えれば、大和盆地がみえるはずである。坂は、けわしい。尾行しながら、源蔵は相手にいささかも気づかれていない自信があった。芸もこまかく淀川くだりの客船のなかでは白衣を着て不動講の女行者になっていたし、大坂に入って河内高井田の宿でとまったときには、膏薬陀羅尼助こうやくだらにすけ売りになり、高井田を出てからは、山伏の姿にもどっている。峠の頂上は、櫟林くぬぎばやしになっており、青葉に午後の陽が映えて、歩いてゆく源蔵の肌があおあおと染まるようであった。尾行は成功している。・・・・・登って曲り角にくると、路上に編笠が落ちている。(おや、左近の笠ではないか)と、拾おうとした・・・・・とき、背後の、それもほんの耳もとで、「手数をかけている」と、低い声がした。あっ、と思ったが、体が動かない。・・・・・「御坊、よい道づれができた。大和へ参られるならば、いっしょに峠をくだろう」「は、はい」源蔵は、編笠を手渡した。・・・・・眼下に大和盆地がひらけている。左近は、源蔵に語っている、というふうでなく、ひとり、時勢にむかってうそぶくようにいう。「・・・・・天性陽気な太閤は伊賀甲賀の忍びなどは使わなかった。そのことで太閤は後世まで人々に好かれ、家康殿は、後世まで人柄の暗さを残すだろう」源蔵は、だまってついていく。・・・・・「わしはいま、奈良へゆく。そこで岳父が病気で臥ている。妻がそれを見舞っている。わしは奈良へ行ってちょっと病床を見舞うべく、暗峠を越えているのだが、そのわしに、山伏に変装した家来を尾行させる。なんと暗い男なのか、家康とは。――」・・・・・左近が、奈良の町に入ったのは、夜更けである。・・・・・左近が、翌早暁、奈良を離れ、昼さがりには、北庵法印からかりた馬に乗って例の暗峠を西に越えていた。「供をつけよう」と北庵法印がいってくれたが、かたくことわり、一騎だけで赤土の峠道をかつかつと踏んでゆく。ちょうど峠をのぼりつめようとしているころ、その上の峰で、五人の男が、左近が眼下の道にさしかかってくるのを待っていた。ひとりは、徳川家の伊賀同心源蔵である。他はその仲間で、家康の天下簒奪の密謀の手足になるために江戸から京・伏見に移駐している集団であった。みな、猟師のなりをしていた。鉄砲が三挺さんちょうに半弓が二張ふたはり、それらを手に手にもって、松の下の萱かやのかげにかくれている。・・・・・「来た」と、一人がいった・・・・・。

11)下の文は、生駒ゆかりの皇子おうじ・みこについて述べたものです。文中の(  )に入る人名を次から選んでください。なお、人名は生まれた順に記載しています。

  田村皇子たむらのおうじ  古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ  大海人皇子おおあまのおうじ  有間皇子ありまのみこ  大友皇子おおとものおうじ  高市皇子たけちのみこ  草壁皇子くさかべのみこ  大津皇子おおつのみこ

 (  )は、640年、軽皇子かるのみこの子として生れた。6457月の乙巳の変いつしのへんの2日後、軽皇子は、姉である皇極天皇の日本史上初の譲位により即位して孝徳天皇となった。天皇は甥(皇極天皇の子)の中大兄皇子なかのおおえのおうじを皇太子にし、大化の改新と呼ばれる事業を進めたが、晩年、中大兄皇子に離反され、65411月、失意のうちに病死した。翌年の2月、皇極天皇が再び斉明天皇として重祚じゅうそ(一度退位した天皇が再び天皇になること)したが、(  )は、皇位継承にかかる難を避けるため市経いちぶ(現生駒市壱分町)の地<>に閑居かんきょし、父の事業を継承する計画を立て、それを実行する機会を待った。しかし、中大兄皇子の謀略にはめられて、その腹心である蘇我赤兄そがのあかえに計画の相談をしてしまい、その6日後、皇子は紀伊国藤白坂ふじしろのさか(現和歌山県海南市藤白)で絞首刑に処された(65812月)。

    <>「生駒市誌」の注では「市経は一分の事で無量寺の裏山廉尾山のあたり。ここに御門(みかど)御所藪(ごしょやぶ)などの地名がある。」としている。

 このような謀略と悲劇を「日本書紀」は述べていますが、「ある本によると」と前置きして、次のことを記すことも忘れていません。

 (  )が「水軍(=武力)を使えば、計画の実現は成り易い」と述べたところ、ある人が諫めて「よくないことです。計画はそれとしても徳がありません。皇子は今十九歳です。まだ成人もしていません。成人されてから徳をつけるべきです」といった。

 (  )が処刑されて3年後の6618月に斉明天皇が死去すると中大兄皇子は称制(次代の天皇となる者が即位せずに政務を執ること)し、66310月、大規模な水軍を朝鮮半島に進攻させ、大敗を喫し、おびただしい犠牲者を出しました(白村江の戦い)。

 聡明な(  )の計画が成就して徳のある天皇が即位していれば、中大兄皇子(6682月に天智天皇として即位)の武力にたよるという愚策(=戦争)によって沢山の人々が犬死することはなかったのです。

 なお、中大兄皇子と共に朝鮮半島進攻を準備し、前線基地のある筑紫にきていた斉明天皇が朝倉宮あさくらのみや(現福岡県朝倉市にあった邸宅)で急死した(日本書紀は死因を明らかにしていませんが、筑紫君磐井の残党に討たれ、邸宅も焼かれたとの説があります)とき、「朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。」との、武力行使を肯定する(=徳のない)者へ批判的な視点を日本書紀は、ここでも記しています。

 <お断り:(  )が排除されたのは、蘇我赤兄の単独謀略説もありますが、中大兄皇子の謀略説の方が正しいとの判断の上に立って問題文を作成いたしました。>

12)次の文は、生駒ゆかりの公慶上人の偉業について述べたものです。(  )に入る人物名をお答えください。

 鷹山氏の末裔である公慶上人は、3歳のときに、1648(慶安元)年に生まれた丹後から父とともに、奈良の興福院にある縁故をたどって奈良に戻り水門町に居を定め、13歳のとき東大寺に入り、公慶と称しました。成長し、鷹山氏も参陣した東大寺大仏殿の戦いによって焼き落ちた大仏・大仏殿を再興することを決意し、1684(貞享元)年、幕府に大仏修復を願い出ましたが、幕府は協力を拒否、そこで、幕府の許可を得て、全国での勧進(寄付募集)を開始し、翌年、修復に着手、その翌年には、父祖の故地の高山(現生駒市高山町)にある鷹山氏の菩提寺であった法楽寺で大仏修復成就の祈願をしました(「立願状」が同寺に残っています)。

 そんな中、元禄2(1689)12 月、漂泊の俳人( ➀ )が東大寺を訪れ、このときの大仏の様子を俳句に詠みました。初雪やいつ大仏の柱立て〜初雪が痛々しい大仏様の頭にかかっている。大仏殿の再建はいつ実現することだろう〜(柱立ては、建築の際、最初の柱を立てること)

 ( ➀ )が心配する中、着々と大仏の修復が進められ、ついに修復が完了、元禄5(1692)年、大仏開眼供養が盛大に営まれました(38日から48日まで1カ月間。12800人の僧が参列。期間中、30万を超える人々が奈良を訪れ、奈良全体が未曾有の賑わいをみせました)。

 次は、大仏殿の再建です。ここに至って、上人の功が認められ、第5代将軍( A )とその母桂昌院けいしょういんからの支援を受けることがかない、ようやく宝永2(1705)313日、大仏殿の屋根を支える大虹梁だいこうりょう(虹のように中央を反り上げた梁)が柱上に据えられるという最も重要な工事までこぎつけ、翌月の410日、大仏殿上棟式じょうとうしきが執り行われました。

 しかし、上人は、大仏殿の再建が事実上幕府の事業となったにもかかわらず、民衆と大仏との“結縁”の機会を広めるため日々勧進して再建成就まで横になって寝ないとするなどの無理がたたって、同年712日、58歳で幕府に感謝の意を伝え病を得た綱吉の母を見舞うために来ていた江戸で客死し、東大寺に運ばれ、その近在に埋葬されました。

 上人の死を弔うべく事業は進められ、ついに宝永5(1708)年、大仏殿の再建はなり、翌年の宝永6(1709)年、落慶法要が大規模に執り行われました(321日から18日間。期間中、18万もの人々が奈良を訪れました)。

 東大寺の公慶堂に上人の座像が安置されていますが、その両目は赤く彩られています。生前「大仏殿が再建されるまでは横になって眠らない」と誓ったためだと伝えられています。<「生駒の歴史と文化」より引用>

 思えば、生駒ゆかりの人物(行基)が心血を注いで建立した東大寺の大仏・大仏殿を、生駒ゆかりの人々(鷹山氏)が崩壊せしめ、そして、生駒ゆかりの人物(鷹山氏の末裔たる公慶上人)が、生涯をかけて再興し、先祖の誤りの大きな傷あとを命と引き換えに回復したのでした。また、奈良を「世界の奈良(日本全国からはもちろん、世界各地からも人々を呼び寄せる奈良)」たらしめているのは東大寺の大仏・大仏殿です。文字通りの命を懸けた上人の行動がなければ、今の奈良はなかったのです。また、今日の日本のアイデンティティーを形成しているのは富士山と東大寺の大仏です(と言っても許されるでしょう)。それを思うと艱難辛苦を乗り越えて偉業を達成した公慶上人への感謝の念が沸き起こってくるのを止めることができません。

13)下の文は、生駒ゆかりの王おうについて述べたものです。文中の(  )に入る人名を次から選んでください。

   山背大兄王やましろのおおえのおう  弓削王ゆげおう  高坂王たかさかおう  長屋王ながやおう  美努王みのおう

 (  )は、31代天皇用明の子で33代天皇推古の摂政たる聖徳太子の子として生れた(生年不明)。64111月に34代天皇舒明が亡くなると、その皇后が6422月、35代天皇皇極として即位した。大臣おおおみ(天皇を補佐して執政)の蘇我入鹿は、舒明天皇と蘇我馬子(入鹿の祖父)の娘の子(入鹿の従兄弟)の古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこを次期(36代)天皇にするためには(  )を排除する必要があると考え、642年12月、その住まいである斑鳩宮いかるがのみや(現法隆寺東院の所在地にあった邸宅)に派兵した。(  )は、側近者が一人当千いちにんとうせん(一人で千人を相手にするぐらい強いこと)の防戦をする隙に、一族を連れて脱出し、生駒山に隠れた(「生駒市誌」は、般若窟(ミラー)近傍の生駒山中としている)。入鹿軍は生駒山を捜索したが見つけ出すことはできなかった。4、5日ののち(  )たちは、密かに山から出て斑鳩寺斑鳩宮に接して建立されていた/現法隆寺)に戻り、兵が寺を包囲する中、(  )は戦うことなく一族諸共に自決した。おりから大空に五色の幡はたや絹笠きにがさが現われ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった。仰ぎみた多くの人々が嘆き、入鹿に指し示した。すると、その幡や絹笠は、黒い雲に変わった。

 このような皇位継承争いによる悲劇を「日本書紀」は述べていますが、次のことを記すことも忘れていません。

 生駒山中に隠れているとき、側近が進み出て、「どうか深草ふかくさ(現京都市伏見区深草)屯倉みやけに行って、ここから馬に乗り東国に赴き、上宮かみつみや(聖徳太子の家系の通称)乳部みぶ・みぶべの民をもとに、軍をおこし引き返して戦いましょう。そうすれば勝つこともむつかしくはないでしょう」とお勧めした。(  )は答えて、「お前の言うようにしたら勝てるだろう。しかし自分は十年間、人民を労役に使うまいと心にきめている。自分の一身上のことがもとで、どうして万民に苦労をかけることができようか。また人民が私についたために、戦いで自分の父母をなくしたと、後世のちのよの人に言われたくない。戦って勝ったからといって丈夫ますらおと言えようか。おのが身を捨てて国を固められたら、また丈夫と言えるのではなかろうか」といわれた。

 また、兵が斑鳩寺を包囲しているとき、(  )は側近を通じて兵を率いる将軍らにつげさせ、「自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つを入鹿にくれてやろう。」といわれた。

 実力(=武力)によって(  )を倒した入鹿は、その1年半後の6457月の乙巳の変いつしのへん34代天皇舒明35代天皇皇極の子の中大兄皇子に実力(=暗殺)で倒されます。その中大兄皇子(6682月に38代天皇天智として即位)は更に645年9月に異母兄の古人大兄皇子を謀殺し、入鹿暗殺の加担者でありながら邪魔になった蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかわまろ649年に殺害した、672年1月に同母弟の大海人皇子おおあまのおうじ側に暗殺されたとの説があり、子の大友皇子おおとものおうじも母の身分が低い(伊賀の采女うねめ)ためなかなか即位の儀式を挙げることが出来ない(そのため1870年になってからやっと明治政府によって39代天皇弘文として歴代天皇に列せられた)まま6728月に大海人皇子(6733月に40代天皇天武として即位)に実力(=武力)で倒されました(壬申の乱)。その天武天皇は、おのれの死が、自らがおこなった壬申の乱のような「実力(暴力)」=「武力・暗殺・謀略死等何らかの強制力」による皇位継承争いが再現されるのを心配をしながら68610月に死去しましたが、やはり、その3人の皇子みこ(父は同じだが母はいずれも異なる/第1子高市皇子・2子草壁皇子・3子大津皇子)はすべて、実力を行使されての死、または、その疑いがある状態での死を余儀なくされ(天武天皇の3人の皇子ご参照)、次いで、高市皇子の子も軍を差し向けられて自害に追い込まれました。

 実力(=暴力)を用いてことを運ぶことを拒否する精神(非戦・避戦の精神)を持つ(  )が即位していたら、その後の暴力の連鎖はなかったのです。

 <お断り:(  )にかかる事項については諸説あるものもありますが、日本書紀の記載に従って問題文を作成いたしました。>

(14)次の、生駒ゆかりの人物は誰でしょう。

 774年、讃岐国多度郡で生まれ(誕生月日不明)、788年に平城京に上り、792年の18歳のころに大学寮に入ったが、そこでの勉学に飽き足らず、19歳を過ぎたころから山林修行に入り、24歳のころに儒教・道教・仏教の比較思想論でもある「三教指帰さんごうしいき」を著して三教のうち仏教が優れていることを説き、入唐までの間、吉野の金峰山や四国の石鎚山など各地のほか、生駒山中の般若窟でも修行を積んだのち、まだ無名のまま804年の30歳のころに、当時すでに仏教界に確固たる地位を築いていた最澄と共に遣唐使として中国に渡り、長安に入って密教(言葉・文字で表示される教えである顕教ではなく、加持祈祷等の実践をしないと表れない教え)の教授を乞うたが、すでに過酷な修行を積んでいたことを見抜かれて、格別待遇で教えを授けられたため、20年の滞在予定を2年で切り上げ、806年に帰国し、816年に高野山に金剛峯寺を開き、823年には京都に教王護国寺(東寺)を与えられて、密教宗派の真言宗を開き、布教した。835年に亡くなった後の921年、弘法大師の諡号しごうが贈られ、大師にまつわる多くの伝承が各地にうまれ、生駒でも、大師が名づけたとされる星ヶ森ほしがもり(星が森/星の森)が住吉神社の背にあり、そこに大師が龍ヶ淵りゅうがふちと呼ばれる池を掘り、これが天の川の水源となったと伝承されている。

(15)14(H26)年11月に開催された、はならぁと(奈良・町家の芸術祭)の会場となったのが宝山寺の旧たき万旅館でした(ご参照)。実はここがまだ旅館だったとき、「悲の器」「わが心は石にあらず」「邪宗門」「憂鬱なる党派」「孤立無援の思想」「我が解体」「黄昏の橋」などの著作が今も語り継がれる学者作家が、学生のころよりここを定宿とし、目にすることのできる彼の年譜等のみで確認できるだけでも、65(S40)年8月の34歳のとき、小松左京らと同人誌「対話」の復刊第1号を刊行した際、これに所載する座談会「戦後文学の二十年」を行なうために、68(S43)年1月の37歳のとき、同人誌仲間らと夜を徹して語り合い交流するために、同年9月には「対話」第6号の合評会を同人10人でやるために、それぞれ宿泊しました。作家仲間とだけではなく、ときには、師の梅原猛をはじめとする学者とも同宿したことが知られています。それでは、70(S45)年3月から刊行された季刊文学誌「人間として」の編集作家仲間である小田実、開高健、柴田翔、真継伸彦とともに、いわゆる全共闘世代に大きな影響を与え残しているこの人物の名前を答えてください。


  解答・解説