2017年02月27日

<問24>生駒ゆかりの諸群像

(1)1930年代前半、生駒山頂上の住宅地設計をした人がいます。この住宅地設計を「生駒山嶺さんれい小都市計画」といいます。その人は、1933年にドイツでナチス政権が誕生すると日本に亡命し、3年半の滞日中に各地を歩き、日本の伝統的建築や民俗的美意識を高く評価して日本美を再発見し、「ニッポン」「日本文化私観」「桂離宮」などの著書を著し、日本文化について優れた文章を残しました。この人は、日本に来る前にはドイツで多くの住宅を設計し、そのいくつかは、後の住宅建設に大きな影響をあたえたことから世界文化遺産に登録されています。この著名な建築家はだれでしょう。


(2)下に記した文は、宇野浩二の小説「△△△△△」からの引用文です。△△△△△には著名な小説家の氏名が入ります(漢字5字)。その小説家とはだれでしょう。<問23>の答と同じ人物です。なお、引用文の〇〇には、その小説家の姓のみが入ります。引用文を読むと、大衆文学の新人作家に贈られる直木賞の由来である直木三十五と、純文学の新人作家に贈られる〇〇賞の由来である△△△△△とが一緒に生駒に遊行していたことがわかります。


 ・・・・・妙な事をいう、とは、思ったが、私は、床とこを出て、支度をし、〇〇も支度をした。そうして、「では、行きましょう」という直木(引用者:直木三十五)のあとについて、私たちは、その茶屋を、出た。ところが、すぐ近くだ、と思ったのが、自動車にのせられ、上本町六丁目にゆき、そこから、奈良ゆきの電車にのせられ、生駒駅でおろされた。・・・・・生駒山は、海抜は二千尺ぐらゐであるが、金剛山脈の北部を占める生駒山脈の主峰であり、河内と大和の境にそびえる山である。二千六百年の昔、勇敢な神武天皇も越えられなかった、という伝説の山である。大阪から真東にある奈良まで行く電車がなかなかできなかったのは、この大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかったからである。数年の歳月と巨額の金額をつひやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった。・・・・・この生駒山の山腹の東側に、『生駒聖天』として名高い宝山寺がある。・・・・・その宝山寺にまゐるために、生駒駅から宝山寺までケエブル・カアができた。さうして、ケエブル・カアができるとともに、そのケエブル・カアの停車場の横から、ケエブル・カアの通じる坂にそうた道に、アイマイな茶屋が十数軒あらはれ、そのアイマイ茶屋のために、アイマイ芸者が五十人ちかく集まって来た。直木が、「しづかな所」と称して、〇〇と私を案内したのは、このケエブル・カアの停車場のちかくの、ちょっとした茶屋であった・・・・・。


(3)次の経歴を持つ、著名な学者は誰でしょう。

 生駒山をはさんで生駒市の西隣の大阪府枚岡市(現・東大阪市)で62(S37)年9月に生まれ、小学3年生のとき生駒市の東隣の奈良市の学園前に転居。中学・高校時代は、生駒山を東西に貫くトンネルを走り抜ける近鉄電車に学園前駅で乗車して大阪に通学。高校生のとき、父から医師になることを勧められたものの、将来の進路に迷っていた。しかし、現在、生駒市立病院の指定管理者である徳洲会の理事長である徳田虎雄氏の著書「生命だけは平等だ」を読み、徳田氏の生き方に感銘を受けて医師になることを決意、神戸大学医学部に入学。卒業後、国立大阪病院整形外科で臨床研修医として勤務したが、研究者を志して退職し、大阪市立大学大学院に入学。在学中、米国グラッドストーン研究所に留学。帰国し、大阪市立大学薬理学教室助手に就任。しかし、研究がうまくいかず、科学雑誌で見つけた、生駒市にある奈良先端科学技術大学院大学(先端大)の公募に「どうせだめだろうから、研究職を辞めて臨床医に戻るきっかけのために。」と考え応募したところ、99(11)年12月に助教授に採用され、研究を再開、iPS細胞の開発に成功した(なお、現在は先端大の最寄り駅は近鉄けいはんな線北生駒駅だが、同線が未開通の当時、先端大は近鉄学園前駅とバスで結ばれていた)。03(15)年9月に教授になったが、翌年、京都大学に移った。06(H18)年8月、米学術雑誌セルにマウスの細胞からiPS細胞を作成することに成功したことを報告する論文を掲載。この論文が直接のきっかけとなって、12(H24)年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。


(4)下に記した文で始まる「満月と近鉄」という短編小説は生駒を舞台としています。この作品を書いた小説家を次から選んでください。なお、この作品には、<問22>の答である小説家かと思わせるような長脛ながすね君が登場します。

     万城目学  仁木英之  前野ひろみち  森見登美彦


 若い頃、生駒山の麓で仙人のような暮らしをしていたことがある。十八の春から夏にかけてのことで、今から二十年近くも昔のことになる。私が暮らしていたのは、近鉄生駒駅から「ピックリ商店街」を抜け、宝山寺の参道を五分ほどのぼった「蓬莱荘」であった。


(5)大佛おさらぎ次郎賞は、優れた散文作品に贈られます。その42回目(2015年度)は、生駒市在住詩人の回想記「朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ」に贈られました。この詩人は誰でしょう。次から選んでください。

    金石範キム・ソクポム  李恢成イ・フェソン  金時鐘キム・シジョン  柳美里ユウ・ミリ  梁石日ヤン・ソギル


(6)生駒山の麓に住まいする詩人の貞久秀紀さだひさひでみちさんは、98(H10)年に「空気集め」という詩集で、 詩壇の芥川賞と呼ばれる賞を受賞されました。この賞の名前は何でしょう。次から選んでください。

       H氏賞  O氏賞  Z氏賞  A氏賞  N氏賞


(7)次の文は、「紫障子」という文学作品の紹介記事です(・・・・・は省略部分)。〇〇〇にはこの作品の作者名が入ります。この作者(漢字3字)は誰でしょう。


 ・・・・・猿沢池・・・・の池畔にたたずむ旅龍はたごでの情景が、濃密な怪談への発端となる小説がある。〇〇〇の「紫障子」。〇〇〇が奈良を舞台にした唯一の作品・・・・・。特殊な信仰や伝説から濃厚な怪異譚かいいたんを編む〇〇〇のスタイルは、この作品でも存分に発揮されている。・・・・・作中で京の芸舞妓げいまいこらが、より妖艶ようえんたらんとして執り行うとされる蛇神の秘儀は、上方の花柳界に伝わる「巳みいさん信仰」(引用者 : 蛇神信仰のこと)と、花街からの信仰も厚かった奈良・生駒山宝山寺の「浴油供よくゆく」がベース。〇〇〇はそこから「今昔物語集」の纐纈城こうけつじょう伝説を連想したらしい。人間を太らせ、脂や血を搾り取るという説話だ。・・・・・舞台となった勝手屋のモデルは定かでないが、五重塔が映る猿沢池は当時のまま。浮世を逆さまに映す鏡のような水面に、〇〇〇は何を見たのだろうか。〜都ものがたり 奈良「〇〇〇 猿沢池畔を舞台に執筆」<朝日新聞/17(H29).6.8>〜


(8)次の文は、「新詳説 日本史 改訂版」(山川出版社/94.3.5発行)の中の文です。(  )には、生駒にゆかりがある(遺言により、分骨を埋葬するお墓が竹林寺の行基の墓に並んである)人物の名前(漢字2字)が入ります。その人物の名前は何でしょう。<行基については、問3をご参照>

 <鎌倉仏教>・・・・・このような新仏教に刺激され、旧仏教側も新たな動きをみせた。鎌倉時代の初めころ、法相宗の貞慶や華厳宗の高弁は、戒律を尊重して南都仏教の復興に力をそそいだ。ややおくれて律宗の叡尊や(  )らは、戒律を重んじるとともに、貧しい人々や病人の救済・治療などの社会事業にも献身し、多くの人々に影響を与えた。(  )は奈良に病人の救済施設北山十八間戸きたやまじゅうはちけんどを建て、施療や慈善につくした。

(9)次の文は、生駒を出自(本貫)とする生駒氏の略歴を記したものです。(  )には、生駒にゆかりのある人物の名前(漢字4字)が入ります。その人物の名前は何でしょう。

 平安時代、藤原氏一門の四家系のうち北家が着実に勢力をのばし、藤原北家の(  )は、858(天安2)年、その外孫清和天皇が9歳で皇位につくとその摂政となった。皇族以外のもので摂政になったのはこれがはじめてであった。こうして(  )は、人臣摂政の先例を開くことで摂関政治成立への道を開いた。(  )は、現在の生駒市である大和国平群郡生駒郷(生駒庄/生駒邑むら)に山荘を営んでここを根拠地とし、のち、生駒郷谷口村に土着したその子孫の生駒藤原家は、馬借ばしゃく(馬を用いた広域輸送業)や油売り(あの斎藤道三はこの業で国盗りを実現する力をつけた)や灰(染め物の原料)売りで勢力を張り、やがて生駒氏・生駒家を称した(生駒藤原家が、生駒在住時代に生駒氏・生駒家を名乗り始めたのか、尾張に移り住んでから名乗ったのかは定かではないが、生駒氏は藤原北家の末裔といえる)。生駒氏は、応仁の乱が拡大すると、その戦禍を逃れ、縁故を頼って交通の要所たる尾張国丹羽にわ郡小折こおりに移住し、生駒氏の名の通りの馬借業と油・灰売りの商圏を飛騨から東三河にまで拡大するなど尾北の豪族(武家商人)として大いに勢力を張り、小折城ともいわれる小型の城郭である生駒屋敷を構え、その経済力と情報収集力で織田信長を支えた。尾張平定、桶狭間合戦、犬山城攻め、西美濃攻めの諸戦略は、商圏の要であり多くの食客も往来するがゆえに諸国の情報が集まる情報基地でもあった生駒屋敷で練られ、その戦いの費用は生駒家によって賄われ、信長がいち早く大量に鉄砲を調達できたのも生駒氏のおかげであり、信長の天下布武への道は生駒屋敷が起点となった。木下藤吉郎が、信長が恋に落ちた生駒家の娘である吉乃きつのに信長への仕官を求め仲介を依頼したことや草鞋を懐で温めて信長に差し出したことや蜂須賀小六との絆を強めたことなどは、信長が、吉乃との逢瀬を楽しみ、情報を入手するために頻繁に通っていた生駒屋敷(信長本拠の清洲城から約15kmにあり、馬を飛ばせば約1時間)でのエピソードである。なお、生駒屋敷に住み生駒の方と呼ばれた吉乃は、信長の嫡男・二男・長女をもうけた。生駒氏は、本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の九州征服時、讃岐国西部61000石の大名となり、四国平定後には讃岐一国17万3000石を与えられ、本城の高松城を築城し支城の丸亀城を改修、豊臣家三中老(五大老と五奉行との意見が合わないときの仲裁役の一人とされ、また秀頼の補佐役としても重きをなした。関ヶ原の戦では、真田家と同様のやり方で家門の存続を図るため、生駒親正ちかまさは西軍に属す一方、その子の一正かずまさは東軍につき、父からの遺封(受け継いだ所領)を本領安堵されたが、その孫高俊たかとしのとき、徳川3代将軍家光在位の1640(寛永17)年、家臣の対立から生駒騒動と呼ばれるお家騒動が起こり、領地を没収され、出羽国矢島やしま(現在の秋田県由利本荘市矢島町)1万石に改易された。のち、財政上から封地分封(領地の分割相続により分家をつくること)して旗本(1万石未満)となり、交代寄合衆(旗本ではあるが大名なみの処遇を受け参勤交代の義務があった)として幕末に至った。幕末の秋田戦争で生駒氏は奥州列藩同盟を離脱して新政府方として戦い、1868(明治1)年、親敬ちかゆきは新政府に忠誠を誓って矢島藩15000石を興こし、廃藩置県後、男爵に列せられた。なお、近年、秋田の名産品として脚光をあびている生駒塗の創始者である生駒弘・親雄ちかおさん親子は、出身地は由利本荘市で、祖先は四国高松城主(藩主)の生駒公といわれている。また、女性アイドルグループの乃木坂46のメンバーで、センターを約1年半つとめた生駒里奈さんも、由利本荘市の出身である。


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