2014年01月12日

<問21>の解答・解説 

解答> 鶏

解説>(追記を重ねましたので、記述が重複している部分があることをお許しください。)
(1)神功皇后は、夫の仲哀天皇亡きあと応神天皇即位まで実権を持ち続け、天皇として即位はしませんでしたが、日本書紀では皇后という称号のまま第15代目の天皇として位置づけられました。しかし、かかる事情により 1926(大正15)年10月の詔書により歴代天皇から外されましたが、折口信夫「女帝考」によれば、神と天皇の中間に立つ「ナカツスメラミコト」でした。そんな皇后の行為(「三韓=海上に見える国」征伐)に反対する下記の3つの動きが日本書紀には記されています。
          (注)三韓とは、馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加
             羅)・辰韓(後の新羅)の3国のこと。
   ・<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>天皇は神に答えて、「私が見渡しましたのに、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒らに私を欺くのでしょう。]
   ・<卷第九 神功皇后 新羅出兵>(皇后は)諸国に介して船舶を集め兵を練られた。ときに軍卒が集まりにくかった。
   ・<卷第九 神功皇后 新羅出兵>(皇后は)吾瓮海人烏摩呂あへのあまおまろを使って、西の海に出て、国があるかと見させられた。還っていうのに、「国は見えません」と。
 「ナカツスメラミコト」の意に反する動きの説話を3つも書紀が記さざるを得なかったことは、古代日本において、縄文時代以来の「戦いを否定する精神」が持続していたことを伝えています。

(2)日本書紀には、
 次のように、(ナカツスメラミコトである)神功皇后の意に反する者は死に追いやられると記されています。
   ・<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>(皇后に託された神のお言葉を採用されなかったので)天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。
   ・<卷第九 神功皇后 神功皇后の熊襲征伐>兵をあげて羽白熊鷲はしろくまわしを殺した。/土蜘蛛つちぐも――田油津媛たぶらつひめを殺した。
   ・<卷第九 神功皇后 麛坂王かごさかのみこ・忍熊王おしくまのみこの策謀>赤い猪が急に飛び出してきて桟敷さじきに上って、麛坂王を喰い殺した。/忍熊王は逃げて隠れるところもなく、・・・・・瀬田の渡りに沈んで死んだ。
 しかし、<卷第九 神功皇后 新羅出兵>を読むと、三韓(新羅・高麗・百済)の3王については死に追いやるどころか、戦いさえもしていません(出兵したとあるが、戦ったとはしていない)。日本の戦国時代を見ても、降伏した敵の将兵の命は助けても、のちに反旗を翻す可能性ある首領の命を助けるお人よしな事例はないことから見ると、戦わずして服属させた(=朝貢させるようにした)となっているのは、実は、古代日本において、日本と朝鮮半島との交易がおこなわれていたことを伝える説話であるからととらえることができます。その交易も朝鮮から先進的・貴重な物資(日本にはないもの=日本書紀に記されている「金・銀・彩色・綾・羅うすはた・縑絹かとりきぬ」など)が日本にもたらされるというものでした。しかし、優れた物資や文化が外来する(物資は文化と共に到来する)ことは日本が一段低いということであり口惜しいので、日本書紀が成立した当時の統治者が国内外に虚勢を張るために、新羅再征の説話(新羅を討ち破ったとの説話)をわざわざ日本書紀の<卷第九 神功皇后>の部分に加述させたのです。これが、後世、「三韓征伐」(新羅のみ「征伐」したので、正しくは「新羅征伐」)と呼ばれるものです。
    (注)この日本書紀の新羅再征の説話をもとに、後世、軍国主義(対外戦争勝利)の象徴たる神功皇后のイメージがつくられました。
 なお、三韓(新羅)の「征伐」は、国内向けに天皇の正統性を訴えるために作成された「古事記」には記載がなく、外国向けに日本という国の正統性を主張するために作成された「日本書紀」に次の(3)で述べるように誇張と虚像として記載されたのです。
 日本書紀の<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>や<卷第九 神功皇后 新羅出兵>に記された、後世「三韓征伐」と呼ばれることになる説話をよく読めば、「海上に見える国がある。この国には目に眩まばゆい金・銀・彩色などが沢山ある。これらが欲しいので、それを手に入れるために海上に見える国に攻め込んで行こう」という、大変に卑しい行為を行おうというものであって、実際にかかる行為を古代の日本人がやったと主張するなら、それは日本民族の尊厳を貶おとしめることになります。それを回避するためにも、「三韓征伐」と呼ばれる説話は、実はそれは、古代における日本と朝鮮半島との交易・交流を反映したものである、と述べなければなりません。なお、ネトウヨ(ネット社会で新しく湧き出した右翼的な考えを持つ人々を批判的に呼ぶ呼び方)の人々が こんなTシャツを購入することで分かるように「三韓征伐」というのは、どういう文脈で使用されるか次第では(肯定的に使用すれば)ヘイト(他民族への憎悪を煽る)用語となります。

(3)古田武彦「古代は輝いていたU 日本列島の大王たち」の中で、次のことが記述・実証されています。
  @「古事記には(引用者:この現代語訳の「中巻 仲哀天皇 三 神功皇后の新羅遠征」の箇所)、神功は新羅へ渡って新羅国王との間に平和的に国交関係を樹立したことがのべられているだけであって、戦闘描写は全くない。これに対して、日本書紀の場合(引用者:この現代語訳の「卷第九 神功皇后 新羅再征」の箇所)、朝鮮半島南半部各地に転戦させ、新羅側と戦い、百済に占領地を与えた(その領有を承認した)旨が記されている。大きなちがいだ。いずれが真実か。いうまでもない。古事記の方だ。」
  A「神功は新羅の王子・・・・・の子孫であり、新羅は彼女にとって、(母系の)父祖の国だった」(引用者:このことは この古事記の現代語訳の「中巻 応神天皇 八 天之日矛の渡来」に記載されており、このことも古代より日本と朝鮮は深い交流があったことを反映しています。ご参考
  B「神功は、・・・・・その故国(新羅)へ征伐などに行ったのではない。提携と国交を求めに行き、新羅および百済との間で、それに成功した」(引用者:@とAを考察すれば、このようになります。)
  C「神功の平和的国交の樹立は、憎悪の連鎖の相乗効果を生みやすい戦争や征服とは別種の永続的な効果をもたらした」(引用者:この古事記の現代語訳の「中巻 応神天皇 六 百済の朝貢」の記述はこのように読み取れます。)
  D誇張と虚像は、日本書紀の記述において加えられただけでなく、古事記の記述にも存在する。例えば、新羅国が神功皇后に屈服と服従を誓ったことである(引用者:この古事記の現代語訳の「中巻 仲哀天皇 三 神功皇后の新羅遠征」の箇所)。これらの誇張と虚像は、成果を誇示するためであった

(4)「三韓征伐」という用語は記紀には記載がありません。その用語がいつから使用されたかについて通説はありませんが、このように教科書が国定化される前の明治中期に使われた初期の段階の教科書である『帝国小史』(1893年)には記載があることから、江華島事件(1875年)を機とする朝鮮侵出開始後しばらくして使用され始めたと思われます。
 (1)〜(3)で見たように、「三韓征伐」などというものはなかったのですが、明治に入ってから、「朝鮮半島は古代より、日本の支配下に置かれるのが当然であった」という、侵略を正当化するいわばイデオロギーとして、日本書紀の記述に加えられた誇張と虚像に基づいて作られたものです。
 それにより、神功皇后は本当は「平和的国交の樹立者」であったにもかかわらず、1945年の終戦まで「大日本帝国による朝鮮半島支配の正当性の象徴・根拠」として喧伝され続けました。なお、日本で最初の本格的な肖像入り紙幣の肖像は彼女でした(その紙幣<原版はイタリア人技術者が作成したため、西洋風の女性に描かれている>)。
 戦前に作られた神功皇后の軍国主義(対外戦争勝利)の象徴たるイメージは戦後70年以上が経た現在も払拭されていません。生駒ゆかりの人物の一人である神功皇后がそんなイメージのままであることは誠に残念です。国際的な友好平和樹立という課題の重要性が高まる中、神功皇后の名誉回復、つまり、軍国主義の象徴から平和的国交樹立の先駆者への人物像の転換が求められています。

(5)参考 : 皇后考皇后考女帝論

(6)生駒(生駒山とその麓)の産土神うぶすながみ(その土地を守護する神)は伊古麻都比古神いこまつひこのかみ(生駒を守護する男の神/「都」は「の」の意」)と、伊古麻都比賣神いこまつひめのかみ(生駒を守護する女神)の2神ですが、この2神が、神功皇后軍の出発の合図をするよう命じられていた鶏を未明(午前3時ごろ)に追い払うことで、神功皇后軍をして征伐戦争に出発させないようにしたとの「生駒の産土神うぶすながみの鶏追とりおい」伝承もあります。
  征伐戦争は、殺戮を伴うものです。生駒の産土神(生駒の守護神)の鶏追とりおいは、神の使いでありながら殺戮に加担して堕落することから鶏を守護し、また、殺戮の首謀者となって堕落することから神功皇后を守護することであったといえます。それは、日本書紀に記された生駒神話(攻め込んできた磐余彦軍を殺戮せんとした長髄彦軍が、長髄彦軍の守護神である金の鵄によって打ちのめされて戦えないようにされることで、殺戮の実行者となって堕落することから守護されたとの口承を核とする神話/生駒の神話<大要>の【2】ご参照)と共鳴しています。
  なお、伊古麻都比古神は、「大和の国譲り」(生駒の神話<大要>の【1】ご参照)を行なったとされる饒速日命にぎはやひのみことのことだとの伝承もあります。

(7)生駒には鶏にかかわる伝承で有名なものが2つあります。2つとは、「神功皇后と鶏」と「生駒の産土神の鶏追とりお」です。
 前者は、神功皇后軍が海のかなたの国とのいくさに向かう途中で生駒に宿営し、鶏に明朝鳴いて出発のときを知らせるようにと厳命したが、次の日の朝、いつまでたっても鶏は鳴かず出発できなかったため、怒った皇后は鶏を生駒川(龍田川上流)に捨ててしまった、との話ですが、ときを告げる有難い鶏がなぜときを告げなかったのが疑問に残る話となっています。
 後者は、生駒の産土神うぶすながみ(その土地を守護する神)は伊古麻都比古神いこまつひこのかみ(生駒を守護する男の神/「都つ」は「の」の意」)と、伊古麻都比賣神いこまつひめのかみ(生駒を守護する女神)の2神であるが、この2神は、鶏を未明(午前3時ごろ)に追い払った、との話ですが、古来神の使いとされている有難い鶏がなぜ追い払われたのかが疑問に残る話となっています。
 この2つは、今では別々の話のようになっていますが、もともとは1つの話だったようです(この記事.pdfに、追鶏祭とりおいさいには神功皇后と鶏の伝説が付随している、とあります)。そうすれば疑問は解消されます。この2つを1つの話としてつなげれば次のようになります。
 神功皇后軍が海のかなたの国とのいくさに向かう途中で生駒に宿営し、鶏に明朝鳴いて出発のときを知らせるようにと厳命したが、次の日の未明、生駒の産土神は鶏を追い払うことで、神功皇后軍をして出発のときを聞くことができないようにし、そのため、神功皇后軍はいくさに出発できなかった。
 これで、2つの伝承にまつわる疑問は解消され、それらの伝承の真意が明らかになりました。

(8)鶏にまつわること
 @龍田神社の鶏の話手水場ちょうずば(清めの場)の鶏像の写真(↓)あり
龍田神社の鶏.jpg


 A本来鶏は、常世長鳴鳥とこよのながなきどりと呼ばれ、太陽を呼び出し、鳴声は時を知る手だてとされる有難い鳥であり(ご参照)、神の使いとして暁の声を立てて時を知らせ一切衆生の眠りを覚まし本覚の道にいれさせ給う任務を持つ鶏(ご参照ミラー>)が、神功皇后の出発の時を知らせなかった(知らせることが出来ないように追われた)のは、征伐戦争否定が神意であったからといえます。

 B古来から鶏は「神鶏しんけい/神使しんし」(神の使い)とされていて、伊勢神宮や石上いそのかみ神宮などでは、春日大社の鹿と同様に神使として放し飼いにされています(ご参照)。神社の鳥居ももともとは檜の白木素地のままで、神の使いである鶏の止まり木としてつくられていたとの説もあります(鶏は鳥目ゆえ夜には目が見えないので、安全のため暗くなると木に上って夜を過ごす)。

 C Bの(ご参照)に記されているように、常世の長鳴鳥は天照大神を天の岩戸から外へ出す際に、「カケコー、カケコー、カケコー」と三回鳴いたと言われていることに由来して、伊勢神宮の式年遷宮では、宮司が儀式の始まりに鶏の鳴き声の真似を3回唱える「鶏鳴三声けいめいさんせい」(この動画の2分35秒〜2分50秒)を行ないます。

 Dニワトリには夜明けを告げるだけでなく、闇の中に潜む怪しいものを察知し、鳴き声で追い払う役割も期待されていた。古墳に立てられた鶏形埴輪にも、被葬者の安らかな眠りを妨げる邪悪な魑魅魍魎ちみもうりょうの物音をいち早く察知し、鳴き声で朝が来たと錯覚させ、退散させるという役割があったのかもしれない。< 朝日新聞「関西遺産 石上いそのかみ神宮のニワトリ」(17.1.4)より>

 E問題文中の「毎年元旦には神社の裏山から金の〇の吉兆の鳴き声が聞こえる」の裏山とは、龍田神社の北側にある龍田の神奈備かんなび(神の鎮座する山)とされる御廟山ごぼうやまのことですが、金の鶏が鳴くといわれる所は大和各地にあります⇒大和の傳説 金鶏の鳴く所(リンク)をご参照

 F参考 : 伊藤若冲は鶏の姿に生命の美しさを見ていたといわれます。下図は、若冲作「紫陽花双鶏図あじさいそうけいず」(部分)<「仙台市政だより」(2013年3月号)より>ですが、ここに描かれた鶏は鳳凰のごとくです。
若冲作「紫陽花双鶏図」.jpg


(9)鶏など神使になった動物たち<リンク>