2014年02月26日

<問15>の解答・解説  

                  問題文はこちら

解答> イザナミ(伊弉冉尊いざなみのみこと


出典> 問題文中の4つの地図の出典(上から順)
         生駒市誌生駒市誌は、古代の生駒を「古大阪湾に浮ぶ菱形の緑の島」と表現しています。)>
         竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史

解説>日本書紀の国生み神話でいう「洲」は何なのか、どう読むのか、については論争のあるところですが、古代には船で行けるところは途中が地続きでも、「洲=島=船で行くところ」として意識されるときがあったとのことであり、洲しまとは、島や半島も含め船で行き来する「海上交通の要衝」となる地域のことであったようです(森浩一「日本神話の考古学」第1章 国生み物語と海上交通ご参照)。また、「洲」は「クニ」と読み、「洲国(クニ)」の略で、限定された一定領域(海に接した一地域・一地点)を指す言葉とのことです(古田武彦「盗まれた神話 記・紀の秘密」ご参照」)。この2つの説を総合すると、「洲」を「しま」と読むか「クニ」と読むかにかかわらず、「洲とは、島・半島であるなしにかかわらず、とにかく海上交通の要衝となる地域をいう」というのが最も説得力のある説となります。
 さて、今より2千数百年前までの縄文時代は、現在よりも温暖でした。そのため、三内丸山遺跡に代表される大規模集落が日本列島の北部にあったのです。温暖であるがゆえに、いわゆる「縄文海進(縄文時代での海の水位上昇による陸地への進出)」により、日本列島の平野部は海の底でした。大阪平野・奈良盆地・京都盆地(山城平野)もすべて海の底で、この3つは一繋がりの海でした<1万年前の畿内の概念図折節の記より)>。貝塚のあるところが当時の海岸でした。縄文時代の終わりごろから、気温の低下、地盤の隆起、河口の堆積により「海水後退」が進行する中で、大阪平野は海・潟かた砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼)・湿地帯という地形になり、奈良盆地や京都盆地は湖と湿地帯となりました。かかる地形における湿地を利用して弥生人は水田稲作を発展させたのです。このような、干潟や湿地帯一面に葦あしが生い茂っていて日本列島の中央に位置する、生駒を中心部とする大阪平野・奈良盆地・京都盆地一帯、または、それより狭く奈良盆地のようなところを日本神話は葦原中国あしはらのなかつくにの代表的舞台(中心部)としていますが、かかる地形では、人々の活動にとって重要だったのは船により人や物を運べる海・湖・潟や河川でした。これは弥生時代の次の古墳時代・飛鳥時代になっても変わりませんでした(「古代では、一番最初にできるのは海上国家、港の近くに都ができて発展するわけです。ところが年月がたつうちに内陸部に入っていく。・・・・・路はあまりないんです。当時の交通はほとんど川です。・・・・・川が水路。八割まで川。造られた道は、・・・・・もうほんとに二つか三つ、それと獣道に似た小道、あとは全部川です。」<黒岩重吾「古代史への旅」より>)。風水では都は背山臨水の地がよいとされており、それに即して平城京が造られたことは、その南方には、奈良時代になったころにもまだ広大な湿原・湿地が拡がっていたことを今に伝えています。
 このような地形において居住・活動する古代(弥生時代)の人々と現在人の私たちとでは国土観が大きく異なります。現代人の感覚で古代のことを考察しては間違えます。私たち現代人の国土観は、まず平地(平野)があって、自分たちはそこで居住・活動する。近くまたは遠くには海があり、海で活動することもあるが、主たる活動地はやはり平地(平野)である。そして、昔、陸の隆起によって山ができており、そこから川が流れてくる、というものです(「内陸から時には海へ」つまり、内陸で居住・活動、時には海へ、川は山からかってに流れて来る)。しかし、古代の国土観は、まず、取り付く(自分たちが居住・活動するための拠り所となる)しま(海上交通の要衝となる地域)がある(今日「取り付く島がない」という言葉は、元々は「自分たちが居住・活動するための拠り所がない」という意味だったのでは?)。そのまわりには海があり、そこは、船で活動する場であり、その沿岸に更なる活動拠点をつくれる。そこから川を交通の手段に利用して山麓・山中の川沿いに居住・活動範囲を拡げていける、というものです(「洲から内陸へ」つまり、洲から海へ、海辺から川を遡って内陸へ、と居住・活動を拡大/森浩一「日本神話の考古学」第2章 黄泉の国の世界ご参照)。先に紹介した「年月がたつうちに内陸部に入っていく」という文も、かかる国土観に基づくものでした。かかる国土観は、山から流れてくる川が氾濫して広大な平野を作ったのではなく、平野を覆い盆地を満たしていた古代の海が退いていった後に現在の海までの水路として川が残った(そして、海底であった平野・盆地は海水後退とともに、海→塩分の残る湿地→葦原→塩分の抜けた湿地→水田へと変遷していった)という事実に基づくものです。なお、卑弥呼の時代(弥生時代後半)の日本の地形(谷川健一「列島縦断地名逍遥」よりご参照)について魏志倭人伝が伝えていることを問題文中で指摘しました。
 従来は、古代の地形がどうなっていたかという視点をおろそかにしたまま神話を含む古代のことを考えていたため、疑問点(謎)が解けず、また、的外れな考察になっていたと批判されるようになってきました。問題文に掲載した4つの地図をみればその批判に共感できるのでないでしょうか。
 なお、記紀に記された国生み神話の豊秋津洲を本州という大きな島だする説や、洲は国だとして豊秋津洲を大和の国のことだという説もありますが、本州や大和の国は海岸・川・山から構成されています。なのに、なぜ日本書紀は、本州または大和の国を生んだのち、海・川・山を生んだとするのでしょうか。説明できません。まず本州または国という平地を生んだのだ。というのなら、これは、まず平地ありきという現代人の国土観に基づく発想ですが、それによれば平地が生まれたら、次に山が生まれ、次に川が生まれて山から流れてくる、となるはずですが、日本書紀は逆に、次に川を生み、次に山を生んだ、と記しています(森浩一「日本神話の考古学」第2章 黄泉の国の世界ご参照)。
 本州だとする説については更に、記紀が書かれた8世紀初頭の東北地方はまだ蝦夷えぞ地であり、記紀の作者には本州全体が自分たちの国という認識はなかっただろうし、そもそも津軽海峡はまだ、見たことはないのはもちろん、その存在についても確信できていない彼らに本州という大きな島という認識・発想があったとは考え難いでしょう。また、越洲こしのしまが本州の一部ではなかったことをきちんと実証した上で豊秋津洲は本州だと唱えられているのではないことも説得力を失わさせています。
 古代、本州の中の畿内にも当然海上交通の要衝があったはずであり、だとすれば、畿内の海上交通の要衝として最適であったのは、島から島状の半島に地形を変化させていた生駒であり、やはり、豊秋津洲は古代の生駒のことだとするのが妥当な説です。

<追記1>海の向こうからやって来た人々は、平均して年に数百人〜千人程度だったという試算があります(どれだけの人々が渡来してきたのか.pdf)。こんな少人数で海の向こうから未知の土地にやって来た人々が居住・活動しようとすれば、まず島や半島など海上交通の要衝となるところを活動拠点とするでしょう。

豊秋津洲のイメージ 1↓
豊秋津島 修正.png
 <海の上に崇高に浮かぶ。近づけば、緑豊かな島状の半島だと分かる。日本海・近淡海(ちかつあわうみ/現琵琶湖)方面から南進してきた人々(ニギハヤヒもその1人)や瀬戸内海を東進してきた人々(イワレヒコもその1人)が目にしたのはこんなに美しい島(実際は島状の半島)でした。これを見れば、ここに住みたくなるのは当然でした(だがしかし、神話でいう豊秋津洲は無人ではなかったのです。ナガスネヒコもそこの住民の1人)。この緑豊かな秋津島は、生駒の神話の舞台の1つとなり、のちに、「あきつしま」は美(うま)し国大和の枕詞となります(舒明天皇のうたご参照)。>

豊秋津洲のイメージ 2↓
安土城76.jpg
 <信長が安土城を築いたときは安土山は琵琶湖に浮かぶ半島だった。それと同じく、渡来人がやってきた弥生時代の生駒山も大阪湾に浮かぶ半島だった。>

<追記2>秋津は、蜻蛉(アキツ)の古名であり、トンボのことです。トンボは稲作をする人々にとっては大切な存在(益虫)です。幼虫のヤゴのときは水中で、成虫になれば空中で悪いもの(害虫)を食べてくれます。ですから、トンボは豊かな秋の実りをもたらしてくれます。また、トンボは人間を恐れない友人のような存在です。人間を支えてくれる大切な存在の比喩として、また、秋の実りをもたらす豊かさの象徴として「秋津=蜻蛉」(アキツ)が当てられたのです。ということで、豊秋津とは、地名・固有名詞ではなく、「(トンボがたくさんいる)豊かで大切な」という様態を示す、いわば様態詞です。豊秋津の豊は豊かさを強調する、または、語句全体に美しさを加える接頭語です。古代の生駒は、葦原中国あしはらのなかつくにの代表的舞台の根(ネ/根本・基礎)の部分にあたるところといってもよいほどに特に重要な洲であったので豊秋津洲(豊かで大切な洲)と呼ばれたのでしょう。生駒山も古代日本において特別な位置を占めていたのではないかといわれています生駒検定<全国版>問2の解説でご紹介した古代日本における生駒山の不思議ご参照)。
 なお、洲・島という語句は、時代が下ると「国」という意味も持つようになります。日本書紀の神武東征神話には、神武天皇が自らの治める国を秋津洲あきつしま(豊かで大切な国)と名付けたと記されています(下に注)。また、日本書紀・古事記には、雄略天皇が、虻アブにかまれたときに蜻蛉あきつ(トンボ)が飛んできてその虻を食べ去ったことにより、ヤマト(倭)の国を「蜻蛉島あきつしま」(トンボが幸せと豊かさをもたらしてくれる国)と名付けた、と記されています。
 (注)神武天皇は自らの治める国を「狭い国ではあるけれども、蜻蛉がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国」といっています。これは、生駒山を含む山々がトンボがトナメしているように連なり囲んでいる湖と湿地帯の奈良盆地をいっています。本州のことをいっているのではありません(念のため)。

<追記3>海洋的性格を持つ伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ)

<追記4>「国生み」は海洋民の伝承弥生人は海人的性格も備えていた


<追記5>日本が沈没すると、再び生駒山は大阪湾に浮かぶ島に戻ります。「大仏殿の標高(その近くの県庁の標高約90mよりやや高い)+大仏殿の床の高さ+大仏の台座の高さ+大仏が座っている蓮華の高さ(約3m)+大仏の肩までの高さ(約10m)」の高低差まで日本が沈没したと仮定した場合の生駒山が、映画「日本沈没」で描かれました↓。
日本沈没150.jpg


<追記6>世界の創世神話には「なる(成る)」「うむ(生む)」「つくる(造る)」の3種の語り口がありますが、日本の神話では「成った」神が洲しまを「生んだ」という語り口になっており、「つくる(造る)」という語り口はありません。これは、日本には「絶対神=万物の創造主」という概念が生まれなかったためと考えられます(「なる」で始まる世界ミラー>ご参照)。
 また、日本の創世神話は淡路島の海人族あまぞくの「島生み神話」が元になっているともいわれており、その点からも、今日「国生み神話」と呼ばれている日本の創世神話は「(「国土=国」の元となった)州しま生み神話」といった方が正確でしょう。日本の創世神話は、のちに「人間が造っていく」国土(国)の元となった州を神が「生んだ」という構図になっています。創造主ではない日本の神は、完成された国土(国)は「造らない」のです。
 イザナギ・イザナミは日本の国(東北を除く本州、九州、四国、他の五つの島)を生んだ、との説がありますが、この説は、日本固有の領土には北方領土を含む北海道、東北は含まないと外国人に解釈されてしまう危惧も伴います(もっとも、北方領土を含む北海道、東北や沖縄はヤマト王権の支配外にあったので、この解釈の方が正しいともいえます)。

<追記7>ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)であるとするなら、奈良盆地を中心とする古代日本は、イザナミが生んだ8つの州という周縁から生成されたといえ、<追記6>との関連でいえば、「なった(成った)」といえるのではないか。

<追記8>今日多くの人々が住む平野や段丘は、もともとは海水面下で形成され、海水面が下がることで姿を現したものです(平野のできるまでをご参照)。

<追記9>日本にも伝来した最古の仏典とされる「法句経ほっくきょう」には次の記述があるように、「洲」は「究極の拠り所」という意があり、国生み神話でいう「洲」は「究極の拠り所たる島」と考えることができる。
   心はふるいたち 精進(はげみ)つつしみて おのれを理(とと)のうるもの かかる賢き人こそ 暴流(あらなみ)もおかすすべなき 心の洲(しま)をつくるべし(友松圓諦訳)
     (現代語訳)思慮ある人は、奮い立ち、努め励み、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。(中村元訳)

<追記10>びっくり!!生駒山は島だった?.pdf

<ご 参 考>生駒山のこと

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