2014年07月03日

<問14>歴史が息吹く生駒の古道     

(1)次の文の(   )に入る、頓智トンチで有名な室町時代中期の高僧の名前を答えてください。

 檀家制度が確立する江戸時代に入るまで、交通手段も通信網も限られていたにもかかわらず、お坊さんは広範囲をマメに歩き、信者の家を訪ねたりお葬式をあげたりしていた。そういう宗教者の存在ほど、民衆にとって心強いものはなかった。

 この人物も晩年、南山城の酬恩寺を根拠地に、京都東山や摂津、和泉堺などの間を頻繁に往来した。

 大和の国の北端に位置する高山は、河内・山城の両国との三国の境にあり、古来、交通の要地であった。この人物は、旅の往還に高山の交通の要衝である中村の里を通る街道を月1回は通ったという。そのため、この街道は「(   )さんの通い路かよいじ」と呼ばれている。

(2)次の文の(   )に入る、戦国時代を終わらせた有力武将の名前を答えてください。

 本能寺の変が起こったとき、(   )は、当時滞在していた摂津・和泉の国境に位置する堺から河内の国飯盛山西麓を経て、本国三河の国岡崎城に命からがら帰還した。その際にたどった、伊賀の山中を越えたので伊賀越えと呼ばれる逃走経路には諸説あるが、三国境みくにさかいを越える天王道てんのうどうを走り抜けたとの説も有力である。三国境とは、大和の国 ・ 河内の国 ・ 山城の国の三国の境をいい、現在の奈良県(生駒市高山町傍示ほうじ) ・ 大阪府(枚方市穂谷ほたん) ・ 京都府(京田辺市天王てんのう)の3県境である。(   )がこの経路を利用したとすれば、その逃走経路は、「三国境・伊賀越え」と呼べる。(なお、三国境の位置は地理院地図とGoogle マップとでは異なっているなど、三国境は謎(疑問)のある場所となっています。)

(3)下の文の(   )に入る適語を次から選んでください。

   奇兵隊 天狗党 天誅組(天忠組) 赤報隊

 幕末の文久3(1863)年8月17日、尊皇攘夷派の武装集団である(  )は、大和の国の幕府天領の五条の代官所を攻撃し、五条を天朝直轄地とする旨を宣言した。これは、幕府に対する尊攘派の初めての武力蜂起という画期的なものであり、幕府の威光を更に失墜させた。しかし、時期悪く、翌日に八月十八日の政変が起きて、(  )は一夜にして「逆賊」となり、尊攘派は京都より一掃されて政治的影響力を失う中、間もなく反乱は鎮圧され、兵士たちは敗走した。(  )の記録方であった国学者で歌人の伴林光平ともばやしみつひらは法隆寺から磐船街道を大坂へ逃亡中、9月25日、大和の国北田原村(現生駒市北田原町)北佐越(この地図ご参照)の一軒茶屋(現在の新茶屋付近)で捕えられ、翌年2月、京都で斬首処刑された。「雲を踏み 嵐を攀じて御熊野の 果て無し山の果も見しかな」(伴林光平 獄中にて詠めり)

(4)次の文の(  )に入る適語を答えてください。

 1868(慶応4)年、1年4か月に及ぶ戊辰戦争の初戦となる(  )の戦いが勃発した。この戦いは4日間で終わり、負けた幕府軍の一部は南下し、おそらくは淀川を下り枚方を経て交野・大和傍示に至り、そこより高山の伊勢街道(傍示〜中村)と清水道(鹿畑の伊勢街道/中村〜仏坂生駒北部の古道ご参照>を敗走、仏坂を経て奈良へ、そこより伊勢に至り、そこから海路江戸に向かった。

(5)下の文の(  )に入る適語を次より選んでください。

     みかげ  おたべ  おふく  みやま  おかげ  

 「高山八幡宮古記録」に、「(  )まいり、四国阿波から30万人が高山を経過(3〜5月)」とあります。こちらの伊勢参詣団は暗越ではなく傍示越、つまり、阿波→大阪湾→淀川→枚方→交野→かいがけ道(交野〜河内の傍示〜大和の傍示/地図)→高山→奈良→伊勢のルートで伊勢神宮までいったのでしょう<このルートは、枚方からは(4)と同じルート>。