2014年03月16日

<問13> 歴史を見つめてきた暗峠(くらがりとうげ)   

 暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)は、難波と大和を結ぶ古代からの街道で、その最高所にある暗峠(標高455m)は交通の要衝です。

 @1694年10月27日(元禄7年9月9日)に、奈良から大坂へ向かう途中この峠を通り、「菊の香に くらがり登る 節句哉かな」という重陽ちょうようの節句(注)にちなんだ句を詠んだ俳人の名前を答えてください。

   (注)重陽の節句は、五節句の一つ。節句は季節の節目ふしめとなる日。五節句とは、1月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日で、それぞれ、七草の節句・桃の節句・菖蒲の節句・七夕の節句・菊の節句という。なお、漢名ではそれぞれ、人日じんじ・上巳じょうし・端午たんご・七夕しちせき・重陽ちょうようという。

 A道鏡が天皇から皇位を譲り受けようとしたとき、@の人物がこの峠を通ったときより925年前の769年(神護景雲元年)に豊前(現福岡県北東部と大分県北西部)宇佐八幡宮に出向いて「皇位は皇族以外の者に譲ってはならない」というのが神託であると確認して、道鏡への譲位に反対し、そのため大隅国(現鹿児島県東部)に流罪とされ、そこに向かう途上でこの峠を通ったとされる人物の名前を答えてください。

  なお、道鏡の命で刺客がこの人物をこの峠で暗殺せんとしたとき、にわかにものすごい雷雨が起こり天地が暗黒になり、その為にこの人物は危難をのがれたといい、その時暗くなったので、ここを暗峠というようになった、との説があります。 

 B@の人物がこの峠を通ったときより約940年前の753年(天平勝宝5年)に、難波津から平城京に向かう途中この峠を越え、のち、唐招提寺を創建した中国渡来の人物の名前を答えてください。

 C@の人物がこの峠を通ったときより約110年前の1585年(天正13年)に、ある人物が大和・紀伊・和泉の3国を治める110万石の郡山城主となり、この峠を越えて郡山城大坂城を往来して豊臣政権を支えました。しかし、1591年(天正19年)に郡山城内で亡くなり、その早すぎる死により最強の支えと英知を失った豊臣政権は、朝鮮出兵を最大とする愚策によって崩壊していきました。もし、もう少し長命を保っていたならば豊臣政権の崩壊はなく、家康に豊臣家を滅ぼされる事も無かったと今だに言われている、この人物の名前を答えてください。

 D@の人物がこの峠を通ったときより約80年前の1615年(慶長20年)の4月26日、大野治房隊は、この峠を越えて大和国へ侵入し、翌27日に郡山城を陥落させました(郡山城の戦い)。この豊臣方の先制攻撃で始まった2回目の豊臣方と幕府方の戦争の名前を答えてください。

 なお、豊臣方と幕府方の戦争といえば、その1回目の開始直前、司馬遼太郎「城塞」によれば、真田幸村が、一隊はこの峠を越えて奈良へ達せしめ、他の一隊は中垣内越えをもって山城の木津を経て奈良に達せしめて、大坂に向かう途中に奈良で宿泊していた家康を急襲して亡き者にせんとする戦策をたてました。これは、変則ながら豊臣方の事実上の総帥に似たかたちとなっていた大野修理が同意しなかったために実現しませんでしたが、もし、これが成功していれば、2回にわたる豊臣方と幕府方の戦争はあるいはなかったかもしれません。

 E@の人物がこの峠を通ったときより約10年後の1705年(宝永2年)に、お蔭参り(おかげまいり)と呼ばれるものが爆発的に流行しました。このとき、一日七万人もの人々が、暗越奈良街道を歩き、途中でこの峠を越えて奈良に至り、更にある場所をめざしました。この場所の名前を答えてください。

 F@の人物がこの峠を通ったときより約95年前の1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いがありました。このとき、敗北した西軍のある将は敵中突破を敢行し、信楽・奈良を経てこの峠を通って堺に至り、そこより海路逃走、鹿児島へたどり着きました。敵軍の総大将の本陣の目の前を横切って逃げ去った前代未聞のこの敗軍の将の名前を答えてください。

 G@の人物がこの峠を通ったときより約160年後の1858年(安政5年)に安政五ヵ国条約が締結され、約200年にわたる鎖国の扉が開かれると、外国人が長崎から海路で神戸へ、上陸して陸路で大坂を経てこの峠を通って奈良に至り、そこより山城の加茂、伊賀・伊勢両国境の加太越かぶとごえを経由、関宿で東海道に入り江戸に向かいました。これらの外国人の中には、長崎から江戸への旅のことを「大君の都」という書物に記したイギリスの駐日公使もいました。この人物の名を次より選んでください。

     ハリス  パークス  オールコック  ロッシュ

 H暗越奈良街道は、多数の渡来人が往来し、古代の外来文化を都にもたらした道です。@の人物がこの峠を通ったときより約960年前の736年(天平8)の5月には、入唐していたインド僧の菩提僊那ぼだいせんな、同じく林邑りんゆう(現ベトナム)僧の仏哲ぶってつ、唐僧の道璿どうせんらが、入唐していた遣唐使による日本への渡来要請に応えて大宰府に来航し、8月に難波津に到着、そこで、僧侶99人と雅楽による壮大な式典を伴った、のちに東大寺の大仏を建立する日本初の大僧正の出迎えを受け、その案内でこの峠を越えて平城京に入り、752(天平勝宝4)年の壮大な大仏開眼供養会では、菩提僊那が開眼の筆を執り聖武上皇に代わって開眼師を、道璿は呪願じゅがん文を読む呪願師を務めました。
 それでは、この大僧正の名前を答えてください。なお、それは<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人の答と同じ人物です。

 I下の文は、「矢野騒動」について述べたものです。(  )に入る藩名を次より選んでください。

     会津  越前  紀伊  水戸  長州

  @の人物がこの峠を通ったときより約170年後の1868(慶応4)年、戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いがおき、新政府側がこれに勝利してから約半月後に、現生駒市域の旗本松平氏領(平群郡のうち11か村、5、000石)で、矢野騒動とよばれる一揆が起こりました。その呼称は、平群郡辻村の陣屋にあって苛政を行なってきた代官矢野弥平太らが攻撃対象とされたことによるもので、「御一新」が行なわれようとするなか、領民が旧来の陣屋役人による支配を拒否し、惣代が大坂の(  )藩の出張陣屋へ赴き、「(  )様之御下之さまのおしたの百姓]になりたいと願い出たところに、大きな特色がありました。この一揆の主諜者は、平群郡小瀬おぜ村の宮大工与平らで、(  )藩出張陣屋への願書には、「拾壱ヶ村百姓惣代じゅういっかそんひゃくしょうそうだい」として、同村九郎兵衛くろべえ・太郎右衛門たろえもんと平群郡小平尾こびらお村浅助・八郎兵衛はちろべえ・忠七の名前も記されています。彼らは村役人ではなく、一般百姓のなかの有力者であり、この一揆は、彼らの指導のもと、当時困窮に陥っていた「小前百姓こまえびゃくしょう」らを主体勢力として、村役人をも巻きこむ形で展開されたのです。これと関わって注目されるのは、一揆を起こすにあたって村ごとに作成された傘形連判状かさがたれんぱんじょうです。一揆に参加した11か村のうち、7か村(南田原・小明・辻・菜畑・有里・萩原・小瀬)の連判状がこれまでに見つかっていますが、そこには「小明村一同連印」「萩原村一統約定やくじょう連印」などと記されており、「地方じかた役人」(代官・同心・大庄屋おおじょうや・大庄屋目付)をのぞく、各村の全戸主が連判状に名を連ねたものと思われます。歎願をうけた(  )藩の一隊は、大坂から暗峠を越え、1月23日に辻村の陣屋へ到着しました。そして、同陣屋を包囲していた約500人の百姓たちが見守るなか、矢野代官ら陣屋役人の身柄を拘束し大坂へ連行するに至りました。この一揆は、まさに「御一新」が行なわれようとするさなかに起きた、全国的にも注目すべき一揆であり、この一揆を通して、人々の「世直り」への期待の大きさと、領主を自ら選びとろうとするたくましさをうかがうことができます。
     <「生駒の歴史と文化」(生駒市教育委員会)より、一部修正して引用>

 J次の文の(  )に入る語句を答えてください。

  ➀の人物がこの峠を越えたときから約980年前、平城京に都が置かれて奈良時代が始まりました。この時代、先進的な技術・政治制度・文化の習得や仏典等の収集を目的に中国に派遣された(  )の一行が、都からこの峠を越えて住吉大社にいたり、そこで航海の安全を祈願してから難波津に行き、そこから大陸に出立しました。全部で19回派遣された(  )のうち、この時代のそれは第9回から第17回でしたが、その使節をはじめとする派遣者のなかには、阿倍仲麻呂吉備真備玄ムなどがいました。

 K➀の人物がこの峠を越えてから約100年後の1798(寛政10)年に完成した「古事記伝」は、暗峠のことを「この道は近いから直越じかごえという」と記しています。この書物を著した国学者の名前を答えてください。




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