2014年03月12日

<問3> 生駒を愛し今も生駒に眠る偉人  

 下記の文は、白鳳〜奈良時代に活躍した生駒ゆかりの人物について述べたものです。その人物名をお答えください。


 彼の偉大な業績は、何といっても、仏教を民衆のものにしたことである。仏教の根本の教えは、「慈(喜びや楽しみを与える)悲(悲しみや苦しみを取り除く)の実践(悲しみ・苦しみと喜び・楽しみの共有)による縁起の法(すべてのものは互いに支え合っている)の自覚による苦悩の超克」である。それまでの仏寺といえば、貴族や天皇家の私物であって、そのあり方自体が仏教の教えに反するものであった。仏教伝来ののち、まず蘇我氏が仏寺を建立し、仏を祀る権利を得た。そののち、天皇家や諸豪族が、寺を建立していった。ただし、民衆には、信仰は浸透せず、仏教は貴族等の独占物であった。そして、僧侶は国家の庇護を受けて生活し、寺院に閉じこもって祈りと勉学の日々を送ることを強いられ、社会に出て活動することは規制されていた。これに対し彼は、愛する母を失って悲しみの底に落とされたのち、規制をはね除けて社会に出て、多くの人たちに仏教の教えを説いた。

 また、当時、税として納める諸国の産物は庶民が直接都へ出向いて納めなければいけなかったが、都へ向かう途中で力尽きて餓死したり、都へついたものの帰りの旅費が無く、都で浮浪者になる者も多かった。そこで彼は、彼らを収容するための布施屋とよばれる救護所を作った。また、薬師寺で学んだ土木技術の知識を活かして、重い税や労役にあえぎ苦しみながらも税を都に運ぶ人々のために各地に橋をかけ道路を修理し、ため池や用水路を掘ったりして、民衆救済に尽くした。

 こうして、人々は、彼を「菩薩」(慈悲を実践する者)とあがめ慕って集まった。

 彼は仏教の教えを説きながら近畿を中心に各地をまわり、先々に道場を建て、その数四十九院におよんだ。彼につきしたがう者の数は1000名にのぼり、流民(重課税等に抗するため土地を離れ仕事を放棄して税をおさめない人々)となった。

 当時の奈良王朝の根本は、定住して農地を耕し納税する“良民”の存在を前提につくられた律令制度であったが、仏教の支配層による独占を打破しながら、民衆救済に力を尽くし、流民化した民衆を率いる彼は、鋭い律令体制の批判者となった。彼の運動が広がれば「律令の体制=律令国家」が崩壊しかねない事態となった。当然、彼は朝廷から激しく迫害された。

 しかし、彼は民衆に守られて布教を続けた。730年秋には、平城京の若草山で、毎日数千人から1万人の民衆が、彼を中心に集会するという事態が生じた。

 ここにいたって朝廷は、ローマ帝国が迫害していたキリスト教を突然公認したように、翌年、彼の布教を公認した。

 やがて、聖武天皇に乞われて大仏建立の責任者として招聘された(740年)彼は、大仏建立を重い税を課し朝廷の財力で行うのでなく、仏教に導かれた、延べ260万以上もの民衆の力を結集して推し進めた。この間(745年)、彼は日本初の大僧正となった。

 彼は、大仏開眼を見ることなく、その2年前、82歳で逝去(749年)し、生駒山東稜にある、現生駒市の竹林寺に埋葬され、今もそこに眠る。

 彼は40歳の707(慶雲4)年から生駒山東稜の山房(生駒仙房せんぼう/現竹林寺付近)で、母と暮らして孝養をつくしながら修行し、710(和銅3)年に母を見送り、生駒山中の草野かやの仙房(所在地不詳)に移って712(和銅5)年まで喪に服しながら修養した(下線部については異論もある)。生駒の地で、愛する人と過ごした日々と愛する人の死と向き合った日々の修行と修養が彼の人生に決定的な影響を与えた。かかる思い出深い生駒の地に埋葬されることは彼の遺言であった。

 彼が、民衆に仏教を広め、民衆救済の活動を開始するのは母の喪が明けた40歳代後半であるが、愛する人の死と直面したことが、その契機になった。



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