2014年03月12日

<問2>古来、列島中央部にあってその存在感を示してきた「生駒山」、それに寄り添う「矢田丘陵」、そして「西之京丘陵」

 広義の生駒山たる生駒山地は、標高642mの狭義の生駒山を最高峰(主峰)とし、その北に連なる北嶺ほくれい(北の尾根)と南に連なる南嶺なんれい(南の尾根)の合わせて35qの細長い山地であり、竜(龍)田川上流域の生駒谷とその下流域の平群谷をはさんでその東側に並立して13qの嶺みね(尾根)を連ねているのが矢田丘陵(古代、平群の山と呼ばれた)、その東側に富雄川流域の鳥見谷をはさんで並立して南北10qの丘陵をなしているのが西之京丘陵(京阪奈丘陵ともいう)です<生駒の地理ご参照>。
42 生駒山はさほど高い山地(連峰)ではないにもかかわらず、問題表題にもあるように、古来、列島中央部にあって(右の列島地図ご参照(クリックで拡大))その存在感を示してきました。このような生駒山にかかる問題をいくつか、この生駒検定<全国版>では取り上げていますが、ここでは、それ以外のものを掲載いたします。
 また、生駒山に寄り添っている矢田丘陵(平群の山)とそれと並立する西之京丘陵(京阪奈丘陵)にかかるものも掲載いたします。

生駒山の謎の1つは、その最高峰から真西に古代日本の宮殿があることです。その宮殿を次から選んでください。

     藤原宮  長岡宮  難波宮  平城宮

今も昔も、海の向こうの隣国と日本の関係に緊張が生まれると、その影響をいち早く受ける島があります。今より約1300年前の664年に、この島と飛鳥の都の間の各所にとぶひ(飛火とぶひ・のろし台ともいう)と呼ばれる施設が設置されました。これは、663年の白村江の戦いの敗北によって高まった、都への緊急の知らせをのろし(烽火・烽燧・狼煙)によって伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から行われたものです。

 都が飛鳥から藤原京に、次いで710年に平城京に遷されると、712年に、高安山にあった烽が廃止されて、代わりに、生駒山地中央部にある暗峠より北へ少し行ったところにある天照山てんしょうやま(510m)<地図>に、高見の烽が設置されました。これは、この島を起点に壱岐〜筑紫〜屋島など瀬戸内海各所〜難波方面からのろしによって伝達されてきた大陸・半島の動きについての情報を、のろしによって平城の都に知らせる役割を持つものでした。

 では、この島の名前を答えてください<問 A>。

 また、天照山は江戸時代から近代に至るまで、大坂の米市場の米相場を東海地方に伝達する「旗振山はたふりやま(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」でもありました。

 では、この米市場があった場所の名を答えてください<問 B>。

 なお、暗峠から直線距離で南西約700mの旗立山(486m)<地図>には、南北朝時代に見張り場があったといわれています。

 思えば、かのナガスネヒコが、瀬戸内海の彼方からの東征軍が河内湾に侵入したことをいち早く知ることができたのも生駒山が西方からの情報を受信できる格好の場であったからであり、戦時中は、山上の飛行塔が軍の防空監視所とされ(そのため、戦時中の金属回収令で多くの金属が回収されたが、飛行塔は奇跡的に生き残りました)、その近くに、1941(S16)年、宇宙からの情報を収集するために京都帝国大学(現京都大学)天文台が建設され(残念ながら、1972年に大気汚染等のために閉鎖)、今日でも、生駒山上にはテレビ塔が林立しているように、古代より、生駒山は、遠近の情報を収集・伝達するステーションであったのです。

)次の2つの歌のうち、➀の歌は日本書紀に記された、景行天皇が歌ったものです。Aの歌は、古事記に記された、その子が歌ったものです(文中、・・・・・は省略部分)。Aの歌を歌った人物は誰でしょう。漢字名は難しいので、カタカナで答えてください。

 @<景行紀>天皇は・・・・・子湯県こゆのあがた(現宮崎県児湯郡)においでになり・・・・・そのとき東方を望まれて、お側のものにいわれるのに、「この国は真直に日の出る方に向いているなあ」と。それでその国を名付けて日向ひむかという。この日、野中の大石にのぼって、都をしのんで歌をよまれた。

   愛しきよし 従吾わぎへの家方かたゆ 雲居くもい起来たちくも 倭やまとは 国くにの真区まほらば 畳たたづく 青垣あをがき 山籠やまこもれる 倭やまとし 麗うるはし 命いのちの 全またけむ人ひとは 畳薦たたみこも 平群の山の 白樫しらがしが枝を 髻華うずに挿 この子

   (歌の訳)なつかしいなあ、我が家の方から、雲が湧いて流れてくるよ。大和は最もすぐれた国。青々とした山が重なって、垣のように包んでいる。大和の国は美しいなあ。命の満ち溢れた人は、平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿しなさい。この子よ。

  と、これを国しのびの歌という。(以上、歌以外、講談社学術文庫版より/太字は引用者による)

 A<景行記>・・・・・そこより能煩野のぼの(現鈴鹿山脈の野登山ののぼりやまの麓)に到りまししとき、国を思しのいて歌曰うたひたまはく

   倭やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山隠やまごもれる 倭やまとしうるはし

  また歌曰うたひたまはく、

   命いのちの 全またけむ人は たたみこも 平群の山の くま白かし葉を うずに挿せ その子

  この歌は国思歌くにしのひうたなり。また、歌曰うたひたまはく、

   しけやし 我家わぎへの方かたよ 雲居くもゐち来も 

      たたみこも・・・まこもの葉を編んだ敷物を「一重」「二重」と数えるので、「重へ」から「平群」にかけた枕詞 

  (歌の現代語訳)大和国やまとのくには国々の中で最もよい国だ。重なり合って、青い垣をめぐらしたような山々、その山々に囲まれた大和は美しい国だ。 命の完全な人は、平群の山のくま樫かしの葉を髪に挿して、生命を謳歌するがよい。みなの者よ。(以上、講談社学術文庫版より)

 なお、親子でほとんど同じ歌(これを小異歌という)をなぜ歌ったかなど、➀と➁の歌を説明しているページへの入り口は、「解答・解説」にあります。

次の2つの文は、二首の長歌のそれぞれの大意です。これらの歌は、対になった乞食者ほかひびと祝いや娯楽のための口上・踊り等の芸を売る見返りに食を得ていた芸能民との説が有力の長歌で、@の文を大意とする歌は、鹿の爲に痛みを述べて作られ、➁の文を大意とする歌は、蟹の爲に痛みを述べて作られており、@の文を大意とする歌には平群の山が詠われていますが、この二種の歌を収めている和歌集は何でしょうか。<ヒント:世界最古にして、全20巻4516首を収める世界最大の選歌集です。> 

 @〔大意〕韓國の虎という神様を生捕りにして、八頭も持ち帰り、その皮を畳に作る、その八重畳やへだたみ平群の山で、四月から五月にかけて藥猟くすりがりに奉仕しますときに、この片山に二本立っている櫟いちひのもとで、沢山の弓矢を携えて鹿を待っていると、そこへ一頭の牡鹿がやって来て、嘆きますにはもうすぐ私は死にましょうが、そうすれば大君のお役にたちましょう。私の角は 御笠の装飾に、耳は御墨壺みすみつぼに、眼は澄んだ御鏡に、爪は御弓の弭ゆはずに、毛は御筆みふみての材料に、皮は御箱の皮に、肉や肝はおなますの料に、胃の腑は御塩辛の料となりましょう。年老いた奴の私の身一つに、このようにも七重八重に花が咲くと申しはやして下さい、申しはやして下さい。  この一首は、鹿の爲に痛みを述べて作られた。

 A〔大意(意訳部分あり)〕 難波の江河内湾・河内潟・河内湖のこと)に仮屋を作って隠れ住む蟹の私を、大君がお召しになるということだ。何のためだろうか。歌うたいとしてだろうか。笛吹き、琴弾きとしてだろうか。そんな筈はないが、とにかく仰せを承ろうと、飛鳥に行き、皇居の東の中門から、参内して、承って見ると、馬にこそ絆がかけられ、牛にこそ鼻縄がつけられるのだが、牛馬でもない私をつかまえ、楡にれの皮を沢山はいで垂らされて天日に干された挙句に碓子うすでつかれてしまい、私の故郷である難波の江の濃厚な辛い初塩を持ってきて、陶人すえひとの作った瓶かめに入れて醤ひしお(タレ)をつくり、それをまる干しになった私に塗ってご賞味なさいます。ご賞味なさいますことよ。  この一首は、蟹の爲に痛みを述べて作られた。

 以上の大意の二種の長歌がどんな意味を持つのかなどの説明は「解答・解説」にあります。

)次の文は、ある著書から引用したものです。〔  〕に適する語句(漢字2字)を答えてください。なお、文中の太字と(  )内の字句は引用者によります。

 射目いめ立てて 跡見とみの岳辺おかべの 瞿麦なでしこの花 総ふさ手折たおり われは行きなむ 奈良人ならびとのため――万葉にうたわれた紀鹿人きのかひと(奈良時代の官人・歌人)のおおらかな旋頭歌せどうか(五七七、五七七を二回繰り返す三十八音からなる歌)である。その跡見の岳辺(丘陵のほとり)が富の小川とみのおがわと呼ばれた今の富雄川の上游じょうゆう(上流)、美しい山あいの富雄(奈良市)から真弓(生駒市)のあたり(富雄川上流の東側、北から生駒市真弓小学校区・奈良市富雄地区・大和郡山市最北部に丘陵をなすのが西之京丘陵で、万葉歌人はこれを跡見の岳と詠んだ)。この清麗な里に長弓寺がある。神武天皇東征の時、その軍を孔舎衛くさえ坂に破った長髄彦ながすねひこの故地、神話の里である。
 昔、小野真弓長弓が、子の長麻呂と共に〔  〕帝の供をして鳥見とみの丘(跡見の岳)に遊猟した。その時、飛び立つ異鳥を追って放った長麻呂の矢が、あやまって父にあたり、真弓長弓は落命した。子の悲嘆、父の不運を深くあわれんだ〔  〕帝が行基に命じ、悲劇の地へ一寺を建立された。行基は白檀の十一面観音を造り、〔  〕帝の弓で本尊頭上の仏面を刻んだという。長弓寺草創縁起である。
 今、長弓寺は丘の根のゆるやかな斜面を占め、鎌倉時代の軽快、典雅な国宝本堂を四院の塔頭たっちゅう(寺院を護持している僧侶や家族が住む庵)が守っている。その姿はのどかな一集落のように見える。 



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