2017年04月16日

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(1)このサイトでは、生駒検定<全国版>の問題を問題番号順(降順)に配列しています。ジャンル別に配置しているサイトはこちらです。
(2)文書版<問1〜問14>  文書版<問15〜問17>  文書版<問18〜問20>  文書版<問21〜問25>(未作成)

2017年04月15日

<問25>生駒の全国初・全国一・全国唯一・全国最古

(1)次の各文の(  )に最も適する語句を答えてください。
 @生駒市では、全国的にも事例の少ない「全額市民出資の市民共同(  )所」事業を推進する一般社団法人・市民エネルギー生駒も参加して、17(H29)年7月18日、生駒市の地域エネルギー会社である「いこま市民パワー」が設立されましたが、「市民団体も参加する地域エネルギー会社」は全国初です。

 A生駒市の「(   )」の生産量は全国一で、全国シェアの90%以上を占めています。 

 B1918(T7)年、「日本初の(  )」が鳥居前駅〜宝山寺駅間に開通。それは、1929(S2)年には生駒山上まで延長され、生駒山上遊園地が開設されました。この遊園地で1931(S4)年から動いている飛行塔は、全国最古の現役の大型アトラクションです。

 C生駒市は14(H26)年3月、「(  )モデル都市」に選定されましたが、それは、大都市近郊型の住宅都市としては全国初でした。

 D15(H27)年9月20日、生駒市図書館は「第1回(  )全国大会」を開催しました。それまではすでに、大学生等を対象とした全国大会はありましたが、社会人までを対象にした年齢無制限の全国規模の大会は全国初でした。

 E「こども(  )の家」制度は、店舗版は96(H8)年に岐阜県で始められましたが、家庭版は、97(H9)年に生駒市で始められ、全国的に子どもを対象とした事件が発生し大きな社会問題になる中で、全国にひろまっていきました。

 F09(H21)年10月〜11月に行われた「市議(  )請求署名(リコール署名ともいいます)」の有効署名数は4万4154人(有権者の46.4パーセント)にのぼりました。「市議の(  )投票成立」は全国初で、すべての(  )請求署名において確定有効署名数が有権者の半数近くに達したのも全国初でした。

(2)次の中で、生駒市が全国初でないものを挙げてください。ただし、それは奈良県では初です。
  市外在住者本籍地戸籍証明書コンビニ交付サービス  手紙付きのオリジナル婚姻届  プロボノマラソン  電力固定価格買取制度を活用した自治体浄水場での水力発電設備  カード様式の国保保険証  公共図書館での電子書籍専用端末の閲覧・貸出サービス  ジェネリック医薬品推奨薬局の認定制度

(3)次の中で、生駒市が全国一、またはトップクラスでないものを挙げてください。ただし、それは奈良県では最高です。
  県外就業率  歩きタバコの違反者への過料(2万円)  財政力指数(地方公共団体の財政基盤の強弱を示す指数)  2015年から2025年にかけての後期高齢者(75歳以上)の伸び率

(4)電車が電気を取るタイプには2つあります。一般的なものは架線〔集電〕式で、天井にパンタグラフと呼ばれる集電装置を備え、上から電気を取っています。全国どこでも見られるのがこのタイプです。もう一つが、第三軌条〔集電〕式で、パンタグラフにあたる集電靴しゅうでんかと呼ばれる長靴状のものを車輪のそばに備え、足元から電気を取っています。集電タイプが違う電車は、基本的に違うタイプの電車の線路を走ることはありません。
 @ところが生駒市内の近鉄(近畿日本鉄道)のある駅では、全国で唯一、架線式の線路で第三軌条式の電車を見ることが出来ます。ある駅とはどこでしょう。
 Aまた、生駒市内を走る電車の路線は下記の4つで、すべて近鉄ですが、このうち、第三軌条式を採用しているのはどれでしょうか。
       生駒線  奈良線  生駒鋼索線  けいはんな線
  なお、全国の他の第三軌条式路線は全て時速70Kmまででしか走ることは出来ないのに対し、その路線を走る電車は時速95Kmで走り、その第三軌条式電車としての速度は全国一です。

  解答・解説

2017年02月27日

<問24>生駒ゆかりの諸群像

(1)1930年代前半、生駒山頂上の住宅地設計をした人がいます。この住宅地設計を「生駒山嶺さんれい小都市計画」といいます。その人は、1933年にドイツでナチス政権が誕生すると日本に亡命し、3年半の滞日中に各地を歩き、日本の伝統的建築や民俗的美意識を高く評価して日本美を再発見し、「ニッポン」「日本文化私観」「桂離宮」などの著書を著し、日本文化について優れた文章を残しました。この人は、日本に来る前にはドイツで多くの住宅を設計し、そのいくつかは、後の住宅建設に大きな影響をあたえたことから世界文化遺産に登録されています。この著名な建築家はだれでしょう。

(2)下に記した文は、宇野浩二の小説「△△△△△」からの引用文です。△△△△△には著名な小説家の氏名が入ります(漢字5字)。その小説家とはだれでしょう。<問23>の答と同じ人物です。なお、引用文の〇〇には、その小説家の姓のみが入ります。引用文を読むと、大衆文学の新人作家に贈られる直木賞の由来である直木三十五と、純文学の新人作家に贈られる〇〇賞の由来である△△△△△とが一緒に生駒に遊行していたことがわかります。

 ・・・・・妙な事をいう、とは、思ったが、私は、床とこを出て、支度をし、〇〇も支度をした。そうして、「では、行きましょう」という直木(引用者:直木三十五)のあとについて、私たちは、その茶屋を、出た。ところが、すぐ近くだ、と思ったのが、自動車にのせられ、上本町六丁目にゆき、そこから、奈良ゆきの電車にのせられ、生駒駅でおろされた。・・・・・生駒山は、海抜は二千尺ぐらゐであるが、金剛山脈の北部を占める生駒山脈の主峰であり、河内と大和の境にそびえる山である。二千六百年の昔、勇敢な神武天皇も越えられなかった、という伝説の山である。大阪から真東にある奈良まで行く電車がなかなか出来できなかったのは、この大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかったからである。数年の歳月と巨額の金額をつひやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった。・・・・・この生駒山の山腹の東側に、『生駒聖天』として名高い宝山寺がある。・・・・・その宝山寺にまゐるために、生駒駅から宝山寺までケエブル・カアが出来できた。さうして、ケエブル・カアができるとともに、そのケエブル・カアの停車場の横から、ケエブル・カアの通じる坂にそうた道に、アイマイな茶屋が十数軒あらはれ、そのアイマイ茶屋のために、アイマイ芸者が五十人ちかく集まって来た。直木が、「しづかな所」と称して、〇〇と私を案内したのは、このケエブル・カアの停車場のちかくの、ちょっとした茶屋であった・・・・・。

(3)次の経歴を持つ、著名な学者は誰でしょう。
 生駒山をはさんで生駒市の西隣の大阪府枚岡市(現・東大阪市)で62(S37)年9月に生まれ、小学3年生のとき生駒市の東隣の奈良市の学園前に転居。中学・高校時代は、生駒山を東西に貫くトンネルを走り抜ける近鉄電車に学園前駅で乗車して大阪に通学。高校生のとき、父から医師になることを勧められたものの、将来の進路に迷っていた。しかし、現在、生駒市立病院の指定管理者である徳洲会の理事長である徳田虎雄氏の著書「生命だけは平等だ」を読み、徳田氏の生き方に感銘を受けて医師になることを決意、神戸大学医学部に入学。卒業後、国立大阪病院整形外科で臨床研修医として勤務したが、研究者を志して退職し、大阪市立大学大学院に入学。在学中、米国グラッドストーン研究所に留学。帰国し、大阪市立大学薬理学教室助手に就任。しかし、研究がうまくいかず、科学雑誌で見つけた、生駒市にある奈良先端科学技術大学院大学(先端大)の公募に「どうせだめだろうから、研究職を辞めて臨床医に戻るきっかけのために。」と考え応募したところ、99(11)年12月に助教授に採用され、研究を再開、iPS細胞の開発に成功した(なお、現在は先端大の最寄り駅は近鉄けいはんな線北生駒駅だが、同線が未開通の当時、先端大は近鉄学園前駅とバスで結ばれていた)。03(15)年9月に教授になったが、翌年、京都大学に移った。06(H18)年8月、米学術雑誌セルにマウスの細胞からiPS細胞を作成することに成功したことを報告する論文を掲載。この論文が直接のきっかけとなって、12(H24)年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。

(4)下に記した文で始まる「満月と近鉄」という短編小説は生駒を舞台としています。この作品を書いた小説家を次から選んでください。なお、この作品には、<問22>の答である小説家かと思わせるような長脛ながすね君が登場します。
     万城目学  仁木英之  前野ひろみち  森見登美彦

 若い頃、生駒山の麓で仙人のような暮らしをしていたことがある。十八の春から夏にかけてのことで、今から二十年近くも昔のことになる。私が暮らしていたのは、近鉄生駒駅から「ピックリ商店街」を抜け、宝山寺の参道を五分ほどのぼった「蓬莱荘」であった。

(5)大佛おさらぎ次郎賞は、優れた散文作品に贈られます。その42回目(2015年度)は、生駒市在住詩人の回想記「朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ」に贈られました。この詩人は誰でしょう。次から選んでください。
    金石範キム・ソクポム  李恢成イ・フェソン  金時鐘キム・シジョン  柳美里ユウ・ミリ  梁石日ヤン・ソギル

(6)生駒山の麓に住まいする詩人の貞久秀紀さだひさひでみちさんは、98(H10)年に「空気集め」という詩集で、 詩壇の芥川賞と呼ばれる賞を受賞されました。この賞の名前は何でしょう。次から選んでください。
       H氏賞  O氏賞  Z氏賞  A氏賞  N氏賞

(7)次の文は、「紫障子」という文学作品の紹介記事です(・・・・・は省略部分)。〇〇〇にはこの作品の作者名が入ります。この作者(漢字3字)は誰でしょう。

 ・・・・・猿沢池・・・・の池畔にたたずむ旅龍はたごでの情景が、濃密な怪談への発端となる小説がある。〇〇〇の「紫障子」。〇〇〇が奈良を舞台にした唯一の作品・・・・・。特殊な信仰や伝説から濃厚な怪異譚かいいたんを編む〇〇〇のスタイルは、この作品でも存分に発揮されている。・・・・・作中で京の芸舞妓げいまいこらが、より妖艶ようえんたらんとして執り行うとされる蛇神の秘儀は、上方の花柳界に伝わる「巳みいさん信仰」(引用者:蛇神信仰のこと)と、花街からの信仰も厚かった奈良・生駒山宝山寺の「浴油供よくゆく」がベース。〇〇〇はそこから「今昔物語集」の纐纈城こうけつじょう伝説を連想したらしい。人間を太らせ、脂や血を搾り取るという説話だ。・・・・・舞台となった勝手屋のモデルは定かでないが、五重塔が映る猿沢池は当時のまま。浮世を逆さまに映す鏡のような水面に、〇〇〇は何を見たのだろうか。〜都ものがたり 奈良「〇〇〇 猿沢池畔を舞台に執筆」<朝日新聞/17(H29).6.8>〜

  解答・解説

2017年02月18日

<問23>短編小説「犬と笛」

      短編小説「犬と笛」のあらすじは下記の通りです。
   生駒山も舞台とし、生駒の山の女神である駒姫も登場する
        この物語の作者の名前を答えてください。

             出立編<葛城三神>
 昔、大和やまとの国葛城山かつらぎやまの麓ふもとに、髪長彦かみながひこという若い木樵きこりが住んでいました。
 ある日、髪長彦はいつもの通り、とある大木の根で笛を吹いていると、足一つの神があらわれ、いつも笛の音を楽しませてもらっている礼に願い事をなんでもかなえてやろうといいました。そこで、髪長彦は「私は犬が好きですから犬を一匹下さい。」と答えました。そんな髪長彦の無欲なこころを気に入った神は、森の奥から嗅覚の優れた白犬「嗅げ」を呼んで与えました
 あくる日、髪長彦は今度は、手一つの神から、その背中に乗れば空を飛べる黒犬「飛べ」をもらいました。
 そのあくる日は、髪長彦は、目一つの神から、鬼神おにがみでも噛み殺せる斑犬ぶちいぬの「噛め」をもらいました。
 目一つの神は、三人の神からもらった犬たちは髪長彦が笛を吹けば吹いたところに来ると伝えました。
 それから数日後、葛城山の麓の路みちを髪長彦が歩いていると、侍さむらい二人に出逢い、飛鳥の大臣様おおおみさまの御姫様姉妹が行方不明だと知らされました。
            試練と勝利編T<生駒山>
 髪長彦は「嗅げ」に御姫様達の行方を嗅ぎ出すよう命じたところ、姉の御姫様は生駒山の洞穴ほらあなに住む食蜃人しょくしんじんのとりこになっているとわかりました。
 食蜃人と云うのは、昔八岐やまたの大蛇おろちを飼っていた、途方もない悪者なのです。
 そこで髪長彦はすぐ「嗅げ」と「噛め」とを、両方の側わきにかかえたまま、「飛べ」の背中に跨またがって、大きな声でこう云いつけました。「飛べ。飛べ。生駒山の洞穴に住んでいる食蜃人の所へ飛んで行け。」
 その言ことばが終らない中うちです。恐しいつむじ風が、髪長彦の足の下から吹き起ったと思いますと、まるで一ひらの木葉このはのように、見る見る「飛べ」は空へ舞い上って、青雲あおぐもの向うにかくれている、遠い生駒山の峰の方へ、真一文字に飛び始めました。
 やがて髪長彦が生駒山へ来て見ますと、山の中程なかほどに大きな洞穴が一つあって、その中に金の櫛くしをさした、綺麗きれいな御姫様が一人、しくしく泣いていらっしゃいました。
 「御姫様、御姫様、私がお迎えにまいりましたから、もう御心配には及びません。さあ、早く、御父様おとうさまの所へお帰りになる御仕度をなすって下さいまし。」
 こう髪長彦が云いますと、三匹の犬も御姫様の裾すそや袖そでをくわえながら、「さあ早く、お仕度をなすって下さいまし。わん、わん、わん、」と吠えました。
 しかし御姫様は、まだ眼に涙をためながら、洞穴の奥の方をそっと指さして御見せになって、「それでもあすこには、私をさらって来た食蜃人が、さっきからお酒に酔って寝ています。あれが目をさましたら、すぐに追いかけて来るでしょう。そうすると、あなたも私も、命をとられてしまうのにちがいありません。」とおっしゃいました。
 髪長彦はにっこりほほ笑んで、「高たかの知れた食蜃人なぞを、何でこの私が怖こわがりましょう。その証拠には、今ここで、訳わけなく私が退治してご覧に入れます。」と云いながら、「噛め」の背中を一つたたいて、「噛め。噛め。この洞穴の奥にいる食蜃人を一噛みに噛み殺せ。」と、勇ましい声でいいつけました。
 すると「噛め」はすぐ牙きばをむき出して、雷かみなりのように唸うなりながら、まっしぐらに洞穴の中へとびこみましたが、たちまちの中うちにまだ血だらけな食蜃人の首をくわえたまま、尾をふって外へ出て来ました。
 ところが不思議な事には、それと同時に、雲で埋うずまっている谷底から、一陣の風がまき起りますと、その風の中に何かいて、「髪長彦さん。ありがとう。このご恩は忘れません。私は食蜃人にいじめられていた、生駒山の駒姫こまひめです。」と、やさしい声でいいました。
 しかし姉の御姫様は、命拾いをなすった嬉しさに、この声も聞えないようなご容子ようすでしたが、やがて髪長彦の方を向いて、心配そうに仰有おっしゃいますには、「私はあなたのおかげで命拾いをしましたが、妹は今時分どこでどんな目に逢って居りましょう。」
            試練と勝利編U<笠置山>
 髪長彦はこれを聞くと、今度は妹の御姫様についても「嗅げ」に命じたところ、妹の御姫様は笠置山の洞穴に住む土蜘蛛つちぐもの虜になっているとわかったので、「飛べ」に乗って笠置山へ飛びました。
 そこで、一旦は土蜘蛛を降伏させましたが、隙すきを見て土蜘蛛は、二人の姫、三匹の犬、髪長彦を洞穴に閉じ込めてしまいました。だが、土蜘蛛は油断して、髪長彦の笛の美しい音色に魅入られて洞穴をふさいでいた大岩を開けてしまい。「噛め」に噛み殺されてしまいました。
 所がまた不思議な事には、それと同時に谷底から、一陣の風が吹き起って、「髪長彦さん。ありがとう。このご恩は忘れません。私は土蜘蛛にいじめられていた、笠置山かさぎやまの笠姫かさひめです。」とやさしい声が聞えました。
             帰還編<飛鳥の都>
 さて、髪長彦が、「飛べ」に乗って飛鳥の大臣様の下へ御姫様達をお連れする途中、御姫様達を探していた侍二人を見かけたので、髪長彦は地上に降りて自分の手柄を話しました。すると侍二人は嫉妬して、髪長彦が油断した隙に大事な笛を奪い、三匹の犬と御姫様達も奪い、「飛べ」に乗って大臣様のいる都へ飛んで行ってしまいました。
 髪長彦が途方に暮れておいおい泣いておりますと、生駒山の峰の方から、さっと風が吹いて来たと思いますと、その風の中に声がして、「髪長彦さん。髪長彦さん。私は生駒山の駒姫です。」と、やさしい囁ささやきが聞えました。それと同時にまた笠置山の方からも、さっと風が渡るや否や、やはりその風の中にも声があって、「髪長彦さん。髪長彦さん。私は笠置山の笠姫です。」と、これもやさしく囁きました。そうしてその声が一つになって、「これからすぐに私たちは、あの侍たちの後あとを追って、笛をとり返して上げますから、少しも御心配なさいますな。」と云うか云わない中うちに、風は唸りながら、さっき「飛べ」の飛んで行った方へ行ってしまいました。が、少したつとその風は戻ってきて、あの大事な笛を始め、金の鎧よろいだの、銀の兜かぶとだの、孔雀くじゃくの羽の矢だの、香木こうぼくの弓だの、立派な大将の装いが、まるで雨か霰あられのように、眩まぶしく日に輝きながら、ばらばら髪長彦の眼の前へ降って来ました。髪長彦はそれらを装備し、笛を吹いて呼び戻した「飛べ」に乗って飛鳥に向かい、大臣様のもとへ空から舞い降り、御姫様達を助けたのは自分で、二人の侍が自分の手柄を奪ったと告げると、侍は反論しました。しかし御姫様達の証言で侍は白状し、言い逃れができなくなった侍たちは三匹の犬に追われて御館おやかたの外へ逃げて行きました。
                エピローグ
 そののち、髪長彦は大臣様の御婿様おむこさまとなりました。ただ、どちらの御姫様が、髪長彦の御嫁さんになりましたか、それだけは何分昔の事で、今でははっきりとわかっておりません。

 <1918(大正7)年12月作/翌年1・2月、児童雑誌「赤い鳥」に発表>

 お断り : 〇〇編<〇〇>やエピローグという途中表題は、問題作成者があらすじをわかりやすくするために付けたものです。また、生駒山を舞台とし駒姫が登場する「試練と勝利編T<生駒山>」については、原文をほぼそのまま引用しております。

  解答・解説

2017年02月07日

<問22>小説「ペンギン・ハイウェイ」

 「ペンギン・ハイウェイ」の作者は、自身の作品を次のように述べています。
 〜「ペンギン・ハイウェイ」は、わかりやすくいえば、郊外住宅地を舞台にして未知との遭遇を描こうとした小説です。スタニスワフ・レム「ソラリス」がたいへん好きなので、あの小説が美しく構築していたように、人間が理解できる領域と、人間に理解できない領域の境界線を描いてみようと思いました。郊外に生きる少年が全力を尽くして世界の果てに到達しようとする物語です。自分が幼かった頃に考えていた根源的な疑問や、欲望や夢を一つ残らず詰め込みました。〜
 この作品の舞台は、作者が育った生駒市北部のまちがモデルになっています。作者はこのまちをみずみずしい少年の感性をはぐくむところとして描いています。では、この作者とは誰でしょう。なお、そのペンネームは、本名の姓に、生駒の神話の主人公の名前を合わせたものとのことです。

  解答・解説

2016年06月21日

<問21>生駒伝承

 下の文の〇に入る語句を次から選んでください。
    鳩ハト  烏カラス  鶏ニワトリ  雀スズメ

 生駒には、大要、次のような「(三韓征伐に向かう途上で生駒に宿営した)神功皇后と〇」の伝承があります。

 神功じんぐう皇后が三韓(古代の朝鮮半島)征伐に向かって暗越くらがりごえ街道を進軍する途上、生駒の暗峠の麓に宿営した。皇后は〇に明朝鳴いて出発の時を知らせるようにと厳命した。しかし、いつまでたっても〇は鳴かなかった。そのため皇后は出発できなかった。大変怒った皇后は〇を龍田川に捨ててしまった。しかし、下流のほとりの龍田大明神は、神の使いでありながら流されている〇を救い上げた。それより、〇は龍田神社にて人々の清めを司っている。そして、毎年元旦には神社の裏山から金の〇の吉兆の鳴き声が聞こえるという。 (皇后の宿泊地には諸説あり、また、〇は早く鳴きすぎた、遅く鳴きすぎた、との説もあるなど、この伝承にはいくつかのバリエーションがありますが、上記のように統一しました。)

 伝承は、何らかの事実が元になっていますが、事実をそのまま述べているのではないので真意はわかりにくくなっています。
 さて、太古の昔より、〇は闇を払って暁を告げるありがたい鳥として大切にされてきました。そのため、古事記<上巻 天照大御神と須佐之男命 三 天石屋戸>日本書紀<巻第一 神代上 天の岩屋>は、常世とこよの長鳴鳥ながなきどり(「常世=永遠の世界」から来た、声を長く引いて鳴く鳥)である〇を鳴かせることで、天あまの岩戸いわと(岩屋いわや)に入って隠れてしまった天照大神あまてらすおおみかみ(=太陽)を岩戸から出す事に成功して世界から闇を払った話を記し、それ以来、〇は神の使いとされてきました(伊勢神宮や石上いそのかみ神宮などでは今でも〇は神の使いとして放し飼いにされています)。それを踏まえると、「(神の使いたる)〇が鳴いて征伐出発の時を知らせることをしなかった」との「神功皇后と〇」の伝承は、征伐否定こそが神意であったことを今に伝える伝承であるといえます。
 古事記<中巻 仲哀天皇 二 神功皇后の神がかりと神託>日本書紀<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>にも実は、神功皇后の行為を否定する、大要、次のような話が記されています。

 神功皇后が神がかりして神託を受けて、「西の方に、金や銀など宝物がたくさんある国がある。私は、その国を服属させてあげようと思う」と仰せになった。ところが仲哀ちゅうあい天皇がこれに答えて、「高い所に登って西の方を見ると、国土は見えないで、ただ大海があるだけだ」と申された。すると神がひどくお怒りになり、まもなく天皇は急死された。

 皇后の行為を神が否定する「神功皇后と〇」の伝承と神が皇后に託した行為を天皇が否定する「仲哀天皇急死」の記紀説話は、古代日本において、皇后の意に沿わなかった神の使いが川に捨てられる、神託に異を唱えた天皇が急死に追い込まれるという話として残さざるを得ないほどの、戦いに反対する激しい動きがあったことを今に伝えています。
 また、「神功皇后と〇」の生駒伝承の真意は、長髄彦が堕落しないよう彼が神武天皇と戦う(殺戮する=命あるものを食べるため以外の目的で殺す)のを金の鵄(鳥)が止めたという生駒の神話(<問1>神話の里ご参照)のそれと符合しています。

 「神功皇后と〇」の伝承は戦い忌避伝承、生駒神話は戦い忌避神話といえます。生駒で生まれ受け継がれてきたかかる伝承や神話は、世界に向けて平和のメッセージを静かに発しています。

  解答・解説

2016年04月15日

<問20> 生駒の川は神話や伝説、伝承に彩られている

 下の文のAにあてはまる語句(漢字2字)は何でしょう。
◎地図 ○49 84 生駒の地形図2.jpg

 上の≪生駒市〜奈良市中西部の地形概念図≫(クリックで拡大できます)で示されているように、生駒市内を源とする川は4つあります。山田川、天野川、富雄川、A川で、いずれも神話や伝説、伝承に彩られています。
 山田川の源流域には昔は鹿がたくさん生息しており、そこに成立した集落は鹿畑しかはたと呼ばれるようになりました。その鹿畑の最も見晴しのよい場所に素盞嗚すさのお神社が鎮座しています。この神社の祭神は本殿に祀まつられている素盞嗚命すさのおのみことで、摂社(祭神と縁の深い神を祀った社<やしろ>)には素盞嗚命の子孫たる大国主命おおくにぬしのみことが祀られ、摂社に次ぐ格式の末社には天照大神、八幡神やわ(は)たのかみ/はちまんしん、春日明神かすがみょうじん(春日大社から迎えた神)などの諸神が祀られています。この神社に残された記録では、この地の鹿が、鹿を神使とする春日大社に奉納されたことが記されています。奈良では、春日大社を含む奈良公園とその隣接市街地という都市部で野生の動物(鹿)と人間とが共存しています。それは世界的にも稀有なことで、都市部で人間と共存する野生の鹿は奈良のシンボルとなっていますが、そのルーツは山田川源流域にあると伝えられています。
 天野川の名は、古代に流域が甘くおいしい米が実る肥沃な野という意味で甘野あまのと呼ばれていたことに由来して甘野川とされていたのが、いつしか天野川(天の川)と呼ばれるようになったと伝えられています。天野川は、白く輝く川砂と澄んだ流れが夜空の天の川を思わせることから、何時しか流域では七夕伝説が生まれたことは良く知られている通りであり、また、星の森の泉から流れ出す水が天の(野)川となったという言い伝えもあり、天空のロマンを感じさせる川です。また、かつて天野川上流の田原の里は桃源郷のごとくであったことは<問18>生駒に「桃源郷」があった!で述べられている通りです。
 富雄川(とみおがわ)は、昔、トミ(富・鳥見・登美・登弥・等彌・迹見などいろんな字が充てられてきました/鵄トビから変化したともいわれています)と呼ばれた地域を流れたので「とみがわ(富河・鳥見川)/とみおがわ(鳥見小河・富小川)/とみのおがわ(登美の小河・富の小川)」と呼ばれていたのが、いつしか富雄川と呼ばれるようになりました。日本書紀では、長髄彦ながすねひこが内つ国うちつくに(生駒山地の東側)をわが国といっており、古事記は、長髄彦のことを登美那賀須泥毘古とみのながすねひこ・登美毘古とみひこと表記していることから、生駒神話の主人公である登美彦(長髄彦)の本拠地は富雄川流域のトミ地域(現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域)とされています。
 A川は、生駒山地北東麓を源とし、A姫伝承を生みました。A姫はA川流域の山の神霊が秋の草木を染め抜く女神としての神格を持ったものです。A姫は、奈良市中西部を流れる佐保川流域の山の神霊が春の野山を彩る女神としての神格を持った佐保姫と東西・春秋の一対の女神とされています。
 西之京丘陵と佐保・佐紀丘陵〜笠置山地の間を流れるのが佐保川、生駒山地と矢田丘陵の間(生駒谷)を流れるのがA川、両川を取り持つように西之京丘陵と矢田丘陵の間(鳥見とみ谷)を流れるのが富雄川です。「彦」は元は「日(太陽の)子」(ひこ)といい、すぐれた男子の意です。また、「姫」は元は「日(太陽の)女」(ひめ)といい、すぐれた女子の意です。記紀を読むかぎり、登美彦は独身です。彼は2人の姫にはさまれたかたちとなっています。
佐保姫.jpg秋ちゃん.jpg
 それはさておき、A姫をモチーフとした秋ちゃん(左の図<出典>/右の図は佐保姫<出典>)がNHKニュースウオッチ9のお天気キャラクターとして登場したことでA姫のことが広く知られるようになりましたが、それではA姫・A川のAにあてはまる語句(漢字2字)をお答えください。

  解答・解説

2016年02月20日

<問19> 仏教芸術(建築・絵画)

 NHKの街歩き番組といえば「ブラタモリ」。15(H27)年7月4日に放映されたのは、第4シリーズの「#11 奈良の宝 〜観光地・奈良はどう守られた?〜<テーマ「文化財の守り方」>」でした。
 この街歩きの中でタモリさんと絶妙のコンビぶりを発揮して人気を急上昇させてきた桑子アナウンサーと共に、今回、タモリさんは、奈良時代に建立された大仏殿と大仏の1300年間のいくたびかの修復・再建の工夫・苦心のあとを探索・探査した後、大仏建立と同時代に聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝えられる、生駒市俵口町にある真言律宗のお寺を訪れました。
 このお寺の本堂は鎌倉時代に建てられた重要文化財で、2012年9月から2016年秋完了の予定で全面解体し組み直す大規模な修理工事が行われています。この修理現場に潜入したタモリさんは、宮大工(何と県庁職員!)に弟子入りし、カンナがけの技を磨き(↓下図<クリックで拡大>)、その腕を認められたタモリさんは、修理を終えた2つの木材の結合部を固定するための込栓こみせんを打ち込ませてもらいました。その込栓はそのまま次の修復までの200〜300年、「タモリが修理した痕跡」として生き続けます。タモリさんいわく「(もう)他人ひとの寺って感じしないよね!」(このお寺の別名を「タモリ寺」にしようという声もあるようです。)
ブラタモリ 入り.jpg

 タモリさんは、今回、重要文化財では初めて導入された、制震ダンパー(地震の揺れを軽減する部品)も見せてもらいました。ボルトを使うために古い木材に穴を開けてしまうことになり、文化財の修理としては異例の手法。これには葛藤があったと、県文化財保存事務所の修理担当者は語りました。その是非の判断は後世(次の修復の200〜300年後)に委ねられることになります。
 こうした、さまざまな努力によって奈良の宝(文化財)は守られてきました。
(1)それでは、タモリさんも奈良の宝を守るために一役かった痕跡が残る生駒市にあるお寺とはどこでしょう。次から選んでください。
     
     長福寺  竹林寺  長弓寺  圓證寺  円福寺

(2)また、このお寺の修理工事中に、極楽浄土に住み美しい仏の声を発するとされる想像上の鳥(鳥の姿をした菩薩ともいえる)が本堂内部の柱に描かれていることが発見され、復元されたのが下の図ですが、この想像上の鳥の名はなんでしょう。次から選んでください。

  鳳凰ほうおう 朱雀すじゃく 迦楼羅天かるらてん 迦陵頻迦かりょうびんが
迦陵頻迦.jpg


  解答・解説

2015年12月24日

<問18> 生駒に「桃源郷」があった!

 江戸時代前期を代表する諸学問の学者であった貝原益軒は紀行家でもあり、その紀行文の1つに「諸州めぐり南遊紀行」があります。この中で、益軒は要約すると次のように記しています。
 元禄2(1689)年、京を出発。山城・河内の国境たる洞ヶ峠を通り、河内の国私市を経て、文字通り天上の天の川のごとく白砂の川原が続く天の川(天野川)を遡り、船形の巨岩が横たわる奇境なる岩船(磐船)に至る。そして、その岩船から続く数百mの山峡を抜けると、大きい谷に広がる里に出た。ここは田原といい、その中央を流れる天の川の東を東田原といい大和の国で、川の西を西田原といい河内の国であるが、この山間の幽谷の中なる田原の里は、あたかも、「桃花源記とうかげんき」で描かれた、両岸に桃の花の林が続く川を遡ってたどり着いた川の源の山の向こうにあった理想郷(桃源郷)のようである。
 このように貝原益軒は、東田原(現生駒市北田原町)と西田原(現四条畷市の下田原)はあたかも桃源郷のようであると賛美していますが、それでは、桃源郷の由来をなす「桃花源記」を著した中国六朝りくちょう時代を代表する文学者はだれでしょう。次から選んでください。

    白居易  杜甫  李白  陶淵明

 解答・解説

2015年10月27日

<問17> 「生駒」の語源・由来

 生駒の語源・由来については次のような諸説があります。
 高原だから「イ(接頭語)・コマ(高原)」。放牧地があったから「イ(接頭語)・コマ(駒=馬)」。奥まった小盆地があるから「イ(接頭語)・クマ(隈)→イコマ」。大和の国の西方の隅(すみ)に位置するから「イリ(入り)・クマ(隅)→イコマ」。分かれ嶺があるから「クマル(分)→イコマ」。生駒への渡来人の国にちなんで「イ(接頭語)・コマ(高句麗)」。
 これらはいずれも、古くとも弥生時代にまで遡(さかのぼ)って当時に使用されていた言語で生駒がどのように呼ばれていたかに語源・由来を求めるものですが、生駒にはすでに弥生時代以前の縄文時代に人が住まいしており、この時代にまで遡ったものでないので定説(ある事柄について、その説が正しいと広く認められている説・学説)とは言い難いものです。
 ところで実は、縄文時代に使用されていた言語で生駒がどう呼ばれていたかに生駒の語源・由来を求めた、定説とすべき説があります。それは次のようなものです。
 縄文時代に生駒付近で住まいしていた人々のことを日本書紀は愛瀰詩(えみし)と呼んでいます。これは、三文字とも麗わしい文字を使用している(「瀰」は水の盛なさまの意)ように尊称です。日本書紀は愛瀰詩を「一人で百人に当るほど強いが、戦わない人々」と紹介しています。この愛瀰詩(縄文人)が使用した縄文語の研究によれば、「イコマ」はもともと「イ・コマ」ではなく「イコ・マ」であり、イコ・マの語源を遡れば、イコ・マ→イク・オマ→ユック・オマー(yuk‐oma)となり、ユック・オマーとは、ユックがオマー(そこにいる。)という意味です。ユックとは、当時、生駒山にたくさん生息していたある動物のことです。
 縄文時代、水の豊かな生駒山系一帯の、木の実の豊かな雑木の原始林には狩猟対象の動物が沢山棲息し、縄文人にとって生駒山は四季を通じて獲物の宝庫で、山に分け入って狩りさえすれば山の幸が必ず授かり人々は飢餓におち入らずに済んだという有難い山でした。そこで誰が言うともなく、この山は「ユックがそこにいる」山、すなわち「ユックのオマー(そこにいる)」山→「イク・オマ」の山→「イコ・マ」の山→「イコマ」の山と呼ばれるようになったのです。そしてやがて、イコマには伊古麻、射駒、瞻駒、往馬、生馬などの漢字が宛てられていきました。
 それでは、縄文時代のイコマ(生駒)の山を代表し、その語源・由来となった、縄文語でユック(yuk)と呼ばれた動物の現代名は何でしょうか。次より選んでください(なお、それは、縄文語を引き継いでいるとされるアイヌ語の研究の第一人者である知里真志保教授編纂の「地名アイヌ語小辞典」に記載のユック―yuk―の現代日本語訳とします)。

     ウサギ  イノシシ  シカ  キツネ

  解答・解説

2015年09月07日

<問16> 仏教芸術(建築)

 東京の中央部に位置する港区には、3つのホテルとコンベンション施設や貴賓館等が立ち並ぶ広大なプリンスホテル高輪エリアがあります(↓地図<クリックで拡大>)。
ああプリンスホテル高輪エリア 出典あり.jpg
 このエリアの中心は、約2ヘクタールに及ぶ「日本庭園」と呼ばれる大庭園で、そこには、滝を持つ大きな自然池や茶寮さりょう・鐘楼しょうろう・茶室のほか、山門を持つ御堂みどうが配置されています。この御堂は、人々に慈悲をもたらす観世音菩薩かんぜおんぼさつを安置しているので「観音堂」(↓写真<クリックで拡大>)と呼ばれています。

観音堂takanawakannondou55.jpg

 この、日本の自然美・伝統美を現出した「日本庭園」は、国内外から来京する人々や東京という大都会で働き居住する人々の癒しと憩いの場所となっていますが、実は、「日本庭園」の中核をなす「観音堂」は、生駒のある寺院にあった三重塔の初層(一階)部分を移築したものです。

 ある寺院とはどこでしょう。次から選んでください。


     長福寺  竹林寺  長弓寺  圓證寺  円福寺


2015年06月29日

<問15> 神話の里(その2)

 日本書紀には、次のような「国生み神話」が記されています。
 男女二神は、8つの洲しまを生んだ。これによって大八洲国おおやしまのくに多くの洲からなる国、または、8つの洲を元とする国の意で、日本の異称)という名が起こった。次に海を生んだ。次に川を生んだ。次に山を生んだ。
 この神話は、次のような、人は洲から内陸に向かうという、この神話をつくった人々の国土観を伝えています。
 すなわち、縄文時代の末から海の向こうより船に乗ってやって来た人々は、まず8つの洲しまに住み着いた。次に、その周辺の海を、更には遠くの海を自分たちのものにしながら各地の海辺に活動拠点を設け、そこより山麓・山中の川を遡り、その沿岸沿いに居住・農耕などの活動範囲を拡大していった。このようにして、後に日本と呼ばれる国土が形成された。なお、当初、新しく日本にやって来た人々が居住・活動できる場所としては海辺や川沿いの段丘はありましたが、のちの平野部分はほとんど海水で覆われていました。つまり、日本列島は島と海辺と川と山だけだったので、「国生み神話」には平野(平地)を生んだという表現はありません。なお、魏志倭人伝に「倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島さんとうに依りて国邑くにむらをなす」となっているように、卑弥呼の時代(弥生時代後半)になっても、「山島」(山が海ぎわまで迫っていて平地に乏しい地形)と呼ばれる地形が日本の地形でした。
 ところで、大八洲国という名の起こりの8つの洲とはどこでしょう。日本書紀本文では、淡路洲あわじしま(現淡路島)、億岐洲おきのしま(現隠岐島)と佐度洲さどのしま(現佐渡島)という双子の島、大洲おおのしま(現周防大島/洲を「クニ」と読んで大洲おおクニ=大国=出雲、とする説もあり)、吉備子洲きびのこしま(古代は島だった現児島半島)の4洲(双子の島は1洲として)と、豊秋津洲とよあきつしま(本州、または本州にあった洲)、伊予二名洲いよのふたなしま(四国、または四国にあった洲)、筑紫洲つくしのしま(九州、または九州にあった洲)、越洲こしのしま(越前〜越後にあった洲)の4洲を記しています。うしろの4洲の比定地については、これまでは信頼できる定説がありませんでしたが、豊秋津洲とよあきつしまについては、最近、下に掲載した4つの地図(クリックで拡大できます/各地図の出典は、解答・解説に記載)などに示された古代の畿内きない大和・山城・河内・摂津・和泉)の地形の変化を考慮した結果、豊秋津洲を、海に浮かぶ島から大阪湾に突き出た島状の半島に地形を変化させてきた現生駒市に比定する説が出されています。この説に従えば、まさに生駒は日本国土の根(ネ/根本・基礎)だということになります。
吉本隆明「ハイ・イメージ論」第3図表示付きhighimagetizu.jpg

地図 浮かぶ生駒山地 次期入り.jpg

海面が+60mだった頃の生駒市 年代入り○.jpg

古代の鍵を握る奈良湖53 時代入り〇.jpg

 このように注目される「国生み神話」において、大八洲国の名の起こりの8つの洲しまと海・川・山を生み出した女神とは誰ですか。次から選んでください。

   アマテラス(天照大神あまてらすおおみかみ)  ツクヨミ(月読命つくよみのみこと)  アメノウズメ(天鈿女命あめのうずめのみこと)  イザナミ(伊弉冉尊いざなみのみこと

 解答・解説

2014年07月03日

<問14>歴史が息吹く生駒の古道

 檀家制度が確立する江戸時代に入るまで、交通手段も通信網も限られていたにもかかわらず、お坊さんは広範囲をマメに歩き、信者の家を訪ねたりお葬式をあげたりしていた。そういう宗教者の存在ほど、民衆にとって心強いものはなかった。
 この人物も晩年、南山城の酬恩寺を根拠地に、京都東山や摂津、和泉堺などの間を頻繁に往来した。
 大和の国の北端に位置する高山は、河内・山城の両国との三国境にあり、古来、交通の要地であった。この人物は、旅の往還に高山の交通の要衝である中村の里を通る街道を月1回は通ったという。そのため、この街道は「〇〇さんの通い路(かよいじ)」と呼ばれている。〇〇には、この人物名が入る。
 室町中期の高僧で、頓智(トンチ)で有名なこの人物の名前を答えてください。

 解答・解説

2014年03月16日

<問13> 歴史を見つめてきた暗峠(くらがりとうげ)

 暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)は、難波と大和を結ぶ古代からの街道で、その最高所にある暗峠(標高455m)は交通の要衝です。

 @1694年10月27日(元禄7年9月9日)に、奈良から大坂へ向かう途中この峠を通り、「菊の香に くらがり登る 節句哉かな」という重陽ちょうようの節句(注)にちなんだ句を詠んだ俳人の名前を答えてください。
   (注)重陽の節句は、五節句の一つ。節句は季節の節目ふしめとなる日。五節句とは、1月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日で、それぞれ、七草の節句・桃の節句・菖蒲の節句・七夕の節句・菊の節句という。なお、漢名ではそれぞれ、人日じんじ・上巳じょうし・端午たんご・七夕しちせき・重陽ちょうようという。

 A道鏡が天皇から皇位を譲り受けようとしたとき、@の人物がこの峠を通ったときより925年前の769年(神護景雲元年)に豊前(現福岡県北東部と大分県北西部)の宇佐八幡宮に出向いて「皇位は皇族以外の者に譲ってはならない」というのが神託であると確認して、道鏡への譲位に反対し、そのため大隅国(現鹿児島県東部)に流罪とされ、そこに向かう途上でこの峠を通ったとされる人物の名前を答えてください。
  なお、道鏡の命で刺客がこの人物をこの峠で暗殺せんとしたとき、にわかにものすごい雷雨が起こり天地が暗黒になり、その為にこの人物は危難をのがれたといい、その時暗くなったので、ここを暗峠というようになった、との説があります。 

 B@の人物がこの峠を通ったときより約940年前の753年(天平勝宝5年)に、難波津から平城京に向かう途中この峠を越え、のち、唐招提寺を創建した中国渡来の人物の名前を答えてください。

 C@の人物がこの峠を通ったときより約110年前の1585年(天正13年)に、ある人物が大和・紀伊・和泉の3国を治める110万石の郡山城主となり、この峠を越えて郡山城と大坂城を往来して豊臣政権を支えました。しかし、1591年(天正19年)に郡山城内で亡くなり、その早すぎる死により最強の支えと英知を失った豊臣政権は、朝鮮出兵を最大とする愚策によって崩壊していきました。もし、もう少し長命を保っていたならば豊臣政権の崩壊はなく、家康に豊臣家を滅ぼされる事も無かったと今だに言われている、この人物の名前を答えてください。

 D@の人物がこの峠を通ったときより約80年前の1615年(慶長20年)の4月26日、大野治房隊は、この峠を越えて大和国へ侵入し、翌27日に郡山城を陥落させました(郡山城の戦い)。この豊臣方の先制攻撃で始まった2回目の豊臣方と幕府方の戦争の名前を答えてください。
 なお、豊臣方と幕府方の戦争といえば、その1回目の開始直前、司馬遼太郎「城塞」によれば、真田幸村が、一隊はこの峠を越えて奈良へ達せしめ、他の一隊は中垣内越えをもって山城の木津を経て奈良に達せしめて、大坂に向かう途中に奈良で宿泊していた家康を急襲して亡き者にせんとする戦策をたてました。これは、変則ながら豊臣方の事実上の総帥に似たかたちとなっていた大野修理が同意しなかったために実現しませんでしたが、もし、これが成功していれば、2回にわたる豊臣方と幕府方の戦争はあるいはなかったかもしれません。

 E@の人物がこの峠を通ったときより約10年後の1705年(宝永2年)に、お蔭参り(おかげまいり)と呼ばれるものが爆発的に流行しました。このとき、一日七万人もの人々が、暗越奈良街道を歩き、途中でこの峠を越えて奈良に至り、更にある場所をめざしました。この場所の名前を答えてください。

 F@の人物がこの峠を通ったときより約95年前の1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いがありました。このとき、敗北した西軍のある将は敵中突破を敢行し、信楽・奈良を経てこの峠を通って堺に至り、そこより海路逃走、鹿児島へたどり着きました。敵軍の総大将の本陣の目の前を横切って逃げ去った前代未聞のこの敗軍の将の名前を答えてください。

 G@の人物がこの峠を通ったときより約160年後の1858年(安政5年)に安政五ヵ国条約が締結され、約200年にわたる鎖国の扉が開かれると、外国人が長崎から海路で神戸へ、上陸して陸路で大坂を経てこの峠を通って奈良に至り、そこより山城の加茂、伊賀・伊勢両国境の加太越かぶとごえを経由、関宿で東海道に入り江戸に向かいました。これらの外国人の中には、長崎から江戸への旅のことを「大君の都」という書物に記したイギリスの駐日公使もいました。この人物の名を次より選んでください。
     ハリス  パークス  オールコック  ロッシュ

 解答・解説

<問12> チャレンジする都市

 国は、目指す社会の姿を具体的に分かりやすく示すために、高い目標を掲げて先駆的な取組にチャレンジする都市をモデル都市として選定し、その実現を支援しています。生駒市が選ばれたことが14(H26)年3月に発表されたのは何モデル都市でしょうか。次から選んでください。

     環境モデル都市  食と農のモデル都市  健康モデル都市  ITモデル都市

 解答・解説

2014年03月12日

<問11> 虹色に輝く「幻の菓子」

 生駒市にある小さな町工場で作られる、虹色に輝くカラフルで透明感のある、人気があるものの入手困難なため「幻の菓子」と呼ばれているものは何ですか。次から選んでください。

     レインボークッキー レインボーチョコ  レインボーキャンデー レインボーラムネ

 解答・解説    

<問10> 「男はつらいよ」生駒の巻

 山田洋次監督の人気映画「男はつらいよ」第27作の「浪花の恋の寅次郎」では、宝山寺が舞台の一つとなっており、そこで寅さんがデートします。そのデートの相手である浜田ふみさんを演じた女優さんは誰でしょう。次から選んでください。

     大原麗子  松坂慶子  吉永小百合  浅丘ルリ子

 解答・解説

<問9> 国際色豊か

 生駒市には、2014(H26)年3月現在で何カ国の外国籍の人々が居住しているでしょうか。次から選んでください。

     約15カ国  約30カ国  約45カ国  約60カ国

 解答・解説

<問8> 芸術の香りあふれる

 2010(H22)年より毎年、生駒市において開催されている国際的な芸術的催しは何でしょうか。次から選んでください。

     いこま国際演劇祭  いこま国際映画祭  いこま国際音楽祭  いこま国際美術展

 解答・解説

<問7> 「氷河時代の生き証人」

 日本古来の「秋の七草」の1つでありながら、いまや「絶滅危惧種」となっている植物が、「平成19・20年度 生駒市自然環境調査報告」に高山町や北・南田原町での確認種として記され、また、「大和都市計画事業高山土地区画整理事業(学研高山第2工区宅地造成事業)」の環境影響評価書(平成12年8月)」に「事業予定地内で確認された貴重な植物種(絶滅危惧種)」と記されています。この「氷河時代の生き証人」と呼ばれる植物の名前は何でしょうか。

 解答・解説

<問6> 息づく野生動物

 「平成19・20年度 生駒市自然環境調査報告」に生駒山や矢田丘陵での確認種として記され、高山第2工区でも目撃されている動物を次から選んでください。
     
     ムササビ  ニホンリス  オオワシ  ニホンジカ

 解答・解説

<問5> 不思議な「旅する蝶」

 毎年、秋には本州の高原地域から九州や沖縄・八重山諸島まで、春から初夏にかけては南から北上して本州の高原地域まで、片道何百kmも飛んでいき、途中、生駒山の山中や山麓に立ち寄り休息する美しく不思議な「旅する蝶」といわれる蝶の名前は何ですか。

 解答・解説

<問4> 自然が生んだ伝統工芸

 下記の文は、「高山の茶筌作りの由来」と「茶筌がなぜあのようなかたちをしているのか」について述べたものです。( 1 )〜( 4 )に入る人物は誰でしょう。次の人物名≪   ≫からそれぞれ選んでください。なお、太字部分は「茶筌がなぜあのようなかたちをしているのか」について述べた部分です。
     人物名 ≪ 村田珠光(じゅこう) 後土御門(ごつちみかど)  宗砌(そうせつ)  宗祇(そうぎ) ≫

 高山町は、古くは鷹山郷と呼ばれた。室町時代中期、連歌の大成者である( 1 )をも門弟とする連歌師の( 2 )が、親交のあった茶道の祖である( 3 )のために茶筌を考案した。( 2 )は高山城主頼栄(よりさか)の次男で俗名を高山時重という。高山は今でも鷹が多い。万葉人の狩猟の地でもあった。鷹が空を飛び風を切る。その時、風切羽が風の強さをやわらげる。その様を竹に写す。( 2 )の試みは見事に成功した。( 4 )天皇に献上されたそれは、羽毛のように優雅で穂先はしなやかで柔らかいと驚嘆され、『高穂』の銘を賜った。帝の銘名にちなんで土地の支配者が鷹山を高山と改めた。これが高山の里に茶筌作りが起こったいわれである。今日でも作業はすべて手作業である。( 2 )以来、五〇〇年その工程は基本的には何ら変わらず受け継がれている。

 解答・解説

<問3> 生駒を愛し今も生駒に眠る偉人

 下記の文は、白鳳〜奈良時代に活躍した生駒ゆかりの人物について述べたものです。その人物名をお答えください。

 彼の偉大な業績は、何といっても、仏教を民衆のものにしたことである。仏教の根本の教えは、「慈(楽しみを与える)悲(苦しみを取る)の実践(悲しみと喜びの共有)による縁起の法(すべてのものは互いに支え合っている)の自覚による苦悩の超克」である。それまでの仏寺といえば、貴族や天皇家の私物であって、そのあり方自体が仏教の教えに反するものであった。仏教伝来ののち、まず蘇我氏が仏寺を建立し、仏を祀る権利を得た。そののち、天皇家や諸豪族が、寺を建立していった。ただし、民衆には、信仰は浸透せず、仏教は貴族等の独占物であった。これに対し彼は、多くの人たちに仏教の教えを説いた。
 また、当時、税として納める諸国の産物は庶民が直接都へ出向いて納めなければいけなかったが、都へ向かう途中で力尽きて餓死したり、都へついたものの帰りの旅費が無く、都で浮浪者になる者も多かった。そこで彼は、彼らを収容するための布施屋とよばれる救護所を作った。また、薬師寺で学んだ土木技術の知識を活かして、重い税や労役にあえぎ苦しみながらも税を都に運ぶ人々のために各地に橋をかけ道路を修理し、ため池や用水路を掘ったりして、民衆救済に尽くした。
 こうして、人々は、彼を「菩薩」とあがめ慕って集まった。
 彼は仏教の教えを説きながら近畿を中心に各地をまわり、先々に道場を建て、その数四十九院におよんだ。彼につきしたがう者の数は1000名にのぼり、流民(重課税等に抗するため土地を離れ仕事を放棄して税をおさめない人々)となった。
 当時の奈良王朝の根本は、定住して農地を耕し納税する“良民”の存在を前提につくられた律令制度であったが、仏教の支配層による独占を打破しながら、民衆救済に力を尽くし、流民化した民衆を率いる彼は、鋭い律令体制の批判者となった。彼の運動が広がれば「律令の体制=律令国家」が崩壊しかねない事態となった。当然、彼は朝廷から激しく迫害された。
 しかし、彼は民衆に守られて布教を続けた。730年秋には、平城京の若草山で、毎日数千人から1万人の民衆が、彼を中心に集会するという事態が生じた。
 ここにいたって朝廷は、ローマ帝国が迫害していたキリスト教を突然公認したように、翌年、彼の布教を公認した。
 やがて、聖武天皇に乞われて日本初の大僧正となり大仏建立の責任者として招聘された(745年)彼は、大仏建立を重い税を課し朝廷の財力で行うのでなく、仏教に導かれた民衆の力を結集して推し進めた。
 彼は、大仏開眼を見ることなく、その2年前、82歳で逝去(749年)し、37〜40歳のころから山房を構えていた生駒山東稜にある、現生駒市の竹林寺に埋葬され、今もそこに眠る。

 解答・解説

<問2> 謎多き山「生駒山」

 生駒山の最高峰から真西にある古代日本の宮殿はどこですか。次から選んでください。
     藤原宮  長岡宮  難波宮  平城宮

 解答・解説

<問1> 神話の里

 下記の文は「日本書紀」の一部です。( 1 )〜( 5 )に入る人物は誰でしょう。次の人物名≪   ≫からそれぞれ選んでください。
     人物名 ≪ 長髄彦(ながすねひこ)  三炊屋媛(みかしきやひめ)  可美真手命(うましまでのみこと)  〔神日本〕磐余彦尊(〔かむやまと〕いわれひこのみこと)  饒速日命(にぎはやひのみこと) ≫

  のちに即位して神武天皇となる( 1 )が、航海と製塩の神である塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと「東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(あめのいわふね)に乗って、とび降(ふ)ってきた者がある」とのことであった。そこで思った。「その土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、( 2 )というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。
 その年冬に、( 1 )は九州を出立して東征に向った。瀬戸内海を東に向かい、途中、安芸国(あきのくに/現広島県)と吉備国(きびのくに/現岡山県)に立ち寄り、春に浪速(なみはや/現大阪)に着いた。
 夏、( 1 )の軍たる皇軍は兵を整え、生駒山を越えて内つ国(うちつくに/大和国(やまとのくに)のこと/現奈良県)に入ろうとした。そのときに( 3 )がそれを聞き、「天神(てんじん/天津神<あまつかみ>のこと/高天原<たかまがはら/天上界>に生まれた神のこと)の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか/生駒山西麓/現東大阪市日下<くさか>)で戦った。矢が、( 1 )の兄である五瀬命(いつせのみこと)のひじとすねに当たった。皇軍は進むことができなかった。( 1 )は考えた。「日に向って敵を討つのは、天道(てんとう/太陽)に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、背中に太陽を負い、日神(ひのかみ/太陽神)の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」。そこで軍中に告げていった。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を引いた。( 3 )の軍もあえて後を追わなかった
 その後、皇軍は、紀伊半島を迂回、熊野付近で上陸し、紀伊半島を縦断して大和国に入り、冬、再び( 3 )の軍と相見(あいまみ)えた。しかし、戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、( 1 )の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため( 3 )の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった
 そこで、( 3 )は使いを送って、( 1 )に言った。「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られた。( 2 )という。この人が我が妹の( 4 )を娶(め)とって子ができた。名を( 5 )という。それで、手前は、( 2 )を君として仕えている。一体天神の子は二人おられるのか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのか。」と。
 ( 1 )がいった。「天神の子は多くいる。」と。
 ( 2 )は、もとより天神が深く心配されるのは天孫(てんそん/天神の子孫)のことだけであることを知っており、また、天神と人とは全く異なるのだということを( 3 )に教えても分りそうもないことを見てこれを殺害し、部下達を率いて帰順した
   <注>太字部分は、生駒の神話のポイント部分

 解答・解説

2014年03月11日

<問0> 市等作成問題

「広報いこま(11年10月15日号) 特集 : 市制40周年特別企画 生駒検定」 <写真問題(6問)と一問一答問題(20問)の問題と解答>

いこま検定(解答はありませんが、80点以上取れば次へ進めます)
     <生駒ふるさとミュージアムのHPより>

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<問1>の解答・解説

解答> (1)磐余彦尊(いわれひこのみこと)   (2)饒速日命(にぎはやひのみこと)   (3)長髄彦(ながすねひこ)   (4)三炊屋媛(みかしきやひめ)   (5)可美真手命(うましまでのみこと)

解説> @問題文の太字の部分に現われているように、生駒の神話は非戦・避戦の精神に貫かれています。詳しくは、生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<大要>をご参照ください。   A宮崎駿監督の映画「もののけ姫(リンク)」は長髄彦(ナガスネヒコ)の話をモデルにしたもの(自然と人間の共生/原生林に生きる人間とそれを切り開く人間の共生への道)で、主人公であるアシタカ〔ヒコ〕↓ はナガスネヒコに由来すると言われています(ちなみに、「千と千尋の神隠し」のハク(ニギハヤミコハクヌシ)はニギハヤヒノミコトに由来しているといわれています)。なお、長髄彦(ナガスネヒコ)は元の名を中州根彦といいます。中洲根彦とは、中洲(ナカス・ナガス<彦をヒコともビコとも言うように日本の古語には清音と濁音の区別はなかった>/なかつくに=中心の国/倭=現在の奈良県)の根(ネ/根本・基礎)をつくった彦(ヒコ・ビコ/おおいなるひと・すぐれたひと)という意味を持ちます。従って、長髄彦は、長い髄(脛/スネ)の彦(男性)という意味ではありません。アシタカ〔ヒコ〕の足・脛が特別長いことはないように。
アシタカ〔ヒコ〕1.jpg

アシタカ〔ヒコ〕2.jpg

2014年03月10日

<問2>の解答・解説

解答> 難波宮なにわのみや

解説> 難波宮は、飛鳥時代・奈良時代に難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿です。聖武天皇はここを平城京の副都としました。
古代日本における生駒山の不思議と謎をご参照

2014年03月08日

<問4>の解答・解説

解答> (1)宗祇(そうぎ)  (2)宗砌(そうせつ)  (3)村田珠光(じゅこう)  (4) 後土御門(ごつちみかど) 

解説> 高山茶筌について  [茶筌の由来。]
 生駒には、茶筌づくりを中心とした竹文化が息づいており、それを象徴する催しとして、毎年、高山竹林園にて「高山竹あかり(の夕べ)」が開催されています。↓第18回<14(H26)年10月>のご案内(クリックで拡大)
竹あかり.jpg

2014年03月07日

2014年03月06日

2014年03月05日

<問7>の解答・解説

解答> ききょう

解説> Wikipedia   「氷河時代の生き証人」   「平成19・20年度 生駒市自然環境調査報告」   「大和都市計画高山土地区画整理事業に係る環境庁長官意見」ミラー   「大和都市計画高山特定土地区画整理事業の環境影響評価書に係る建設大臣意見」「大和都市計画高山土地区画整理事業に係る環境影響評価書に対する建設大臣意見」  〇秋の七草は万葉集で挙げられました。万葉集の「朝貌あさがおの花」は、現在のキキョウを指すといわれます(現在の朝顔は、奈良時代末期以降に日本に来ました)。

2014年03月04日

<問8>の解答・解説

解答> いこま国際音楽祭

解説> いこま国際音楽祭

2014年03月03日

<問9>の解答・解説

解答> 約60カ国

解説> 生駒市には60カ国弱もの外国籍の人々が居住しています。生駒市は、これほど多くの外国籍の人々が居住する国際的なまちといえます。
 生駒市在住外国人の国籍内訳⇒14(H26)年4 月1 日現在13(H25)年4 月1 日現在.pdf
 生駒市は、外国人投票権条項のある常設型(実施必至型)住民投票条例を制定する(ご参照)など、生駒在住外国人の意見も反映したまちづくりをしています。

2014年03月01日

<問11>の解答・解説 

解答> レインボーラムネ <↓ 画像は、下記解説@の記事より>
asahi(130904)レインボーラムネsyashin.jpg

解説
 F参考 : NAVERまとめ
 Eどうしても「幻のラムネ」を食べてみたい方への情報⇒幻のレインボーラムネを並ばずに手に入れる方法
 D<14(H26). 9.17>奈良発「幻のラムネ」大人を魅了する味わい(解説記事ミラー
 C<14(H26). 6. 7>ふるさと納税の記念品に加えられた「レインボーラムネ」は、希望が殺到して実質4日間で予定数に達しました(報道資料.pdf報道記事.jpg 報道記事.pdf報道記事
 B<14(H26). 6. 2> 「幻のラムネ」効果でふるさと納税が、レインボーラムネが記念品に加わった14(H26).6.2の初日だけで78万円!⇒報道記事.jpg
 A<14(H26). 5.27>レインボーラムネがふるさと納税の記念品に加わったことが公表されました : 報道記事.jpg 報道記事.pdf報道資料
 @懐かしさ膨らむね レインボーラムネ (購入申し込み先の記載あり)  

2014年02月28日

<問12>の解答・解説

解答> 環境モデル都市

解説> 環境モデル都市

2014年02月27日

<問13>の解答・解説

解答> @ 松尾芭蕉  A 和気清麻呂  B 鑑真  C 豊臣秀長  D大阪(大坂)夏の陣  E 伊勢神宮  F島津義弘  Gオールコック 

解説
(1)奈良再発見(第33回)暗越奈良街道   じゃらん「暗越奈良街道」

(2)Wikipedia<和気清麻呂  鑑真   豊臣秀長   お蔭参り  島津義弘  オールコック>  大阪(大坂)夏の陣については、このページ(リンク)やWikipediaをご参照  司馬遼太郎「城塞」  「城塞」の中で幸村が言及している「中垣内越え」は、「龍間越え」とも「古堤ふるつつみ街道(現阪奈道路が大東市龍間付近で上下線に分離するあたりで北ルートと南ルートに別れますが、幸村が言及した木津に通じる方は前者)」ともいい、現大東市龍間付近で阪奈道路と重なっています。司馬さんは「城塞」の冒頭で、「中垣内(龍間)越え」の坂のことを、「孔舎衙坂くさかざか」と言っています。古堤街道(中垣内越え/龍間越え)のルート街道歩きさんより引用させていただきました)。

(3)古代より難波と大和を結んできた奈良街道は複数ありますが、そのうち、最も急峻であるが最短で難波と大和を結んだのが暗越奈良街道でした(古代の河内平野と大和盆地.jpgご参照)。

   暗越奈良街道(現国道308号と重なる)と並ぶ代表的な奈良街道が、高低差が少ない点で楽な竜田越奈良街道(現国道25号と重なる)

(4)お伊勢参り
 @広義の伊勢本街道(大坂〜奈良<暗越奈良街道>/奈良〜桜井<上街道>/桜井〜榛原<初瀬街道>榛原〜伊勢<狭義の伊勢本街道>)の全行程マップ等
 A正吉「・・・・・暗峠を越えてなあ、奈良やあ。そっから榛原へ行って、その先はお伊勢さんまでもう一本道やあ。・・・・・」(NHK連続テレビ小説『あさが来た』<第71話>の一場面/その記事その動画
 B庶民と伊勢神宮

(5)島津義弘の真の退路は「名張ー三輪」との新説(このページに掲載の記事を引用させていただきました)   300人で80000人に突っ込んだ島津義弘ミラー

(6)オールコックらが奈良を通過したときの様子が、奈良市史444ページ〜446ページ(第五章 幕末の奈良 第一節 幕末の奈良町)に記載されています。

(7)参考 : いこまタケのいこまち歩き<暗峠奈良街道編【前半】暗峠奈良街道編【後半】(↓西畑の棚田の写真はここより引用)>
西畑の棚田.png

(8)参考 : 暗峠の標識物語(カンテレ「みんなのニュース ワンダー」<15.07.22>より)ミラー

2014年02月26日

<問15>の解答・解説  

解答> イザナミ(伊弉冉尊いざなみのみこと

出典> 問題文中の4つの地図の出典(上から順)
         生駒市誌生駒市誌は、古代の生駒を「古大阪湾に浮ぶ菱形の緑の島」と表現しています。)>
         竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史

解説>日本書紀の国生み神話でいう「洲」は何なのか、どう読むのか、については論争のあるところですが、古代には船で行けるところは途中が地続きでも、「洲=島=船で行くところ」として意識されるときがあったとのことであり、洲しまとは、島や半島も含め船で行き来する「海上交通の要衝」となる地域のことであったようです(森浩一「日本神話の考古学」第1章 国生み物語と海上交通ご参照)。また、「洲」は「クニ」と読み、「洲国(クニ)」の略で、限定された一定領域(海に接した一地域・一地点)を指す言葉とのことです(古田武彦「盗まれた神話 記・紀の秘密」ご参照」)。この2つの説を総合すると、「洲」を「しま」と読むか「クニ」と読むかにかかわらず、「洲とは、島・半島であるなしにかかわらず、とにかく海上交通の要衝となる地域をいう」というのが最も説得力のある説となります。
 さて、今より2千数百年前までの縄文時代は、現在よりも温暖でした。そのため、三内丸山遺跡に代表される大規模集落が日本列島の北部にあったのです。温暖であるがゆえに、いわゆる「縄文海進(縄文時代での海の水位上昇による陸地への進出)」により、日本列島の平野部は海の底でした。大阪平野・奈良盆地・京都盆地(山城平野)もすべて海の底で、この3つは一繋がりの海でした<1万年前の畿内の概念図折節の記より)>。貝塚のあるところが当時の海岸でした。縄文時代の終わりごろから、気温の低下、地盤の隆起、河口の堆積により「海水後退」が進行する中で、大阪平野は海・潟かた砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼)・湿地帯という地形になり、奈良盆地や京都盆地は湖と湿地帯となりました。かかる地形における湿地を利用して弥生人は水田稲作を発展させたのです。このような、干潟や湿地帯一面に葦あしが生い茂っていて日本列島の中央に位置する、生駒を中心部とする大阪平野・奈良盆地・京都盆地一帯、または、それより狭く奈良盆地のようなところを日本神話は葦原中国あしはらのなかつくにの代表的舞台(中心部)としていますが、かかる地形では、人々の活動にとって重要だったのは船により人や物を運べる海・湖・潟や河川でした。これは弥生時代の次の古墳時代・飛鳥時代になっても変わりませんでした(「古代では、一番最初にできるのは海上国家、港の近くに都ができて発展するわけです。ところが年月がたつうちに内陸部に入っていく。・・・・・路はあまりないんです。当時の交通はほとんど川です。・・・・・川が水路。八割まで川。造られた道は、・・・・・もうほんとに二つか三つ、それと獣道に似た小道、あとは全部川です。」<黒岩重吾「古代史への旅」より>)。風水では都は背山臨水の地がよいとされており、それに即して平城京が造られたことは、その南方には、奈良時代になったころにもまだ広大な湿原・湿地が拡がっていたことを今に伝えています。
 このような地形において居住・活動する古代(弥生時代)の人々と現在人の私たちとでは国土観が大きく異なります。現代人の感覚で古代のことを考察しては間違えます。私たち現代人の国土観は、まず平地(平野)があって、自分たちはそこで居住・活動する。近くまたは遠くには海があり、海で活動することもあるが、主たる活動地はやはり平地(平野)である。そして、昔、陸の隆起によって山ができており、そこから川が流れてくる、というものです(「内陸から時には海へ」つまり、内陸で居住・活動、時には海へ、川は山からかってに流れて来る)。しかし、古代の国土観は、まず、取り付く(自分たちが居住・活動するための拠り所となる)しま(海上交通の要衝となる地域)がある。そのまわりには海があり、そこは、船で活動する場であり、その沿岸に更なる活動拠点をつくれる。そこから川を交通の手段に利用して山麓・山中の川沿いに居住・活動範囲を拡げていける、というものです(「洲から内陸へ」つまり、洲から海へ、海辺から川を遡って内陸へ、と居住・活動を拡大/森浩一「日本神話の考古学」第2章 黄泉の国の世界ご参照)。先に紹介した「年月がたつうちに内陸部に入っていく」という文も、かかる国土観に基づくものでした。かかる国土観は、山から流れてくる川が氾濫して広大な平野を作ったのではなく、平野を覆い盆地を満たしていた古代の海が退いていった後に現在の海までの水路として川が残った(そして、海底であった平野・盆地は海水後退とともに、海→塩分の残る湿地→葦原→塩分の抜けた湿地→水田へと変遷していった)という事実に基づくものです。なお、卑弥呼の時代(弥生時代後半)の日本の地形(谷川健一「列島縦断地名逍遥」よりご参照)について魏志倭人伝が伝えていることを問題文中で指摘しました。
 従来は、古代の地形がどうなっていたかという視点をおろそかにしたまま神話を含む古代のことを考えていたため、疑問点(謎)が解けず、また、的外れな考察になっていたと批判されるようになってきました。問題文に掲載した4つの地図をみればその批判に共感できるのでないでしょうか。
 なお、記紀に記された国生み神話の豊秋津洲を本州という大きな島だする説や、洲は国だとして豊秋津洲を大和の国のことだという説もありますが、本州や大和の国は海岸・川・山から構成されています。なのに、なぜ日本書紀は、本州または大和の国を生んだのち、海・川・山を生んだとするのでしょうか。説明できません。まず本州または国という平地を生んだのだ。というのなら、これは、まず平地ありきという現代人の国土観に基づく発想ですが、それによれば平地が生まれたら、次に山が生まれ、次に川が生まれて山から流れてくる、となるはずですが、日本書紀は逆に、次に川を生み、次に山を生んだ、と記しています(森浩一「日本神話の考古学」第2章 黄泉の国の世界ご参照)。
 本州だとする説については更に、記紀が書かれた8世紀初頭の東北地方はまだ蝦夷えぞ地であり、記紀の作者には本州全体が自分たちの国という認識はなかっただろうし、そもそも津軽海峡はまだ、見たことはないのはもちろん、その存在についても確信できていない彼らに本州という大きな島という認識・発想があったとは考え難いでしょう。また、越洲こしのしまが本州の一部ではなかったことをきちんと実証した上で豊秋津洲は本州だと唱えられているのではないことも説得力を失わさせています。
 古代、本州の中の畿内にも当然海上交通の要衝があったはずであり、だとすれば、畿内の海上交通の要衝として最適であったのは、島から島状の半島に地形を変化させていた生駒であり、やはり、豊秋津洲は古代の生駒のことだとするのが妥当な説です。

<追記1>海の向こうからやって来た人々は、平均して年に数百人〜千人程度だったという試算があります(どれだけの人々が渡来してきたのか.pdf)。こんな少人数で海の向こうから未知の土地にやって来た人々が居住・活動しようとすれば、まず島や半島など海上交通の要衝となるところを活動拠点とするでしょう。

豊秋津洲のイメージ 1↓
豊秋津島 修正.png
 <海の上に崇高に浮かぶ。近づけば、緑豊かな島状の半島だと分かる。日本海・近淡海(ちかつあわうみ/現琵琶湖)方面から南進してきた人々(ニギハヤヒもその1人)や瀬戸内海を東進してきた人々(イワレヒコもその1人)が目にしたのはこんなに美しい島(実際は島状の半島)でした。これを見れば、ここに住みたくなるのは当然でした(だがしかし、神話でいう豊秋津洲は無人ではなかったのです。ナガスネヒコもそこの住民の1人)。この緑豊かな秋津島は、生駒の神話の舞台の1つとなり、のちに、「あきつしま」は美(うま)し国大和の枕詞となります(舒明天皇のうたご参照)。>

豊秋津洲のイメージ 2↓
安土城76.jpg
 <信長が安土城を築いたときは安土山は琵琶湖に浮かぶ半島だった。それと同じく、渡来人がやってきた弥生時代の生駒山も大阪湾に浮かぶ半島だった。>

<追記2>秋津は、蜻蛉(アキツ)の古名であり、トンボのことです。トンボは稲作をする人々にとっては大切な存在(益虫)です。幼虫のヤゴのときは水中で、成虫になれば空中で悪いもの(害虫)を食べてくれます。ですから、トンボは豊かな秋の実りをもたらしてくれます。また、トンボは人間を恐れない友人のような存在です。人間を支えてくれる大切な存在の比喩として、また、秋の実りをもたらす豊かさの象徴として「秋津=蜻蛉」(アキツ)が当てられたのです。ということで、豊秋津とは、地名・固有名詞ではなく、「(トンボがたくさんいる)豊かで大切な」という様態を示す、いわば様態詞です。豊秋津の豊は豊かさを強調する、または、語句全体に美しさを加える接頭語です。古代の生駒は、葦原中国あしはらのなかつくにの代表的舞台の根(ネ/根本・基礎)の部分にあたるところといってもよいほどに特に重要な洲であったので豊秋津洲(豊かで大切な洲)と呼ばれたのでしょう。生駒山も古代日本において特別な位置を占めていたのではないかといわれています生駒検定<全国版>問2の解説でご紹介した古代日本における生駒山の不思議ご参照)。
 なお、洲・島という語句は、時代が下ると「国」という意味も持つようになります。日本書紀の神武東征神話には、神武天皇が自らの治める国を秋津洲あきつしま(豊かで大切な国)と名付けたと記されています(下に注)。また、日本書紀・古事記には、雄略天皇が、虻アブにかまれたときに蜻蛉あきつ(トンボ)が飛んできてその虻を食べ去ったことにより、ヤマト(倭)の国を「蜻蛉島あきつしま」(トンボが幸せと豊かさをもたらしてくれる国)と名付けた、と記されています。
 (注)神武天皇は自らの治める国を「狭い国ではあるけれども、蜻蛉がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国」といっています。これは、生駒山を含む山々がトンボがトナメしているように連なり囲んでいる湖と湿地帯の奈良盆地をいっています。本州のことをいっているのではありません(念のため)。

<追記3>海洋的性格を持つ伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ)

<追記4>「国生み」は海洋民の伝承弥生人は海人的性格も備えていた


<追記5>日本が沈没すると、再び生駒山は大阪湾に浮かぶ島に戻ります。「大仏殿の標高(その近くの県庁の標高約90mよりやや高い)+大仏殿の床の高さ+大仏の台座の高さ+大仏が座っている蓮華の高さ(約3m)+大仏の肩までの高さ(約10m)」の高低差まで日本が沈没したと仮定した場合の生駒山が、映画「日本沈没」で描かれました↓。
日本沈没150.jpg


<追記6>世界の創世神話には「なる(成る)」「うむ(生む)」「つくる(造る)」の3種の語り口がありますが、日本の神話では「成った」神が洲しまを「生んだ」という語り口になっており、「つくる(造る)」という語り口はありません。これは、日本には「絶対神=万物の創造主」という概念が生まれなかったためと考えられます(「なる」で始まる世界ミラー>ご参照)。
 また、日本の創世神話は淡路島の海人族あまぞくの「島生み神話」が元になっているともいわれており、その点からも、今日「国生み神話」と呼ばれている日本の創世神話は「(「国土=国」の元となった)州しま生み神話」といった方が正確でしょう。日本の創世神話は、のちに「人間が造っていく」国土(国)の元となった州を神が「生んだ」という構図になっています。創造主ではない日本の神は、完成された国土(国)は「造らない」のです。
 イザナギ・イザナミは日本の国(東北を除く本州、九州、四国、他の五つの島)を生んだ、との説がありますが、この説は、日本固有の領土には北方領土を含む北海道、東北は含まないと外国人に解釈されてしまう危惧も伴います(もっとも、北方領土を含む北海道、東北や沖縄はヤマト王権の支配外にあったので、この解釈の方が正しいともいえます)。

<追記7>ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)であるとするなら、奈良盆地を中心とする古代日本は、イザナミが生んだ8つの州という周縁から生成されたといえ、<追記6>との関連でいえば、「なった(成った)」といえるのではないか。

<追記8>今日多くの人々が住む平野や段丘は、もともとは海水面下で形成され、海水面が下がることで姿を現したものです(平野のできるまでをご参照)。

<追記9>日本にも伝来した最古の仏典とされる「法句経ほっくきょう」には次の記述があるように、「洲」は「究極の拠り所」という意があり、国生み神話でいう「洲」は「究極の拠り所たる島」と考えることができる。
   心はふるいたち 精進(はげみ)つつしみて おのれを理(とと)のうるもの かかる賢き人こそ 暴流(あらなみ)もおかすすべなき 心の洲(しま)をつくるべし(友松圓諦訳)
     (現代語訳)思慮ある人は、奮い立ち、努め励み、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。(中村元訳)

<追伸10>びっくり!!生駒山は島だった?.pdf

 

2014年02月22日

<問16>の解答・解説

解答> 長弓寺

解説>長弓寺の三重塔は、1279年(鎌倉時代)に建てられた本堂(国宝)とほぼ同時期(1285年頃)に建立されたが、早い時期に二層・三層部分を失い、近世には初層(一階)部分のみしか残されていなかった。その初層部分も、1934(S9)年の室戸台風で倒された木の直撃により本堂の屋根が大破した際、その修理費用を捻出する為に売却され、奈良の宮大工により鎌倉へ移建され補修されて「長弓堂」と名付けられたと伝えられる。戦後、西武グループの創始者の手に渡り、1954年、前年に開業した品川プリンスホテル(1978年に隣接丁目に開業の同名ホテルとは別ホテル)の庭に再移築され、「観音堂」と名付けられた。その後、同ホテルは1968年に高輪プリンスホテルと改称され(さらに2007年にはグランドプリンスホテル高輪と改称)、1971年には建て替えられた。その際、同ホテルの庭は、皇居新宮殿なども手がけた作庭家の故楠岡悌二氏により約2ヘクタールに及ぶ大庭園として整備され、日本庭園と名付けられた。

 同ホテルの敷地内(港区高輪3丁目南西部一帯)では、1982年にグランドプリンスホテル新高輪、1990年に国際館パミール(コンベンション施設)、1998年にザ・プリンス さくらタワー東京(高層ホテル)が建てられ、グランドプリンスホテル高輪とともに広大なホテル・コンベンションエリアを形成した。これが、プリンスホテル高輪エリアであるが、その中心となったのが日本庭園であり、さらにその中核をなしているのが、周囲には滝を持つ大きな自然池茶寮さりょう(惠庵)(昭和の名建築家故村野藤吾氏の設計による1985年築の純日本様式の数寄屋造り)・鐘楼(1656年に建立されたもので1959年に奈良市の念仏寺より移築)・茶室(竹心庵)、正面には山門(来歴不明確)、といった日本の自然美・伝統美を配した「観音堂」である。

 「観音堂」の内部に立つ四天柱(周囲の4つの柱)には壁画が描かれており、その中央には「十一面観音半迦(踏下)像」(写真/室町時代の作以外の来歴不明/説明)が安置されている(観音像が安置されている御堂みどうだから「観音堂」と名付けられた)。

 人々に慈悲をもたらす観音像を安置する「観音堂」と、それを取り囲む日本庭園は無料で開放されており、国内外から東京にやってくる人々や東京という大都会に労住する人々の癒しと憩いの場所となっている(最寄駅等の地図アクセス)。

 <追伸>Wikipediaの長弓寺の項には、日本庭園に配置されている鐘楼と山門も長弓寺から移築されたものだと記されているが、グランドプリンスホテル高輪に問合わせた限りでは、それは確認できなかった。

2014年02月14日

<問17>の解答・解説

解答> シカ

解説
  @「生駒」の語源・由来  A知里真志保教授編纂「地名アイヌ語小辞典」では、「yuk シカ。―この語は、いま、もっぱらシカの意に用いられるが、もとは狩りの獲物の中でその肉が食料として重要であったクマ・シカ・エゾタヌキなどをもさした。」とあります。  B鹿と人間  C縄文時代から時代は下っても生駒と鹿の縁えにしは強く、生駒の山田川の源流域に生息していた鹿が、鹿を神使とする春日大社に奉納されたことが、「奈良の鹿」のルーツとなりました(問20をご参照)。

2014年02月13日

<問18>解答・解説  

解答>陶淵明とうえんめい 

解説
(1)問題中の岩船(磐船神社あり)、天の川(天野川)、同川に沿った街道(磐船街道)、北田原(北田原町)の位置についてはこの地図でご確認ください(同地図の左下です)。
 また、田原の里の位置についてはこの地図でもご確認ください。
 岩船〜天野川・磐船街道〜北田原の地形については、この地図でご確認ください。

 なお、生駒市誌は、天の川を「生駒郡北倭村大字南田原なる星森ほしのもりの泉に發し磐船谷を流下して幽渓奇勝を形づくり牧野村枚方町の間に至り淀川に合す。」と説明しています。

(2)貝原益軒の名は「篤信」で、益軒は号です。益軒が貝原篤信の名で書いた「諸州めぐり南遊紀行」の全文はここで読むことができます。

(3)「諸州めぐり南遊紀行」の中で問題文に関係する部分を次に抜粋しました。なお、問題文にとって関係の深い箇所は太字にしました。また、(  )とその内文、ふりがなの多くは引用者によります。

 天川あまのかわ(現天野川あまのがわ)の源は、生駒山の下の北より流出ながれいで、田原たはらと云いう谷を過すぎ、岩船いわふね(現磐船)におち、私市きさいち村の南を経へて、枚方町の北へ出て淀川に入る。獅子窟ししくつ山より天川を見おろせば、其川東西に直すぐにながれ、砂川にて水少く、其その川原白く、ひろく、長くして、恰あたかも天上の銀あまの河の形の如し。扨さてこそ此この川を、天の川とは、名付たれ。われ此所ここより見ざるさきは、只ただ天の川の流の末ばかりをわたりて、古人の天の川と名づけし意をしらず。凡およそ諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして数里(1里=約3.9km)長くつづきたるはいまだ見ず。天川と名付し事、むべなり。
 岩舟(現磐船)より入て、おくの谷中七八町おくのたになかしちはっちょう(1町=約109m)東に行ば、谷の内頗すこぶる広し。其中に天川ながる。其里を田原と云いう。川の東を東田原と云いい、大和国也。川の西を西田原と云、河内国也。一澗ひとたにの中にて両国にわかれ、川を境とし名を同くす。此谷このたに水南より北にながれ、又西に転じて、岩舟に出いで、ひきゝ(低き)所にながれ、天川となる。凡およそ田原と云所いうところ、此外このほかに多し。宇治の南にも、奈良の東にもあり。皆山間の幽谷の中なる里なり。此田原も、其入口は岩舟のせばき山澗やまたにを過て、其おくは頗ひろき谷也。恰陶淵明桃花源記にかけるがごとし。是れより大和歌姫の方に近し。

(4)桃花源とは、両岸に桃の花の林が続く川を遡ってたどり着いた川の源の山の向こうにあった理想郷のことをいい、「桃花源記」はその物語のことで、理想郷を意味する「桃源郷」という言葉はこの物語に由来します。
 なお、桃は古くから中国では「生命の象徴」「不老不死をもたらす果実」とされており、桃源郷とは生命の生まれ出ずる処、不老不死の里というのが元々の意味と考えられます。
京都・晴明神社の「厄除け桃」.jpg

 「桃花源記」の原文・書き下し文・現代語訳

(5)今日の生駒市北田原地区には工業団地や変電所が建設され、貝原益軒が訪れたときと比べると様変わりしていますが、それでも、「桃源郷」のごとしと讃えられた景観の面影は今も残っており、それは、優れた景観形成のモデル「ヤマ・ムラ・ノラ」の説明)とされています。
 また、北田原地区で確認されている「氷河時代の生き証人」と呼ばれる可憐な草花も、「桃源郷」のごとしと讃えられた四季折々の美しい草花が咲き誇っていたであろう美しい景観の面影を今に伝えています(「氷河時代の生き証人」については、<問7>をご参照ください)。

(6)日本の農村の原風景が残っている北田原地区のスケッチ⇒その1その2

(7)桃花源記の絵1   桃花源記の絵2

2014年01月21日

<問19>の解答・解説  

解答> (1)長福寺  (2)迦陵頻迦

解説> ブラタモリ #11 奈良の宝   長福寺の場所など⇒タモリのブラブラ足跡マップミラー>    長福寺本堂 保存修理事業    宮大工の仕事.pdf(長福寺本道解体修理についての記述あり)<「祈りの回廊」2016年春夏号(奈良県観光局)より>   長福寺の迦陵頻迦

2014年01月14日

<問20>の解答・解説

解答> 竜田(龍田)

解説
 @素盞嗚神社がある山田川源流域の位置地図同左  星の森の泉があった住吉神社の位置地図同左  富雄川の水源とされる竜王山の位置地図同左  トミ(鳥見)地域(現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域)の位置地図同左
  A記紀に記されている、いわゆる「国譲り」によって天照大神が大国主命の上位におかれ、天照大神に従う神々が天津神あまつかみ、素盞嗚命を含む大国主命ゆかりの神々が天津神より格下の国津神くにつかみとされましたが、素盞嗚神社ではその格が逆転しています(その理由)。
  B星の森の泉があった住吉神社の説明(この神社の出自は現大阪市住吉区にある住吉大社より古いことも考えられる)
  C佐保姫と竜田姫、そして登美彦  生駒の神話については<問1>神話の里をご参照ください。
  D佐保姫・竜(龍)田姫のイラストを掲載しているサイト(ご紹介)
  E山田川源流域にある鹿畑では素盞嗚神社の東約300mに龍王四天(龍王社)が祀られ、天野川には龍ヶ淵伝説があり、富雄川の水源は竜王山という言い伝えがあり、竜田川は名前にずばり竜がついており、生駒では古来、竜(龍)・竜(龍)王が水(雨・川)の神として信仰されてきたことがうかがえます(参考 : 日本の竜神・竜王蛇口の語源・由来)。ちなみに、「千と千尋の神隠し」の登場人物のハク(本名は「ニギハヤミコハクヌシ(饒速水小白主)/英語版では Kohaku River)の正体は白龍で、コハク川という小さい川を司る神とされています(これご参照)が、宮崎監督は、ハクのキャラクターに「竜(もとは蛇)は水(川)の神」という古代日本の信仰を反映させています。
  F普通、八幡神は武運の神(武神)といわれていますが、生駒市誌には「蛇神の呼称は数多くあり、トビ(トベ)・ナガ(ナガラ)のほかヤアタ(ヤワタ)・ミワ(ミイ)などが、後世になって混在したことも考えられる。長髄彦の名も、スネが長いというのが本来ではなくて、長=ナガ=蛇神の呼称であり、したがって古事記の登美彦(トミ・トビ)の名のほうか原型であったとおもわれる。」などとあることから、鹿畑の素盞嗚神社で祀られている八幡神は、もとは「ヤアタ(ヤワタ)の神=蛇神」であったと思われます。
  Gいこま紙芝居「弘法大師と龍ケ淵」(ご注意:音声が流れます)<生駒ふるさとミュージアム作>
  H山田川源流域をルーツとする「奈良の鹿」は海外にも好意を持って紹介されています⇒ご参照ミラー
  I長髄彦(登美彦)にペンネームの由来を持つ小説家の森見登美彦さんは、この文章の中で富雄川のことを次のように述べています。〜高台から坂をくだれば川が流れて、その両側には田んぼが続き、昔ながらの農村風景が広がっていた。神武東征の折、九州からやってきた天皇を迎え撃ったという「ナガスネヒコ」の話を母から聞いたのも、そんな川沿いの風景を眺めながらのことである。〜

2014年01月12日

<問21>の解答・解説 

解答> 鶏

解説>(追記を重ねましたので、記述が重複している部分があることをお許しください。)
(1)神功皇后は、夫の仲哀天皇亡きあと応神天皇即位まで実権を持ち続け、天皇として即位はしませんでしたが、日本書紀では皇后という称号のまま第15代目の天皇として位置づけられました。しかし、かかる事情により 1926(大正15)年10月の詔書により歴代天皇から外されましたが、折口信夫「女帝考」によれば、神と天皇の中間に立つ「ナカツスメラミコト」でした。そんな皇后の行為(「三韓=海上に見える国」征伐)に反対する下記の3つの動きが日本書紀には記されています。
          (注)三韓とは、馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加
             羅)・辰韓(後の新羅)の3国のこと。
   ・<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>天皇は神に答えて、「私が見渡しましたのに、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒らに私を欺くのでしょう。]
   ・<卷第九 神功皇后 新羅出兵>(皇后は)諸国に介して船舶を集め兵を練られた。ときに軍卒が集まりにくかった
   ・<卷第九 神功皇后 新羅出兵>(皇后は)吾瓮海人烏摩呂あへのあまおまろを使って、西の海に出て、国があるかと見させられた。還っていうのに、「国は見えません」と。
 「ナカツスメラミコト」の意に反する動きの説話を3つも書紀が記さざるを得なかったことは、古代日本において、縄文時代以来の「戦いを否定する精神」が持続していたことを伝えています。

(2)日本書紀には、
 次のように、(ナカツスメラミコトである)神功皇后の意に反する者は死に追いやられると記されています。
   ・<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>(皇后に託された神のお言葉を採用されなかったので)天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。
   ・<卷第九 神功皇后 神功皇后の熊襲征伐>兵をあげて羽白熊鷲はしろくまわしを殺した。/土蜘蛛つちぐも――田油津媛たぶらつひめを殺した。
   ・<卷第九 神功皇后 麛坂王かごさかのみこ・忍熊王おしくまのみこの策謀>赤い猪が急に飛び出してきて桟敷さじきに上って、麛坂王を喰い殺した。/忍熊王は逃げて隠れるところもなく、・・・・・瀬田の渡りに沈んで死んだ。
 しかし、<卷第九 神功皇后 新羅出兵>を読むと、三韓(新羅・高麗・百済)の3王については死に追いやるどころか、戦いさえもしていません(出兵したとあるが、戦ったとはしていない)。日本の戦国時代を見ても、降伏した敵の将兵の命は助けても、のちに反旗を翻す可能性ある首領の命を助けるお人よしな事例はないことから見ると、戦わずして服属させた(=朝貢させるようにした)となっているのは、実は、古代日本において、日本と朝鮮半島との交易がおこなわれていたことを伝える説話であるからととらえることができます。その交易も朝鮮から先進的・貴重な物資(日本にはないもの=日本書紀に記されている「金・銀・彩色・綾・羅うすはた・縑絹かとりきぬ」など)が日本にもたらされるというものでした。しかし、優れた物資や文化が外来する(物資は文化と共に到来する)ことは日本が一段低いということであり口惜しいので、日本書紀が成立した当時の統治者が国内外に虚勢を張るために、新羅再征の説話(新羅を討ち破ったとの説話)をわざわざ日本書紀の<卷第九 神功皇后>の部分に加述させたのです。これが、後世、「三韓征伐」(新羅のみ「征伐」したので、正しくは「新羅征伐」)と呼ばれるものです。
    (注)この日本書紀の新羅再征の説話をもとに、後世、軍国主義(対外戦争勝利)の象徴たる神功皇后のイメージがつくられました。
 なお、三韓(新羅)の「征伐」は、国内向けに天皇の正統性を訴えるために作成された「古事記」には記載がなく、外国向けに日本という国の正統性を主張するために作成された「日本書紀」に次の(3)で述べるように誇張と虚像として記載されたのです。
 日本書紀の<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>や<卷第九 神功皇后 新羅出兵>に記された、後世「三韓征伐」と呼ばれることになる説話をよく読めば、「海上に見える国がある。この国には目に眩まばゆい金・銀・彩色などが沢山ある。これらが欲しいので、それを手に入れるために海上に見える国に攻め込んで行こう」という、大変に卑しい行為を行おうというものであって、実際にかかる行為を古代の日本人がやったと主張するなら、それは日本民族の尊厳を貶おとしめることになります。それを回避するためにも、「三韓征伐」と呼ばれる説話は、実はそれは、古代における日本と朝鮮半島との交易・交流を反映したものである、と述べなければなりません。なお、ネトウヨ(ネット社会で新しく湧き出した右翼的な考えを持つ人々を批判的に呼ぶ呼び方)の人々が こんなTシャツを購入することで分かるように「三韓征伐」というのは、どういう文脈で使用されるか次第では(肯定的に使用すれば)ヘイト(他民族への憎悪を煽る)用語となります。

(3)古田武彦「古代は輝いていたU 日本列島の大王たち」の中で、次のことが記述・実証されています。
  @「古事記には(引用者:この現代語訳の「中巻 仲哀天皇 三 神功皇后の新羅遠征」の箇所)、神功は新羅へ渡って新羅国王との間に平和的に国交関係を樹立したことがのべられているだけであって、戦闘描写は全くない。これに対して、日本書紀の場合(引用者:この現代語訳の「卷第九 神功皇后 新羅再征」の箇所)、朝鮮半島南半部各地に転戦させ、新羅側と戦い、百済に占領地を与えた(その領有を承認した)旨が記されている。大きなちがいだ。いずれが真実か。いうまでもない。古事記の方だ。」
  A「神功は新羅の王子・・・・・の子孫であり、新羅は彼女にとって、(母系の)父祖の国だった」(引用者:このことは この古事記の現代語訳の「中巻 応神天皇 八 天之日矛の渡来」に記載されており、このことも古代より日本と朝鮮は深い交流があったことを反映しています。ご参考
  B「神功は、・・・・・その故国(新羅)へ征伐などに行ったのではない。提携と国交を求めに行き、新羅および百済との間で、それに成功した」(引用者:@とAを考察すれば、このようになります。)
  C「神功の平和的国交の樹立は、憎悪の連鎖の相乗効果を生みやすい戦争や征服とは別種の永続的な効果をもたらした」(引用者:この古事記の現代語訳の「中巻 応神天皇 六 百済の朝貢」の記述はこのように読み取れます。)
  D誇張と虚像は、日本書紀の記述において加えられただけでなく、古事記の記述にも存在する。例えば、新羅国が神功皇后に屈服と服従を誓ったことである(引用者:この古事記の現代語訳の「中巻 仲哀天皇 三 神功皇后の新羅遠征」の箇所)。これらの誇張と虚像は、成果を誇示するためであった

(4)「三韓征伐」という用語は記紀には記載がありません。その用語がいつから使用されたかについて通説はありませんが、このように教科書が国定化される前の明治中期に使われた初期の段階の教科書である『帝国小史』(1893年)には記載があることから、江華島事件(1875年)を機とする朝鮮侵出開始後しばらくして使用され始めたと思われます。
 (1)〜(3)で見たように、「三韓征伐」などというものはなかったのですが、明治に入ってから、「朝鮮半島は古代より、日本の支配下に置かれるのが当然であった」という、侵略を正当化するいわばイデオロギーとして、日本書紀の記述に加えられた誇張と虚像に基づいて作られたものです。
 それにより、神功皇后は本当は「平和的国交の樹立者」であったにもかかわらず、1945年の終戦まで「大日本帝国による朝鮮半島支配の正当性の象徴・根拠」として喧伝され続けました。なお、日本で最初の本格的な肖像入り紙幣の肖像は彼女でした(その紙幣<原版はイタリア人技術者が作成したため、西洋風の女性に描かれている>)。
 戦前に作られた神功皇后の軍国主義(対外戦争勝利)の象徴たるイメージは戦後70年以上が経た現在も払拭されていません。生駒ゆかりの人物の一人である神功皇后がそんなイメージのままであることは誠に残念です。国際的な友好平和樹立という課題の重要性が高まる中、神功皇后の名誉回復、つまり、軍国主義の象徴から平和的国交樹立の先駆者への人物像の転換が求められています。

(5)参考 : 皇后考皇后考女帝論

(6)生駒(生駒山とその麓)の産土神うぶすながみ(その土地を守護する神)は伊古麻都比古神いこまつひこのかみ(生駒を守護する男の神/「都」は「の」の意」)と、伊古麻都比賣神いこまつひめのかみ(生駒を守護する女神)の2神ですが、この2神が、神功皇后軍の出発の合図をするよう命じられていた鶏を未明(午前3時ごろ)に追い払うことで、神功皇后軍をして征伐戦争に出発させないようにしたとの「生駒の産土神うぶすながみの鶏追とりおい」伝承もあります。
  征伐戦争は、殺戮を伴うものです。生駒の産土神(生駒の守護神)の鶏追とりおいは、神の使いでありながら殺戮に加担して堕落することから鶏を守護し、また、殺戮の首謀者となって堕落することから神功皇后を守護することであったといえます。それは、日本書紀に記された生駒神話(攻め込んできた磐余彦軍を殺戮せんとした長髄彦軍が、長髄彦軍の守護神である金の鵄によって打ちのめされて戦えないようにされることで、殺戮の実行者となって堕落することから守護されたとの口承を核とする神話/生駒の神話<大要>の【2】ご参照)と共鳴しています。
  なお、伊古麻都比古神は、「大和の国譲り」(生駒の神話<大要>の【1】ご参照)を行なったとされる饒速日命にぎはやひのみことのことだとの伝承もあります。

(7)生駒には鶏にかかわる伝承で有名なものが2つあります。2つとは、「神功皇后と鶏」と「生駒の産土神の鶏追とりお」です。
 前者は、神功皇后軍が海のかなたの国とのいくさに向かう途中で生駒に宿営し、鶏に明朝鳴いて出発のときを知らせるようにと厳命したが、次の日の朝、いつまでたっても鶏は鳴かず出発できなかったため、怒った皇后は鶏を生駒川(龍田川上流)に捨ててしまった、との話ですが、ときを告げる有難い鶏がなぜときを告げなかったのが疑問に残る話となっています。
 後者は、生駒の産土神うぶすながみ(その土地を守護する神)は伊古麻都比古神いこまつひこのかみ(生駒を守護する男の神/「都つ」は「の」の意」)と、伊古麻都比賣神いこまつひめのかみ(生駒を守護する女神)の2神であるが、この2神は、鶏を未明(午前3時ごろ)に追い払った、との話ですが、古来神の使いとされている有難い鶏がなぜ追い払われたのかが疑問に残る話となっています。
 この2つは、今では別々の話のようになっていますが、もともとは1つの話だったようです(この記事.pdfに、追鶏祭とりおいさいには神功皇后と鶏の伝説が付随している、とあります)。そうすれば疑問は解消されます。この2つを1つの話としてつなげれば次のようになります。
 神功皇后軍が海のかなたの国とのいくさに向かう途中で生駒に宿営し、鶏に明朝鳴いて出発のときを知らせるようにと厳命したが、次の日の未明、生駒の産土神は鶏を追い払うことで、神功皇后軍をして出発のときを聞くことができないようにし、そのため、神功皇后軍はいくさに出発できなかった。
 これで、2つの伝承にまつわる疑問は解消され、それらの伝承の真意が明らかになりました。

(8)鶏にまつわること
 @龍田神社の鶏の話手水場ちょうずば(清めの場)の鶏像の写真(↓)あり
龍田神社の鶏.jpg


 A本来鶏は、常世長鳴鳥とこよのながなきどりと呼ばれ、太陽を呼び出し、鳴声は時を知る手だてとされる有難い鳥であり(ご参照)、神の使いとして暁の声を立てて時を知らせ一切衆生の眠りを覚まし本覚の道にいれさせ給う任務を持つ鶏(ご参照ミラー>)が、神功皇后の出発の時を知らせなかった(知らせることが出来ないように追われた)のは、征伐戦争否定が神意であったからといえます。

 B古来から鶏は「神鶏しんけい/神使しんし」(神の使い)とされていて、伊勢神宮や石上いそのかみ神宮などでは、春日大社の鹿と同様に神使として放し飼いにされています(ご参照/ご参照.pdf)。神社の鳥居ももともとは檜の白木素地のままで、神の使いである鶏の止まり木としてつくられていたとの説もあります(鶏は鳥目ゆえ夜には目が見えないので、安全のため暗くなると木に上って夜を過ごす)。

 C Bの(ご参照)に記されているように、常世の長鳴鳥は天照大神を天の岩戸から外へ出す際に、「カケコー、カケコー、カケコー」と三回鳴いたと言われていることに由来して、伊勢神宮の式年遷宮では、宮司が儀式の始まりに鶏の鳴き声の真似を3回唱える「鶏鳴三声けいめいさんせい」(この動画の2分35秒〜2分50秒)を行ないます。

 Dニワトリには夜明けを告げるだけでなく、闇の中に潜む怪しいものを察知し、鳴き声で追い払う役割も期待されていた。古墳に立てられた鶏形埴輪にも、被葬者の安らかな眠りを妨げる邪悪な魑魅魍魎ちみもうりょうの物音をいち早く察知し、鳴き声で朝が来たと錯覚させ、退散させるという役割があったのかもしれない。< 朝日新聞「関西遺産 石上いそのかみ神宮のニワトリ」(17.1.4)より>

 E問題文中の「毎年元旦には神社の裏山から金の〇の吉兆の鳴き声が聞こえる」の裏山とは、龍田神社の北側にある龍田の神奈備かんなび(神の鎮座する山)とされる御廟山ごぼうやまのことですが、金の鶏が鳴くといわれる所は大和各地にあります⇒大和の傳説 金鶏の鳴く所(リンク)をご参照

 F庭つ鳥.pdf

 G参考 : 伊藤若冲は鶏の姿に生命の美しさを見ていたといわれます。下図は、若冲作「紫陽花双鶏図あじさいそうけいず」(部分)<「仙台市政だより」(2013年3月号)より>ですが、ここに描かれた鶏は鳳凰のごとくです。
若冲作「紫陽花双鶏図」.jpg


(9)鶏など神使になった動物たち<リンク>   

2014年01月11日

<問22>の解答・解説

解答> 森見登美彦 

解説
(*)大事なことは皆で考え決めよう会のマイサポ登録事業「森見登美彦作の小説『ペンギン・ハイウェイ』の舞台探訪」・・・これを選択・届出していただける方はマイサポいこま(マイサポ応援チケット)届出フォーム 入力画面へどうぞ(選択・届出は終了いたしました)。   私たちのマイサポ登録事業へのご支援、ご参加をお願いいたします!
    関連:何でもない街や田舎の風景は細密に描かれることで、新鮮な風景に変わる。

(1)問題文中の作者の言葉は、この記事からの引用です。

(2)「ペンギン・ハイウェイ」の舞台について
 @「ペンギン・ハイウェイ」の舞台のモデル
 A森見登美彦さんは、「ペンギン・ハイウェイ」と「千と千尋の神隠し」の舞台の共通点をこのように.pdf述べています。
 B「ペンギン・ハイウェイ」や「千と千尋の神隠し」の舞台となったのはこんなところ
 C
ペンギン・ハイウェイ」の舞台となった町での不思議体験.pdf

(3)森見登美彦さんのこと
 @Wikipedia
 A「登美彦」というペンネームの由来である「登美彦(長髄彦)」や登美彦(長髄彦)が主人公である「生駒の神話」については、<問1>と その解答・解説をご参照ください。
 Bこの小説には「県境の向こうにある街から引っ越してきたのは、ぼくが七歳と九ヶ月のときだ」とありますが、「野生時代」(2010.7月号)〜総力特集 竹とペンギンと森見登美彦〜では、登美彦さんは、「9歳の時<引用者:88(S63).1.6〜89(S64).1.5>に家族で奈良県の郊外に引っ越したんです」と述べています。また、「ジブリの教科書12 千と千尋の神隠し」の中では「私が大阪から奈良へ引っ越してきたのは、小学四年生<引用者:88(S63).4〜89(H1).3>の夏だった」と述べていますが、ブログでは「生駒市は登美彦氏がこの世に生をうけた地」とあります。なお、この小説の舞台のモデルとなった北大和住宅地に入居が開始されたのは、88(S63)年12月です。
 C趣味は近鉄の特急電車に乗ることだそうです(ご参照)。

(4)書評1記事版  書評2.pdf記事版>  書評3.pdf  書評4  書評5(「ペンギン・ハイウェイ」は「全体小説」との最大評価批評)  書評6

(5)(2)〜(4)の記述を基に「小説『ペンギン・ハイウェイ』舞台探訪」ガイドブック.pdfが作成されました。

(6)映像・イラスト
 @TVCM
 APV<絵も音楽も素敵なPVです。コスモスクエア行きの電車は「新しい鉄道」なので「少年」と「お姉さん」は乗れていませんので、「コスモスクエア」ではない別の表示の方がよいのではないでしょうか。給水タンク(配水池)ではなく、給水タンクと給水塔(高架水槽)または給水塔のみ、の方がよいのではないでしょうか。>
 B「ペンギン・ハイウェイ」の投稿イラスト
 C
登場人物イメージイラスト

(7)これらの感想(その1その2その3)を読んでもわかりますが、アオヤマ少年は当時はまだ意識していないものの、お姉さんという1人の女性とハマモトさんという1人の少女の間で微妙な位置に立たされています(下に注)。それを踏まえて、その後.pdfを想定してみました。
  注 : 感想(その2)さんがいう、P.377(引用者:角川文庫版)の「アオヤマ君とハマモトさんの会話」の部分.pdf

ペンギン・ハイウェイ○.jpg 
↑カバーイラストは、くまおり純さんの作(くまおりさんの他の作品
 
02 penguin_highway.jpg


(8)「ペンギン・ハイウェイ」一言紹介 : 生駒市北部のまちを舞台に、少年少女が、素敵な大人と出会い、さまざまな研究と探検をしながら、未知との遭遇や世界の果ての探求を通して成長をしていくSF冒険物語。

2014年01月10日

<問23>の解答・解説

解答> 芥川龍之介

解説
(1)「犬と笛」の全文は、青空文庫で読むことができます。

(2)児童雑誌に掲載されたこの小説の副題は「いく子さんに献ず」です。いく子さんとは、芥川夫人の文ふみさん(当時18歳)の母の従妹で、当時15歳ですから、もはや児童ではありません。当時、芥川は26歳で、10ヶ月前に結婚したばかりでした(ちなみに、文さんは16歳のときに芥川と縁談契約書を交わし、17歳のときに結婚しています)。なぜ芥川は、新妻の文さんがいながら、わざわざ自らの作品をいく子さんに献じたのでしょうか。作品を献じる人というのは余程大切な人です。
 思えば、この物語も、1人の男性(髪長彦)が2人の女性(御姫様姉妹)の間で不安定な位置に置かれていることを示唆して終わっています。また、この物語は、2人の女神(駒姫と笠姫)が1人の男性(髪長彦)を助けるという話でもあります。2人の女神と1人の男性といえば、立(龍)田姫・佐保姫と、髪長彦ならぬ長髄彦(登美彦)が連想されます(問20ご参照)。更に、生駒北部のまちを舞台とする小説「ペンギン・ハイウェイ」の主人公の少年も1人の女性と1人の少女の間で微妙な位置に立たされています〜<問22>の解答・解説の(6)ご参照〜。
 このように、生駒ゆかりの伝承・物語は、2人の姫(優れた女性)または2人の女神対1人の彦(優れた男性)という図式になるのですが、この物語の御姫様姉妹と、年齢的にも姉妹のような文さん・いく子さんが重なってしまいます。そのためか、この作品は、その後刊行された芥川の童話集「三つの寶」には収録されず、当時、どの短編集にもついに収録されませんでした。児童向け雑誌に1回掲載されたのみで封印されたのです。

(3)髪長彦の冒険飛行ルート(クリックで拡大 )
01髪長彦の飛行ルート○.jpg

(*)参考1 : この物語がゲーム化されていることは、この物語がエンターテイメント性に富むことを示しています⇒「脱出ゲーム 絵本風-犬と笛-」ご参照(脱出の仕方は、このページの「ネタバレ内容を表示」に書かれています)。
  この物語のエンターテイメント的要素の1つが、次のような多彩なキャスト
    山中で現れる3つの異形の神/人間が持っていない特殊能力を持つ3匹の犬/美しい2人の御姫様姉妹/2人の姫をさらう異界の物の怪・妖怪・怪物/妖精のような2人の女神/弱き者のために勇気を奮い立たせる柔でこころ優しい主人公/(男の嫉妬ほど醜いものはないが、その醜悪さを持つ)見かけ倒しの無骨で卑劣な侍という主人公とは対照的な男たち。

(*)参考2 : 朗読

2014年01月09日

<問24>解答・解説  

解答>(1)ブルーノ・タウト (2)芥川龍之介 (3)山中伸弥 (4)前野ひろみち (5)金時鐘  (6)H氏賞  (7)泉鏡花

解説
(1)ブルーノ・タウト  生駒山嶺小都市計画.pdf  

(2)宇野浩二「芥川龍之介」全文

(3)山中伸弥さん
 @wikipedia
 A森見登美彦さんのブログに<小説「ペンギン・ハイウェイ」〜問22ご参照〜の登場人物であるハマモト先生と山中(伸弥)先生は同僚であったかもしれない。廊下ですれちがいながら、「おはようございます」と言い合ったかもしれない。>とあります。
 B山中伸弥さんはなぜ奈良先端大を去ったのか?山中伸弥さんは徳洲会理事長の理念に共鳴して医師になった

(4)「満月と近鉄」は、4つの短編集である「ランボー怒りの改新」に所収されています。 「ランボー怒りの改新」の紹介記事
  答の選択肢の4人は、奈良(奈良県・奈良市)つながりの小説家たちです。〜万城目学(奈良を舞台とする作品を書く)/仁木英之(現在、奈良に在住)/前野ひろみち(奈良で生まれ育ち、奈良を舞台とする作品を書き、今も奈良に在住)/森見登美彦(奈良で育ち、奈良を舞台とする作品を書き、今は奈良に在住)〜
 @万城目学さんの感想
 A仁木英之さんは、「ランボー怒りの改新」のあとがき(解説)を書いています。 仁木さんの作品である「僕僕先生」の書評  同「まほろばの王たち」の書評(その1その2
 B特別会談<森見登美彦×前野ひろみち>  前野ひろみちさんを謎の作家として紹介する記事
 C森見登美彦さんは、ブログで紹介

(5)金時鐘  大佛次郎賞の受賞の言葉と選考委員5氏の選評.pdf(151220)   金時鐘さんの発言等

(6)H氏賞  このページに著者紹介あり  貞久秀紀「空気」
貞久秀紀「証言」<↓クリックで拡大>
証言 95 95○○.jpg

2014年01月08日

<問25>解答・解説

解答
(1)@発電   A茶筌(ちゃせん)   Bケーブルカー   C環境   Dビルリオバトル   E110番   F解職

(2)カード様式の国保保険証   (3)財政力指数

(4)@東生駒駅  Aけいはんな線

解説> 
(1)の問題について
 @一般社団法人・市民エネルギー生駒生駒市の地域エネルギー会社「いこま市民パワー」
 A茶筌については、<問4>をご参照
 B近鉄のケーブルカー
 C環境モデル都市については、<問12>をご参照
 Dビブリオバトルについては、【2】生駒市の図書館をご参照
 Eこども110番の家  店舗版こども110番の家は岐阜県可児市で始まりました(ご参照)が、家庭版こども110番の家は、当時の生駒市のあすか野・真弓地区の駐在さんが地元自治会の協力を得て始められたといわれています(全国では、ほぼ同時期に始まったところもあるようです)。
 F解職請求(リコール)について  この問題は、この文書を元に作成しました。

(2)の問題について
 〇市外在住者本籍地戸籍証明書コンビニ交付サービス報道記事.pdf
 〇手紙付きのオリジナル婚姻届
 〇プロボノマラソン.pdf
 〇電力固定価格買取制度を活用した自治体浄水場での水力発電設備⇒このページの(4)ご参照
 〇カード様式の国保保険証
 〇公共図書館での電子書籍専用端末の閲覧・貸出サービス⇒04年度に開始されましたが、08年度で終了しました(電子図書館広がらない.pdfご参照)。
 〇ジェネリック医薬品推奨薬局の認定制度

(3)の問題について
 〇県外就業率⇒12(H24)年7月20日に平成22年国勢調査 従業地・通学地による人口・産業等集計奈良県結果の概要が公表され、その中の要約及び注記(従業地・通学地集計結果).pdfを見ると奈良県は県外就業率が全国1位で、なかでも生駒市が56%で県下で最高です(報道記事.pdf)。
 〇歩きタバコの違反者への過料⇒報道記事ご参照
 〇財政力指数⇒生駒市と各市の財政状況等についての5ページをご参照(分り易いより新しいデータがあれば差し替えます
 〇2015年から2025年にかけての後期高齢者(75歳以上)の伸び率⇒ご参照.pdf第1回生駒市医療介護連携ネットワーク協議会<2016年6月開催>で配布された地域包括ケアシステムの構築について より)
  後期高齢者の伸び率がトップクラスの生駒市は、全国から視察団がやってくるほどの介護予防(要介護状態になることをできる限り防ぐ遅らせること、要介護状態であっても、状態がそれ以上に悪化しないようにする、状態の維持・改善を図ること)事業の先進地であり(ご参照.pdf)、要介護認定率(65歳以上の高齢者に占める要支援・要介護認定者の割合)は13年4月現在で15.6%(16年3月厚労省公表の14年度状況資料では、全国平均17.9%、その最下位県の山梨県は14.2%)と低くなっており、生駒市は、将来的には「後期高齢者伸び率トップクラスでありながら、要介護認定率は最下位クラス」に成り得るという注目の自治体となっています。
  後期高齢者の伸びへの対応や介護予防の実践等をはかる地域包括ケアについてお知りになりたい方は、パンフ「高齢化社会到来に向け、地域包括ケアシステムの構築へ」をお読みください。こちらへ。

(4)の問題について
 〇大阪市営地下鉄中央線と近鉄けいはんな線の路線図<↓クリックで拡大>  生駒市とその周辺の路線図
ゆめはんな.jpg
 〇Osaka-Subway.comさんのこの記事が良き解説となっています。
 〇けいはんな線が第三軌条式になったのは、第三軌条式の大阪地下鉄中央線と相互乗り入れできるようにするためでした。同様の理由で、千里中央を始発とし大阪地下鉄御堂筋線と相互乗り入れしている北大阪急行も第三軌条式です。逆に、大阪地下鉄堺筋線は、架線式の阪急と相互乗り入れできるようにするため架線式になっています。 
 〇けいはんな線の駅では線路脇などに、下に載せた「変わった踊りを人がしているように見えるイラスト添えの、こわいでんきがながれています」カンバン<クリックで拡大>が表示されています。そのイラストや文言からやや大袈裟なこけおどしのように見る人もいるようですが、実際は、レールに接近すれば、放電されている電気によって感電死してしまうことがあるそうです。ですから、架線式の路線では、線路に降りれば、電車に轢かれなくても死んでしまうことがあるので注意しなくてはなりません。
こわいでんきがながれています.jpg

 〇けいはんな線開業(06.3.27)前と変わらぬ最高速度時速70kmで大阪地下鉄中央線を走ってきた電車が、中央線終点の長田駅からけいはんな線に入り、その終点の奈良登美ヶ丘駅までは、第三軌条式でありながら時速95kmで走行します。鉄道ファンの間では、それを「爆走」と表現する人も少なくありません。