2017年04月16日

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(1)このサイトでは、生駒検定<全国版>の問題を問題番号順(降順)に配列しています。
    ただし、「<問26>生駒の歴史」は、複数の他問題と関連する問題につき、<問1>と<問0>の間に配置しています。また、<問27>は、<問26>と連動する部分もあるので、それにくっつけて<問1>と<問0>の間に配置しています。

         ジャンル別に配置しているサイトはこちらです。

(2)文書版<問1〜問14>  文書版<問15〜問17>  文書版<問18〜問20>  文書版<問21〜問27>(未作成)

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  ※ 生駒の地誌(歴史・地理・文化)を知りたいとき ⇒ 生駒市誌

  ☆「生駒検定<全国版>」についての問い合わせ先 : 吉波伸治(よしなみのぶはる)
      住所 〒630-0121 生駒市北大和3−2−7 電話 0743-84-4355
 
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2017年04月15日

<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古

(1)次の各文の(  )に最も適する語句を答えてください。

 @生駒市では、全国的にも事例の少ない「全額市民出資の市民共同(  )所」事業を推進する一般社団法人・市民エネルギー生駒も参加して、17(H29)年7月18日、生駒市の地域エネルギー会社である「いこま市民パワー」が設立されましたが、「市民団体も参加する地域エネルギー会社」は全国初です。


 A生駒市の「(   )」の生産量は全国一で、全国シェアの90%以上を占めています。 


 B1918(T7)年、「日本初の(  )」が鳥居前駅〜宝山寺駅間に開通。それは、1929(S2)年には生駒山上まで延長され、生駒山上遊園地が開設されました。この遊園地で1931(S4)年から動いている飛行塔は、全国最古の現役の大型アトラクションです。また、小学生が登下校に利用し、車が通れる踏切がある(  )があるのは、日本で生駒市だけです。
  なお、山上遊園地は、戦時中は休園し、海軍基地として使用され、戦時中の金属回収令で多くの金属が回収されるなか、飛行塔は軍の防空監視所だったことで奇跡的に残り、今では同園のシンボルとなっています。


 C生駒市は14(H26)年3月、「(  )モデル都市」に選定されましたが、それは、大都市近郊型の住宅都市としては全国初でした。


 D15(H27)年9月20日、生駒市図書館は「第1回(  )全国大会」を開催しました。それまではすでに、大学生等を対象とした全国大会はありましたが、社会人までを対象にした年齢無制限の全国規模の大会は全国初でした。


 E「こども(  )の家」制度は、店舗版は96(H8)年に岐阜県で始められましたが、家庭版は、97(H9)年に生駒市で全国に先駆けて始められ、全国的に子どもを対象とした事件が発生し大きな社会問題になる中で、全国にひろまっていきました。


 F生駒市で09(H21)年10月〜11月に行われた「市議(  )請求署名(リコール署名ともいいます)」の有効署名数は4万4154人(有権者の46.4パーセント)にのぼりました。「市議の(  )投票成立」は全国初で、すべての(  )請求署名において確定有効署名数が有権者の半数近くに達したのも全国初でした。


 G生駒市は全国に先駆けて15(H27)年に導入した「(  )・日常生活支援総合事業」の実践的な取り組みを紹介するハウツー本「地域でつくる! (  )ケアマネジメントと通所型サービスC」を17(H29)年10月に出版しました。この本には、全国の自治体で話題を呼んだ、きめ細やかな福祉サービスの実態が明かされています。

 H1892(M25)年に開通した大阪と奈良を結ぶ鉄道<現JR関西本線(愛称:大和路線)>は生駒山地を迂回していました。そこで、大阪と奈良を短距離・短時間で結ぶ鉄道(現近鉄奈良線)開設のために、生駒山地を貫く生駒(  )が建設されました。これの建設工事は1911(M44)年に着工され1914(T3)年に竣工しましたが、落盤事故で152名が生き埋めとなり20名の犠牲者が出るほどの難工事で、 工事費も見込みを上回ったため、発注者の大阪電気軌道<大軌/近畿日本鉄道(近鉄)の前身>も工事を請け負った大林組も、共に一時経営難に陥りました。かかる困難を乗り越えて開通したこれは、長さ(全長3,388m)では国鉄中央本線の全長4,656mの笹子(  )に次いで日本2番目でしたが、日本初の標準軌複線の(  )であり、複線標準軌としては全国一の長さを誇る(  )でした。なお、これは、断面が狭小で大型車両を運行できず近鉄奈良線の輸送力増強の支障となってきたため、これの南側に並行して新生駒(  )が建設され1964(S39)年に供用が開始されたことで、これは半世紀に渡る役割を終えました。ただし、その東側の一部は、06(H18)年3月に開通した近鉄けいはんな線の生駒(  )の一部として復活しました。

(2)次の中で、生駒市が全国初ないものが1つあります。それは何ですか。ただし、それは奈良県では初です。

  市外在住者本籍地戸籍証明書コンビニ交付サービス  手紙付きのオリジナル婚姻届  プロボノマラソン  電力固定価格買取制度を活用した自治体浄水場での水力発電設備  カード様式の国保保険証  公共図書館での電子書籍専用端末の閲覧・貸出サービス  ジェネリック医薬品推奨薬局の認定制度  カレンダーアプリの配信  空き家流通促進プラットホーム(公的データを活用した、オーダーメイドの空き家対策)  都市公園内における障がい者の福祉施設の設置   ふるさと納税の寄付を活用した野良猫の避妊・去勢手術費用の全額負担


(3)次の中で、生駒市が全国一、またはトップクラスないものを挙げてください。ただし、それは奈良県では最高です。

  安全・安心な街ランキング(東洋経済新報社 平成24年調査)   県外就業率   歩きタバコの違反者への過料(2万円)   財政力指数(地方公共団体の財政基盤の強弱を示す指数)   2015年から2025年にかけての後期高齢者(75歳以上)の伸び率   市役所発行証明書のコンビニ交付の人口あたりの交付率


(4)電車が電気を取るタイプ(集電方式)には2つあります。一般的なものは架線(架空線)式で、天井にパンタグラフと呼ばれる集電装置を備え、上から電気を取っています。全国どこでも見られるのがこのタイプです。もう一つが、第三軌条式で、パンタグラフにあたる集電靴しゅうでんかと呼ばれる長靴状のものを車輪のそばに備え、足元から電気を取っています。集電方式が違う電車は、基本的に違う方式の電車の線路を走ることはありません。

 @ところが生駒市内の近鉄(近畿日本鉄道)のある駅では、全国で唯一、架線(架空線)式の線路で第三軌条式の電車を見ることが出来ます。ある駅とはどこでしょう。

 Aまた、生駒市内を走る電車の路線は下記の4つで、すべて近鉄ですが、このうち、第三軌条式を採用しているのはどれでしょうか。

       生駒線  奈良線  生駒鋼索線  けいはんな線

  なお、全国の他の第三軌条式路線は全て時速70Kmまででしか走ることは出来ないのに対し、その路線を走る電車は時速95Kmで走り、その第三軌条式電車としての速度は全国一です。


(5)次の文の(  )に当てはまる語句(漢字2字)は何でしょう。

 「日本列島先住民=縄文人」(長髄彦ながすねひこが体現)と「渡来人=弥生人」(饒速日命にぎはやひのみことと磐余彦尊いわれひこのみことが体現)が出会う中で(  )が成立したことを反映した神話が生駒を舞台としていることが、生駒が「最古の(  )」といわれている所以です。



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2017年02月27日

<問24>生駒ゆかりの諸群像 

)1930年代前半、生駒山頂上の住宅地設計をした人がいます。この住宅地設計を「生駒山嶺さんれい小都市計画」といいます。その人は、1933年にドイツでナチス政権が誕生すると日本に亡命し、3年半の滞日中に各地を歩き、日本の伝統的建築や民俗的美意識を高く評価して日本美を再発見し、「ニッポン」「日本文化私観」「桂離宮」などの著書を著し、日本文化について優れた文章を残しました。この人は、日本に来る前にはドイツで多くの住宅を設計し、そのいくつかは、後の住宅建設に大きな影響をあたえたことから世界文化遺産に登録されています。この著名な建築家はだれでしょう。


)下に記した文は、宇野浩二の小説「△△△△△」からの引用文です。△△△△△には著名な小説家の氏名が入ります(漢字5字)。その小説家とはだれでしょう。<問23>の答と同じ人物です。なお、引用文の〇〇には、その小説家の姓のみが入ります。引用文を読むと、大衆文学の新人作家に贈られる直木賞の由来である直木三十五と、純文学の新人作家に贈られる〇〇賞の由来である△△△△△とが一緒に生駒に遊行していたことがわかります。


 ・・・・・妙な事をいう、とは、思ったが、私は、床とこを出て、支度をし、〇〇も支度をした。そうして、「では、行きましょう」という直木(引用者:直木三十五)のあとについて、私たちは、その茶屋を、出た。ところが、すぐ近くだ、と思ったのが、自動車にのせられ、上本町六丁目にゆき、そこから、奈良ゆきの電車にのせられ、生駒駅でおろされた。・・・・・生駒山は、海抜は二千尺ぐらゐであるが、金剛山脈の北部を占める生駒山脈の主峰であり、河内と大和の境にそびえる山である。二千六百年の昔、勇敢な神武天皇も越えられなかった、という伝説の山である。大阪から真東にある奈良まで行く電車がなかなかできなかったのは、この大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかったからである。数年の歳月と巨額の金額をつひやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった。・・・・・この生駒山の山腹の東側に、『生駒聖天』として名高い宝山寺がある。・・・・・その宝山寺にまゐるために、生駒駅から宝山寺までケエブル・カアができた。さうして、ケエブル・カアができるとともに、そのケエブル・カアの停車場の横から、ケエブル・カアの通じる坂にそうた道に、アイマイな茶屋が十数軒あらはれ、そのアイマイ茶屋のために、アイマイ芸者が五十人ちかく集まって来た。直木が、「しづかな所」と称して、〇〇と私を案内したのは、このケエブル・カアの停車場のちかくの、ちょっとした茶屋であった・・・・・。


)次の経歴を持つ、著名な学者は誰でしょう。

 生駒山をはさんで生駒市の西隣の大阪府枚岡市(現・東大阪市)で62(S37)年9月に生まれ、小学3年生のとき生駒市の東隣の奈良市の学園前に転居。中学・高校時代は、生駒山を東西に貫くトンネルを走り抜ける近鉄電車に学園前駅で乗車して大阪に通学。高校生のとき、父から医師になることを勧められたものの、将来の進路に迷っていた。しかし、現在、生駒市立病院の指定管理者である徳洲会の理事長である徳田虎雄氏の著書「生命だけは平等だ」を読み、徳田氏の生き方に感銘を受けて医師になることを決意、神戸大学医学部に入学。卒業後、国立大阪病院整形外科で臨床研修医として勤務したが、研究者を志して退職し、大阪市立大学大学院に入学。在学中、米国グラッドストーン研究所に留学。帰国し、大阪市立大学薬理学教室助手に就任。しかし、研究がうまくいかず、科学雑誌で見つけた、生駒市にある奈良先端科学技術大学院大学(先端大)の公募に「どうせだめだろうから、研究職を辞めて臨床医に戻るきっかけのために。」と考え応募したところ、99(11)年12月に助教授に採用され、研究を再開、iPS細胞の開発に成功した(なお、現在は先端大の最寄り駅は近鉄けいはんな線北生駒駅だが、同線が未開通の当時、先端大は近鉄学園前駅とバスで結ばれていた)。03(15)年9月に教授になったが、翌年、京都大学に移った。06(H18)年8月、米学術雑誌セルにマウスの細胞からiPS細胞を作成することに成功したことを報告する論文を掲載。この論文が直接のきっかけとなって、12(H24)年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。


)下に記した文で始まる「満月と近鉄」という短編小説は生駒を舞台としています。この作品を書いた小説家を次から選んでください。なお、この作品には、<問22>の答である小説家かと思わせるような長脛ながすね君が登場します。

     万城目学  仁木英之  前野ひろみち  森見登美彦


 若い頃、生駒山の麓で仙人のような暮らしをしていたことがある。十八の春から夏にかけてのことで、今から二十年近くも昔のことになる。私が暮らしていたのは、近鉄生駒駅から「ピックリ商店街」を抜け、宝山寺の参道を五分ほどのぼった「蓬莱荘」であった。


大佛おさらぎ次郎賞は、優れた散文作品に贈られます。その42回目(2015年度)は、生駒市在住詩人の回想記「朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ」に贈られました。この詩人は誰でしょう。次から選んでください。

    金石範キム・ソクポム  李恢成イ・フェソン  金時鐘キム・シジョン  柳美里ユウ・ミリ  梁石日ヤン・ソギル


)生駒山の麓に住まいする詩人の貞久秀紀さだひさひでみちさんは、98(H10)年に「空気集め」という詩集で、 詩壇の芥川賞と呼ばれる賞を受賞されました。この賞の名前は何でしょう。次から選んでください。

       H氏賞  O氏賞  Z氏賞  A氏賞  N氏賞


)次の文は、「紫障子」という文学作品の紹介記事です(・・・・・は省略部分)。〇〇〇にはこの作品の作者名が入ります。この作者(漢字3字)は誰でしょう。


 ・・・・・猿沢池・・・・の池畔にたたずむ旅龍はたごでの情景が、濃密な怪談への発端となる小説がある。〇〇〇の「紫障子」。〇〇〇が奈良を舞台にした唯一の作品・・・・・。特殊な信仰や伝説から濃厚な怪異譚かいいたんを編む〇〇〇のスタイルは、この作品でも存分に発揮されている。・・・・・作中で京の芸舞妓げいまいこらが、より妖艶ようえんたらんとして執り行うとされる蛇神の秘儀は、上方の花柳界に伝わる「巳みいさん信仰」(引用者 : 蛇神信仰のこと)と、花街からの信仰も厚かった奈良・生駒山宝山寺の「浴油供よくゆく」がベース。〇〇〇はそこから「今昔物語集」の纐纈城こうけつじょう伝説を連想したらしい。人間を太らせ、脂や血を搾り取るという説話だ。・・・・・舞台となった勝手屋のモデルは定かでないが、五重塔が映る猿沢池は当時のまま。浮世を逆さまに映す鏡のような水面に、〇〇〇は何を見たのだろうか。〜都ものがたり 奈良「〇〇〇 猿沢池畔を舞台に執筆」<朝日新聞/17(H29).6.8>〜


)次の文は、「新詳説 日本史 改訂版」(山川出版社/94.3.5発行)の中の、鎌倉仏教について述べた文です。(  )には、生駒にゆかりがある(遺言により、分骨を埋葬するお墓が生駒山東稜の竹林寺の行基の墓に並んである)人物の名前(漢字2字)が入ります。その人物の名前は何でしょう。<行基については、問3をご参照>

 このような新仏教に刺激され、旧仏教側も新たな動きをみせた。鎌倉時代の初めころ、法相宗の貞慶や華厳宗の高弁は、戒律を尊重して南都仏教の復興に力をそそいだ。ややおくれて律宗の叡尊や(  )らは、戒律を重んじるとともに、貧しい人々や病人の救済・治療などの社会事業にも献身し、多くの人々に影響を与えた。(  )は奈良に病人の救済施設北山十八間戸きたやまじゅうはちけんどを建て、施療や慈善につくした。(太字は原文による)

)次の文は、生駒を出自(本貫)とする生駒氏の略歴を記したものです。(  )には、生駒にゆかりのある人物の名前(漢字4字)が入ります。その人物の名前は何でしょう。

 平安時代、藤原氏一門の四家系のうち北家が着実に勢力をのばし、藤原北家の(  )は、858(天安2)年、その外孫清和天皇が9歳で皇位につくとその摂政となった。皇族以外のもの(人臣)で摂政になったのはこれがはじめてであった。こうして(  )は、人臣摂政の先例を開くことで摂関政治成立への道を開いた。(  )は、現在の生駒市である大和国平群郡生駒郷(生駒庄/生駒邑むら)に山荘を営んでここを根拠地とし、のち、生駒郷谷口村に土着したその子孫の生駒藤原家は、馬借ばしゃく(馬を用いた広域輸送業)や油売り(あの斎藤道三はこの業で国盗りを実現する力をつけた)や灰(染め物の原料)売りで勢力を張り、生駒庄(興福寺の荘園)の荘官(荘園内の年貢徴収・管理人)ともなって生駒氏・生駒家を称した(生駒藤原家が、生駒在住時代に生駒氏・生駒家を名乗り始めたのか、尾張に移り住んでから名乗ったのかは定かではないが、生駒氏は藤原北家の末裔といえる)。生駒氏は、応仁の乱が拡大すると、商売不振となり、身辺の危険を感じ、戦火を逃れて、1475〜1476(文明7〜8)年ころ、前野將右衛門を頼って、交通の要所たる尾張国丹羽にわ郡小折こおりに移住し、生駒氏の名の通りの馬借業と油・灰売りの商圏を飛騨から東三河にまで拡大するなど尾北の豪族(武家商人)として大いに勢力を張り、小折城ともいわれる小型の城郭である生駒屋敷を構え、その経済力と情報収集力で織田信長を支えた。尾張平定、桶狭間合戦、犬山城攻め、西美濃攻めの諸戦略は、商圏の要であり多くの食客も往来するがゆえに諸国の情報が集まる情報基地でもあった生駒屋敷で練られ、その戦いの費用は生駒家によって賄われ、信長がいち早く大量に鉄砲を調達できたのも生駒氏のおかげであり、信長の天下布武への道は生駒屋敷が起点となった。木下藤吉郎が、信長が恋に落ちた生駒家の娘である吉乃きつのに信長への仕官を求め仲介を依頼したことや草鞋を懐で温めて信長に差し出したことや蜂須賀小六との絆を強めたことなどは、信長が、吉乃との逢瀬を楽しみ、情報を入手するために頻繁に通っていた生駒屋敷(信長本拠の清洲城から約15kmにあり、馬を飛ばせば約1時間)でのエピソードである。なお、生駒屋敷に住み生駒の方と呼ばれた吉乃は、信長の嫡男・二男・長女をもうけた。生駒氏は、本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の九州征服時、讃岐国西部61000石の大名となり、四国平定後には讃岐一国17万3000石を与えられ、本城の高松城を築城し支城の丸亀城を改修、豊臣家三中老(五大老と五奉行との意見が合わないときの仲裁役の一人とされ、また秀頼の補佐役としても重きをなした。関ヶ原の戦では、真田家と同様のやり方で家門の存続を図るため、生駒親正ちかまさは西軍に属す一方、その子の一正かずまさは東軍につき、父からの遺封(受け継いだ所領)を本領安堵されたが、その孫高俊たかとしのとき、徳川3代将軍家光在位の1640(寛永17)年、家臣の対立から生駒騒動と呼ばれるお家騒動が起こり、領地を没収され、出羽国矢島やしま(現在の秋田県由利本荘市矢島町)1万石に改易された。のち、財政上から封地分封(領地の分割相続により分家をつくること)して旗本(1万石未満)となり、交代寄合衆(旗本ではあるが大名なみの処遇を受け参勤交代の義務があった)として幕末に至った。幕末の秋田戦争で生駒氏は奥州列藩同盟を離脱して新政府方として戦い、1868(明治1)年、親敬ちかゆきは新政府に忠誠を誓って矢島藩15000石を興こし、廃藩置県後、男爵に列せられた。なお、近年、秋田の名産品として脚光をあびている生駒塗の創始者である生駒弘・親雄ちかおさん親子は、出身地は由利本荘市で、祖先は四国高松城主(藩主)の生駒公といわれている。また、女性アイドルグループの乃木坂46のメンバーで、1stシングルから5thシングルまでと12thシングルのセンターを通算約1年8か月つとめた生駒里奈さんも、由利本荘市の出身である(生駒里奈さんは生駒氏の末裔とのうわさがあるが、それについては、ご自身も所属事務所も何も表明をしていない)。古文献「物部文書」には、生駒の神話の準主人公の饒速日命ニギハヤヒのみことと同名の神が、由利本荘市の「鳥見山とりみやま(現在名は鳥海山)の潮の処(山上?)」に降臨したと記されている。この点でも由利本荘市は生駒市と縁のあるところである。

10)次の文は、ある小説家の著作「関が原」の中の文です。この文に登場する生駒山地の中央部にある暗峠を東西に越える街道を暗越奈良街道(現国道308号)といいますが、この街道を暗峠から大阪側に下った付近にこの小説家の記念館があります。この小説家の名前を答えてください。(文中の・・・・・は中略部分)

 花が散って、青葉になった。峠道である。ひとりの伊賀者が、赤埴あかはにの坂をのぼりながら深編笠ふかあみがさの武士のあとを見え隠れにつけている。名を、源蔵。山伏の姿に扮していた。源蔵は徳川家の伊賀同心のひとりで、家康の謀臣本多正信から、「つけて、こまかく報告せよ」と命ぜられていた。・・・・・深編笠のぬしは、初老をとっくに過ぎているくせに、足がはやい。ぶあつい肩と、弾機ばねのような腰をもっていた。石田三成の謀臣島左近である。・・・・・三成の動きは、左近を注視していればいい、と正信はおもい、徳川家の伊賀、甲賀同心のうちから五十人を選りぬいて江戸から上方によびよせ、ほとんどこのことにかかりきらせていた。源蔵は・・・・・ずっと尾行している。左近は、伏見から淀川くだりの船に乗り、大坂についた。・・・・・大坂城の南側にある自分の屋敷の門前を通りすぎてしまい、城の王造口から高井田の宿に出、そこで一泊した。翌早暁そうぎょうに宿を出立した。とっとと東へゆく。目の前に、生駒・葛城のなだらかな連山がみえる。それを越えれば大和の国である・・・・・。峠の名は、暗峠といわれる。雑木の枝が鬱然と道をおおい、緑の洞穴ほらあなをゆくようであった。河内枚岡からのぼり、越えれば、大和盆地がみえるはずである。坂は、けわしい。尾行しながら、源蔵は相手にいささかも気づかれていない自信があった。芸もこまかく淀川くだりの客船のなかでは白衣を着て不動講の女行者になっていたし、大坂に入って河内高井田の宿でとまったときには、膏薬陀羅尼助こうやくだらにすけ売りになり、高井田を出てからは、山伏の姿にもどっている。峠の頂上は、櫟林くぬぎばやしになっており、青葉に午後の陽が映えて、歩いてゆく源蔵の肌があおあおと染まるようであった。尾行は成功している。・・・・・登って曲り角にくると、路上に編笠が落ちている。(おや、左近の笠ではないか)と、拾おうとした・・・・・とき、背後の、それもほんの耳もとで、「手数をかけている」と、低い声がした。あっ、と思ったが、体が動かない。・・・・・「御坊、よい道づれができた。大和へ参られるならば、いっしょに峠をくだろう」「は、はい」源蔵は、編笠を手渡した。・・・・・眼下に大和盆地がひらけている。左近は、源蔵に語っている、というふうでなく、ひとり、時勢にむかってうそぶくようにいう。「・・・・・天性陽気な太閤は伊賀甲賀の忍びなどは使わなかった。そのことで太閤は後世まで人々に好かれ、家康殿は、後世まで人柄の暗さを残すだろう」源蔵は、だまってついていく。・・・・・「わしはいま、奈良へゆく。そこで岳父が病気で臥ている。妻がそれを見舞っている。わしは奈良へ行ってちょっと病床を見舞うべく、暗峠を越えているのだが、そのわしに、山伏に変装した家来を尾行させる。なんと暗い男なのか、家康とは。――」・・・・・左近が、奈良の町に入ったのは、夜更けである。・・・・・左近が、翌早暁、奈良を離れ、昼さがりには、北庵法印からかりた馬に乗って例の暗峠を西に越えていた。「供をつけよう」と北庵法印がいってくれたが、かたくことわり、一騎だけで赤土の峠道をかつかつと踏んでゆく。ちょうど峠をのぼりつめようとしているころ、その上の峰で、五人の男が、左近が眼下の道にさしかかってくるのを待っていた。ひとりは、徳川家の伊賀同心源蔵である。他はその仲間で、家康の天下簒奪の密謀の手足になるために江戸から京・伏見に移駐している集団であった。みな、猟師のなりをしていた。鉄砲が三挺さんちょうに半弓が二張ふたはり、それらを手に手にもって、松の下の萱かやのかげにかくれている。・・・・・「来た」と、一人がいった・・・・・。

11)下の文は、生駒ゆかりの皇子おうじ・みこについて述べたものです。文中の(  )に入る人名を次から選んでください。なお、人名は生まれた順に記載しています。

  田村皇子たむらのおうじ  古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ  大海人皇子おおあまのおうじ  有間皇子ありまのみこ  大友皇子おおとものおうじ  高市皇子たけちのみこ  草壁皇子くさかべのみこ  大津皇子おおつのみこ

 (  )は、640年、軽皇子かるのみこの子として生れた。6457月の乙巳の変いつしのへんの2日後、軽皇子は、姉である皇極天皇の日本史上初の譲位により即位して孝徳天皇となった。天皇は甥(皇極天皇の子)の中大兄皇子なかのおおえのおうじを皇太子にし、大化の改新と呼ばれる事業を進めたが、晩年、中大兄皇子に離反され、65411月、失意のうちに病死した。翌年の2月、皇極天皇が再び斉明天皇として重祚じゅうそ(一度退位した天皇が再び天皇になること)したが、(  )は、皇位継承にかかる難を避けるため市経いちぶ(現生駒市壱分町)の地に閑居かんきょし、父の事業を継承する計画を立て、それを実行する機会を待った。しかし、中大兄皇子の謀略にはめられて、その腹心である蘇我赤兄そがのあかえに計画の相談をしてしまい、その6日後、皇子は紀伊国藤白坂ふじしろのさか(現和歌山県海南市藤白)で絞首刑に処された(65812月)。

 このような謀略と悲劇を「日本書紀」は述べていますが、「ある本によると」と前置きして、次のことを記すことも忘れていません。

 (  )が「水軍(=武力)を使えば、計画の実現は成り易い」と述べたところ、ある人が諫めて「よくないことです。計画はそれとしても徳がありません。皇子は今十九歳です。まだ成人もしていません。成人されてから徳をつけるべきです」といった。

 (  )が処刑されて3年後の6618月に斉明天皇が死去すると中大兄皇子は称制(次代の天皇となる者が即位せずに政務を執ること)し、66310月、大規模な水軍を朝鮮半島に進攻させ、大敗を喫し、おびただしい犠牲者を出しました(白村江の戦い)。

 聡明な(  )の計画が成就して徳のある天皇が即位していれば、中大兄皇子(6682月に天智天皇として即位)の武力にたよるという愚策(=戦争)によって沢山の人々が犬死することはなかったのです。

 なお、中大兄皇子と共に朝鮮半島進攻を準備し、前線基地のある筑紫にきていた斉明天皇が朝倉宮あさくらのみや(現福岡県朝倉市にあった邸宅)で急死した(日本書紀は死因を明らかにしていませんが、筑紫君磐井の残党に討たれ、邸宅も焼かれたとの説があります)とき、「朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。」との、武力行使を肯定する(=徳のない)者へ批判的な視点を日本書紀は、ここでも記しています。

 <お断り:(  )が排除されたのは、蘇我赤兄の単独謀略説もありますが、中大兄皇子の謀略説の方が正しいとの判断の上に立って問題文を作成いたしました。>

12)次の文は、生駒ゆかりの公慶上人の偉業について述べたものです。(  )に入る人物名をお答えください。

 鷹山氏の末裔である公慶上人は、3歳のときに、1648(慶安元)年に生まれた丹後から父とともに、奈良の興福院にある縁故をたどって奈良に戻り水門町に居を定め、13歳のとき東大寺に入り、公慶と称しました。成長し、鷹山氏も参陣した東大寺大仏殿の戦いによって焼き落ちた大仏・大仏殿を再興することを決意し、1684(貞享元)年、幕府に大仏修復を願い出ましたが、幕府は協力を拒否、そこで、幕府の許可を得て、全国での勧進(寄付募集)を開始し、翌年、修復に着手、その翌年には、父祖の故地の高山(現生駒市高山町)にある鷹山氏の菩提寺であった法楽寺で大仏修復成就の祈願をしました(「立願状」が同寺に残っています)。

 そんな中、元禄2(1689)12 月、漂泊の俳人( ➀ )が東大寺を訪れ、このときの大仏の様子を俳句に詠みました。初雪やいつ大仏の柱立て〜初雪が痛々しい大仏様の頭にかかっている。大仏殿の再建はいつ実現することだろう〜(柱立ては、建築の際、最初の柱を立てること)

 ( ➀ )が心配する中、着々と大仏の修復が進められ、ついに修復が完了、元禄5(1692)年、大仏開眼供養が盛大に営まれました(38日から48日まで1カ月間。12800人の僧が参列。期間中、30万を超える人々が奈良を訪れ、奈良全体が未曾有の賑わいをみせました)。

 次は、大仏殿の再建です。ここに至って、上人の功が認められ、第5代将軍( A )とその母桂昌院けいしょういんからの支援を受けることがかない、ようやく宝永2(1705)313日、大仏殿の屋根を支える大虹梁だいこうりょう(虹のように中央を反り上げた梁)が柱上に据えられるという最も重要な工事までこぎつけ、翌月の410日、大仏殿上棟式じょうとうしきが執り行われました。

 しかし、上人は、大仏殿の再建が事実上幕府の事業となったにもかかわらず、民衆と大仏との“結縁”の機会を広めるため日々勧進して再建成就まで横になって寝ないとするなどの無理がたたって、同年712日、58歳で幕府に感謝の意を伝え病を得た綱吉の母を見舞うために来ていた江戸で客死し、東大寺に運ばれ、その近在に埋葬されました。

 上人の死を弔うべく事業は進められ、ついに宝永5(1708)年、大仏殿の再建はなり、翌年の宝永6(1709)年、落慶法要が大規模に執り行われました(321日から18日間。期間中、18万もの人々が奈良を訪れました)。

 東大寺の公慶堂に上人の座像が安置されていますが、その両目は赤く彩られています。生前「大仏殿が再建されるまでは横になって眠らない」と誓ったためだと伝えられています。<「生駒の歴史と文化」より引用>

 思えば、生駒ゆかりの人物(行基)が心血を注いで建立した東大寺の大仏・大仏殿を、生駒ゆかりの人々(鷹山氏)が崩壊せしめ、そして、生駒ゆかりの人物(鷹山氏の末裔たる公慶上人)が、生涯をかけて再興し、先祖の誤りの大きな傷あとを命と引き換えに回復したのでした。また、奈良を「世界の奈良(日本全国からはもちろん、世界各地からも人々を呼び寄せる奈良)」たらしめているのは東大寺の大仏・大仏殿です。文字通りの命を懸けた上人の行動がなければ、今の奈良はなかったのです。また、今日の日本のアイデンティティーを形成しているのは富士山と東大寺の大仏です(と言っても許されるでしょう)。それを思うと艱難辛苦を乗り越えて偉業を達成した公慶上人への感謝の念が沸き起こってくるのを止めることができません。

13)下の文は、生駒ゆかりの王おうについて述べたものです。文中の(  )に入る人名を次から選んでください。

   山背大兄王やましろのおおえのおう  弓削王ゆげおう  高坂王たかさかおう  長屋王ながやおう  美努王みのおう

 (  )は、31代天皇用明の子で33代天皇推古の摂政たる聖徳太子の子として生れた(生年不明)。64111月に34代天皇舒明が亡くなると、その皇后が6422月、35代天皇皇極として即位した。大臣おおおみ(天皇を補佐して執政)の蘇我入鹿は、舒明天皇と蘇我馬子(入鹿の祖父)の娘の子(入鹿の従兄弟)の古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこを次期(36代)天皇にするためには(  )を排除する必要があると考え、642年12月、その住まいである斑鳩宮いかるがのみや(現法隆寺東院の所在地にあった邸宅)に派兵した。(  )は、側近者が一人当千いちにんとうせん(一人で千人を相手にするぐらい強いこと)の防戦をする隙に、一族を連れて脱出し、生駒山に隠れた(「生駒市誌」は、般若窟(ミラー)近傍の生駒山中としている)。入鹿軍は生駒山を捜索したが見つけ出すことはできなかった。4、5日ののち(  )たちは、密かに山から出て斑鳩寺斑鳩宮に接して建立されていた/現法隆寺)に戻り、兵が寺を包囲する中、(  )は戦うことなく一族諸共に自決した。おりから大空に五色の幡はたや絹笠きにがさが現われ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった。仰ぎみた多くの人々が嘆き、入鹿に指し示した。すると、その幡や絹笠は、黒い雲に変わった。

 このような皇位継承争いによる悲劇を「日本書紀」は述べていますが、次のことを記すことも忘れていません。

 生駒山中に隠れているとき、側近が進み出て、「どうか深草ふかくさ(現京都市伏見区深草)屯倉みやけに行って、ここから馬に乗り東国に赴き、上宮かみつみや(聖徳太子の家系の通称)乳部みぶ・みぶべの民をもとに、軍をおこし引き返して戦いましょう。そうすれば勝つこともむつかしくはないでしょう」とお勧めした。(  )は答えて、「お前の言うようにしたら勝てるだろう。しかし自分は十年間、人民を労役に使うまいと心にきめている。自分の一身上のことがもとで、どうして万民に苦労をかけることができようか。また人民が私についたために、戦いで自分の父母をなくしたと、後世のちのよの人に言われたくない。戦って勝ったからといって丈夫ますらおと言えようか。おのが身を捨てて国を固められたら、また丈夫と言えるのではなかろうか」といわれた。

 また、兵が斑鳩寺を包囲しているとき、(  )は側近を通じて兵を率いる将軍らにつげさせ、「自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つを入鹿にくれてやろう。」といわれた。

 実力(=武力)によって(  )を倒した入鹿は、その1年半後の6457月の乙巳の変いつしのへん中大兄皇子に実力(=暗殺)で倒されます。その中大兄皇子(6682月に38代天皇天智として即位)は更に645年9月に古人大兄皇子を謀殺し、入鹿暗殺の加担者でありながら邪魔になった蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかわまろ649年に殺害した、672年1月に大海人皇子おおあまのおうじ側に暗殺されたとの説があり、子の大友皇子おおとものおうじも、即位の儀式を挙げることが出来ない(そのため1870年になってからやっと明治政府によって39代天皇弘文として歴代天皇に列せられた)まま6728月に大海人皇子(6733月に40代天皇天武として即位)に実力(=武力)で倒されました(壬申の乱)。その天武天皇は、おのれの死が、自らがおこなった壬申の乱のような「実力(暴力)」=「武力・暗殺・謀略死等何らかの強制力」による皇位継承争いが再現されるのを心配をしながら68610月に死去しましたが、やはり、その3人の皇子みこ(父は同じだが母はいずれも異なる/第1子高市皇子・2子草壁皇子・3子大津皇子)はすべて、実力を行使されての死、または、その疑いがある状態での死を余儀なくされ(天武天皇の3人の皇子ご参照)、次いで、高市皇子の子は軍を差し向けられて自害に追い込まれました。

 実力(=暴力)を用いてことを運ぶことを拒否する精神(非戦・避戦の精神)を持つ(  )が即位していたら、その後の暴力の連鎖はなかったのです。

 <お断り:(  )にかかる事項については諸説あるものもありますが、日本書紀の記載に従って問題文を作成いたしました。>


  解答・解説

2017年02月18日

<問23>短編小説「犬と笛」

      短編小説「犬と笛」のあらすじは下記の通りです。

   生駒山も舞台とし、生駒の山の女神である駒姫も登場する

        この物語の作者の名前を答えてください。


             出立編<葛城三神>

 昔、大和やまとの国葛城山かつらぎやまの麓ふもとに、髪長彦かみながひこという若い木樵きこりが住んでいました。

 ある日、髪長彦はいつもの通り、とある大木の根で笛を吹いていると、足一つの神があらわれ、いつも笛の音を楽しませてもらっている礼に願い事をなんでもかなえてやろうといいました。そこで、髪長彦は「私は犬が好きですから犬を一匹下さい。」と答えました。そんな髪長彦の無欲なこころを気に入った神は、森の奥から嗅覚の優れた白犬「嗅げ」を呼んで与えました

 あくる日、髪長彦は今度は、手一つの神から、その背中に乗れば空を飛べる黒犬「飛べ」をもらいました。

 そのあくる日は、髪長彦は、目一つの神から、鬼神おにがみでも噛み殺せる斑犬ぶちいぬの「噛め」をもらいました。

 目一つの神は、三人の神からもらった犬たちは髪長彦が笛を吹けば吹いたところに来ると伝えました。

 それから数日後、葛城山の麓の路みちを髪長彦が歩いていると、侍さむらい二人に出逢い、飛鳥の大臣様おおおみさまの御姫様姉妹が行方不明だと知らされました。

            試練と勝利編T<生駒山>

 髪長彦は「嗅げ」に御姫様達の行方を嗅ぎ出すよう命じたところ、姉の御姫様は生駒山の洞穴ほらあなに住む食蜃人しょくしんじんのとりこになっているとわかりました。

 食蜃人と云うのは、昔八岐やまたの大蛇おろちを飼っていた、途方もない悪者なのです。

 そこで髪長彦はすぐ「嗅げ」と「噛め」とを、両方の側わきにかかえたまま、「飛べ」の背中に跨またがって、大きな声でこう云いつけました。「飛べ。飛べ。生駒山の洞穴に住んでいる食蜃人の所へ飛んで行け。」

 その言ことばが終らない中うちです。恐しいつむじ風が、髪長彦の足の下から吹き起ったと思いますと、まるで一ひらの木葉このはのように、見る見る「飛べ」は空へ舞い上って、青雲あおぐもの向うにかくれている、遠い生駒山の峰の方へ、真一文字に飛び始めました。

 やがて髪長彦が生駒山へ来て見ますと、山の中程なかほどに大きな洞穴が一つあって、その中に金の櫛くしをさした、綺麗きれいな御姫様が一人、しくしく泣いていらっしゃいました。

 「御姫様、御姫様、私がお迎えにまいりましたから、もう御心配には及びません。さあ、早く、御父様おとうさまの所へお帰りになる御仕度をなすって下さいまし。」

 こう髪長彦が云いますと、三匹の犬も御姫様の裾すそや袖そでをくわえながら、「さあ早く、お仕度をなすって下さいまし。わん、わん、わん、」と吠えました。

 しかし御姫様は、まだ眼に涙をためながら、洞穴の奥の方をそっと指さして御見せになって、「それでもあすこには、私をさらって来た食蜃人が、さっきからお酒に酔って寝ています。あれが目をさましたら、すぐに追いかけて来るでしょう。そうすると、あなたも私も、命をとられてしまうのにちがいありません。」とおっしゃいました。

 髪長彦はにっこりほほ笑んで、「高たかの知れた食蜃人なぞを、何でこの私が怖こわがりましょう。その証拠には、今ここで、訳わけなく私が退治してご覧に入れます。」と云いながら、「噛め」の背中を一つたたいて、「噛め。噛め。この洞穴の奥にいる食蜃人を一噛みに噛み殺せ。」と、勇ましい声でいいつけました。

 すると「噛め」はすぐ牙きばをむき出して、雷かみなりのように唸うなりながら、まっしぐらに洞穴の中へとびこみましたが、たちまちの中うちにまだ血だらけな食蜃人の首をくわえたまま、尾をふって外へ出て来ました。

 ところが不思議な事には、それと同時に、雲で埋うずまっている谷底から、一陣の風がまき起りますと、その風の中に何かいて、「髪長彦さん。ありがとう。このご恩は忘れません。私は食蜃人にいじめられていた、生駒山の駒姫こまひめです。」と、やさしい声でいいました。

 しかし姉の御姫様は、命拾いをなすった嬉しさに、この声も聞えないようなご容子ようすでしたが、やがて髪長彦の方を向いて、心配そうに仰有おっしゃいますには、「私はあなたのおかげで命拾いをしましたが、妹は今時分どこでどんな目に逢って居りましょう。」

            試練と勝利編U<笠置山>

 髪長彦はこれを聞くと、今度は妹の御姫様についても「嗅げ」に命じたところ、妹の御姫様は笠置山の洞穴に住む土蜘蛛つちぐもの虜になっているとわかったので、「飛べ」に乗って笠置山へ飛びました。

 そこで、一旦は土蜘蛛を降伏させましたが、隙すきを見て土蜘蛛は、二人の姫、三匹の犬、髪長彦を洞穴に閉じ込めてしまいました。だが、土蜘蛛は油断して、髪長彦の笛の美しい音色に魅入られて洞穴をふさいでいた大岩を開けてしまい。「噛め」に噛み殺されてしまいました。

 所がまた不思議な事には、それと同時に谷底から、一陣の風が吹き起って、「髪長彦さん。ありがとう。このご恩は忘れません。私は土蜘蛛にいじめられていた、笠置山かさぎやまの笠姫かさひめです。」とやさしい声が聞えました。

             帰還編<飛鳥の都>

 さて、髪長彦が、「飛べ」に乗って飛鳥の大臣様の下へ御姫様達をお連れする途中、御姫様達を探していた侍二人を見かけたので、髪長彦は地上に降りて自分の手柄を話しました。すると侍二人は嫉妬して、髪長彦が油断した隙に大事な笛を奪い、三匹の犬と御姫様達も奪い、「飛べ」に乗って大臣様のいる都へ飛んで行ってしまいました。

 髪長彦が途方に暮れておいおい泣いておりますと、生駒山の峰の方から、さっと風が吹いて来たと思いますと、その風の中に声がして、「髪長彦さん。髪長彦さん。私は生駒山の駒姫です。」と、やさしい囁ささやきが聞えました。それと同時にまた笠置山の方からも、さっと風が渡るや否や、やはりその風の中にも声があって、「髪長彦さん。髪長彦さん。私は笠置山の笠姫です。」と、これもやさしく囁きました。そうしてその声が一つになって、「これからすぐに私たちは、あの侍たちの後あとを追って、笛をとり返して上げますから、少しも御心配なさいますな。」と云うか云わない中うちに、風は唸りながら、さっき「飛べ」の飛んで行った方へ行ってしまいました。が、少したつとその風は戻ってきて、あの大事な笛を始め、金の鎧よろいだの、銀の兜かぶとだの、孔雀くじゃくの羽の矢だの、香木こうぼくの弓だの、立派な大将の装いが、まるで雨か霰あられのように、眩まぶしく日に輝きながら、ばらばら髪長彦の眼の前へ降って来ました。髪長彦はそれらを装備し、笛を吹いて呼び戻した「飛べ」に乗って飛鳥に向かい、大臣様のもとへ空から舞い降り、御姫様達を助けたのは自分で、二人の侍が自分の手柄を奪ったと告げると、侍は反論しました。しかし御姫様達の証言で侍は白状し、言い逃れができなくなった侍たちは三匹の犬に追われて御館おやかたの外へ逃げて行きました。

                エピローグ

 そののち、髪長彦は大臣様の御婿様おむこさまとなりました。ただ、どちらの御姫様が、髪長彦の御嫁さんになりましたか、それだけは何分昔の事で、今でははっきりとわかっておりません。


 <1918(大正7)年12月作/翌年1・2月、児童雑誌「赤い鳥」に発表>


 お断り : 〇〇編<〇〇>やエピローグという途中表題は、問題作成者があらすじをわかりやすくするために付けたものです。また、生駒山を舞台とし駒姫が登場する「試練と勝利編T<生駒山>」については、原文をほぼそのまま引用しております。



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2017年02月07日

<問22>小説「ペンギン・ハイウェイ」

 「ペンギン・ハイウェイ」の作者は、自身の作品を次のように述べています。

 〜「ペンギン・ハイウェイ」は、わかりやすくいえば、郊外住宅地を舞台にして未知との遭遇を描こうとした小説です。スタニスワフ・レム「ソラリス」がたいへん好きなので、あの小説が美しく構築していたように、人間が理解できる領域と、人間に理解できない領域の境界線を描いてみようと思いました。郊外に生きる少年が全力を尽くして世界の果てに到達しようとする物語です。自分が幼かった頃に考えていた根源的な疑問や、欲望や夢を一つ残らず詰め込みました。〜

 この作品の舞台は、作者が育った生駒市北部のまちがモデルになっています。作者はこのまちをみずみずしい少年少女の感性をはぐくむところとして描いています。では、この作者とは誰でしょう。なお、そのペンネームは、本名の姓に、生駒の神話の主人公の名前を合わせたものとのことです。


2016年06月21日

<問21>生駒伝承

 下の文の〇に入る語句を次から選んでください。

    鳩ハト  烏カラス  鶏ニワトリ  雀スズメ


 生駒には、大要、次のような「(三韓征伐に向かう途上で生駒に宿営した)神功皇后と〇」の伝承があります。


 神功じんぐう皇后が三韓(古代の朝鮮半島)征伐に向かって暗越くらがりごえ街道を進軍する途上、生駒山地の中央部にある暗峠の麓に宿営した。皇后は〇に明朝鳴いて出発の時を知らせるようにと厳命した。しかし、いつまでたっても〇は鳴かなかった。そのため皇后は出発できなかった。大変怒った皇后は〇を龍田川に捨ててしまった。しかし、下流のほとりの龍田大明神は、神の使いでありながら流されている〇を救い上げた。それより、〇は龍田神社にて人々の清めを司っている。そして、毎年元旦には神社の裏山から金の〇の吉兆の鳴き声が聞こえるという。 (皇后の宿泊地には諸説あり、また、〇は早く鳴きすぎた、遅く鳴きすぎた、との説もあるなど、この伝承にはいくつかのバリエーションがありますが、上記のように統一しました。)


 伝承は、何らかの事実が元になっていますが、事実をそのまま述べているのではないので真意はわかりにくくなっています。

 さて、太古の昔より、〇は闇を払って暁を告げるありがたい鳥として大切にされてきました。そのため、古事記<上巻 天照大御神と須佐之男命 三 天石屋戸>日本書紀<巻第一 神代上 天の岩屋>は、常世とこよの長鳴鳥ながなきどり(「常世=永遠の世界」から来た、声を長く引いて鳴く鳥)である〇を鳴かせることで、天あまの岩戸いわと(岩屋いわや)に入って隠れてしまった天照大神あまてらすおおみかみ(=太陽)を岩戸から出す事に成功して世界から闇を払った話を記し、それ以来、〇は神の使いとされてきました(伊勢神宮や石上いそのかみ神宮などでは今でも〇は神の使いとして放し飼いにされています)。それを踏まえると、「(神の使いたる)〇が鳴いて征伐出発の時を知らせることをしなかった」との「神功皇后と〇」の伝承は、征伐否定こそが神意であったことを今に伝える伝承であるといえます。

 古事記<中巻 仲哀天皇 二 神功皇后の神がかりと神託>日本書紀<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>にも実は、神功皇后の行為を否定する、大要、次のような話が記されています。


 神功皇后が神がかりして神託を受けて、「西の方に、金や銀など宝物がたくさんある国がある。私は、その国を服属させてあげようと思う」と仰せになった。ところが仲哀ちゅうあい天皇がこれに答えて、「高い所に登って西の方を見ると、国土は見えないで、ただ大海があるだけだ」と申された。すると神がひどくお怒りになり、まもなく天皇は急死された。


 皇后の行為を神が否定する「神功皇后と〇」の伝承と神が皇后に託した行為を天皇が否定する「仲哀天皇急死」の記紀説話は、古代日本において、皇后の意に沿わなかった神の使いが川に捨てられる、神託に異を唱えた天皇が急死に追い込まれるという話として残さざるを得ないほどの、戦いに反対する激しい動きがあったことを今に伝えています。

 また、「神功皇后と〇」の生駒伝承の真意は、長髄彦が堕落しないよう彼が神武天皇と戦う(殺戮する=命あるものを食べるため以外の目的で殺す)のを金の鵄(鳥)が止めたという生駒の神話(<問1>神話の里ご参照)のそれと符合しています。


 「神功皇后と〇」の伝承は戦い忌避伝承、生駒神話は戦い忌避神話といえます。生駒で生まれ受け継がれてきたかかる伝承や神話は、世界に向けて平和のメッセージを静かに発しています。



2016年04月15日

<問20> 生駒の川は神話や伝説、伝承に彩られている

 下の文のAにあてはまる語句(漢字2字)は何でしょう。

16 山地丘陵地図〇.jpg

 上の≪生駒市〜奈良市中西部の地形概念図≫(クリックで拡大できます)で示されているように、生駒市内を源とする川は4つあります。山田川、天野川、富雄川、A川で、いずれも神話や伝説、伝承に彩られています。

 山田川の源流域には昔は鹿がたくさん生息しており、そこに成立した集落は鹿畑しかはたと呼ばれるようになりました。その鹿畑の最も見晴しのよい場所に素盞嗚すさのお神社が鎮座しています。この神社の祭神は本殿に祀まつられている素盞嗚命すさのおのみことで、摂社(祭神と縁の深い神を祀った社やしろには素盞嗚命の子孫たる大国主命おおくにぬしのみことが祀られ、摂社に次ぐ格式の末社には天照大神、八幡神やわ(は)たのかみ/はちまんしん、春日明神かすがみょうじん(春日大社から迎えた神)などの諸神が祀られています。この神社に残された記録では、この地の鹿が、鹿を神使とする春日大社に奉納されたことが記されています。奈良では、春日大社を含む奈良公園とその隣接市街地という都市部で野生の動物(鹿)と人間とが共存しています。それは世界的にも稀有なことで、都市部で人間と共存する野生の鹿は奈良のシンボルとなっていますが、そのルーツは山田川源流域にあると伝えられています。

 天野川の名は、古代に流域が甘くおいしい米が実る肥沃な野という意味で甘野あまのと呼ばれていたことに由来して甘野川とされていたのが、いつしか天野川(天の川)と呼ばれるようになったと伝えられています。天野川は、白く輝く川砂と澄んだ流れが夜空の天の川を思わせることから、何時しか流域では七夕伝説が生まれたことは良く知られている通りであり、また、住吉神社にあった星の森の泉から流れ出す水が天の(野)川となったという言い伝えもあり、天空のロマンを感じさせる川です。また、かつて天野川上流の田原の里は桃源郷のごとくであったことは<問18>生駒に「桃源郷」があった!で述べられている通りです。

 富雄川とみおがわは、昔、トミ(富・鳥見・登美・登弥・等彌・迹見などいろんな字が充てられてきました/鵄トビから変化したともいわれています)と呼ばれた地域を流れたので「とみがわ(富河・鳥見川)/とみおがわ(鳥見小河・富小川)/とみのおがわ(登美の小河・富の小川)」と呼ばれていたのが、いつしか富雄川と呼ばれるようになりました。日本書紀では、長髄彦ながすねひこが内つ国うちつくに(生駒山地の東側)をわが国といっており、古事記は、長髄彦のことを登美那賀須泥毘古とみのながすねひこ・登美毘古とみひこと表記していることから、生駒神話の主人公である登美彦(長髄彦)の本拠地は富雄川流域のトミ地域(現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域)とされています。

 A川は、生駒山地北東麓を源とし、A姫伝承を生みました。A姫はA川流域の山の神霊が秋の草木を染め抜く女神としての神格を持ったものです。A姫は、奈良市中西部を流れる佐保川流域の山の神霊が春の野山を彩る女神としての神格を持った佐保姫と東西・春秋の一対の女神とされています。

 西之京丘陵と佐保・佐紀丘陵〜笠置山地の間を流れるのが佐保川、生駒山地と矢田丘陵の間(生駒谷)を流れるのがA川、両川を取り持つように西之京丘陵と矢田丘陵の間(鳥見とみ谷)を流れるのが富雄川です。「彦」は元は「日(太陽の)子」(ひこ)といい、すぐれた男子の意です。また、「姫」は元は「日(太陽の)女」(ひめ)といい、すぐれた女子の意です。記紀を読むかぎり、登美彦は独身です。彼は2人の姫にはさまれたかたちとなっています。

佐保姫.jpg秋ちゃん.jpg

 それはさておき、A姫をモチーフとした秋ちゃん(左の図<出典>/右の図は佐保姫<出典>)がNHKニュースウオッチ9のお天気キャラクターとして登場したことでA姫のことが広く知られるようになりましたが、それではA姫・A川のAにあてはまる語句(漢字2字)をお答えください。





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2016年02月20日

<問19> 仏教芸術(建築・絵画)

 NHKの街歩き番組といえば「ブラタモリ」。15(H27)年7月4日に放映されたのは、第4シリーズの「#11 奈良の宝 〜観光地・奈良はどう守られた?〜<テーマ「文化財の守り方」>」でした。

 この街歩きの中でタモリさんと絶妙のコンビぶりを発揮して人気を急上昇させてきた桑子アナウンサーと共に、今回、タモリさんは、奈良時代に建立された大仏殿と大仏の1300年間のいくたびかの修復・再建の工夫・苦心のあとを探索・探査した後、大仏建立と同時代に聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝えられる、生駒市俵口町にある真言律宗のお寺を訪れました。

 このお寺の本堂は鎌倉時代に建てられた重要文化財で、2012年9月から2016年秋完了の予定で全面解体し組み直す大規模な修理工事が行われています。この修理現場に潜入したタモリさんは、宮大工(何と県庁職員!)に弟子入りし、カンナがけの技を磨き(↓下図<クリックで拡大>)、その腕を認められたタモリさんは、修理を終えた2つの木材の結合部を固定するための込栓こみせんを打ち込ませてもらいました。その込栓はそのまま次の修復までの200〜300年、「タモリが修理した痕跡」として生き続けます。タモリさんいわく「(もう)他人ひとの寺って感じしないよね!」(このお寺の別名を「タモリ寺」にしようという声もあるようです。)

ブラタモリ 入り.jpg

 タモリさんは、今回、重要文化財では初めて導入された、制震ダンパー(地震の揺れを軽減する部品)も見せてもらいました。ボルトを使うために古い木材に穴を開けてしまうことになり、文化財の修理としては異例の手法。これには葛藤があったと、県文化財保存事務所の修理担当者は語りました。その是非の判断は後世(次の修復の200〜300年後)に委ねられることになります。

 こうした、さまざまな努力によって奈良の宝(文化財)は守られてきました。

(1)それでは、タモリさんも奈良の宝を守るために一役かった痕跡が残る生駒市にあるお寺とはどこでしょう。次から選んでください。

     

     長福寺  竹林寺  長弓寺  圓證寺  円福寺


(2)また、このお寺の修理工事中に、極楽浄土に住み美しい仏の声を発するとされる想像上の鳥(鳥の姿をした菩薩ともいえる)が本堂内部の柱に描かれていることが発見され、復元されたのが下の図ですが、この想像上の鳥の名はなんでしょう。次から選んでください。


  鳳凰ほうおう 朱雀すじゃく 迦楼羅天かるらてん 迦陵頻迦かりょうびんが

迦陵頻迦.jpg



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2015年12月24日

<問18> 生駒に「桃源郷」があった!

 江戸時代前期を代表する諸学問の学者であった貝原益軒は紀行家でもあり、その紀行文の1つに「諸州めぐり南遊紀行」があります。この中で、益軒は要約すると次のように記しています。

 元禄2(1689)年、京を出発。山城・河内の国境たる洞ヶ峠を通り、河内の国私市を経て、文字通り天上の天の川のごとく白砂の川原が続く天の川(天野川)を遡り、船形の巨岩が横たわる奇境なる岩船(磐船)に至る。そして、その岩船から続く数百mの山峡を抜けると、大きい谷に広がる里に出た。ここは田原といい、その中央を流れる天の川の東を東田原といい大和の国で、川の西を西田原といい河内の国であるが、この山間の幽谷の中なる田原の里は、あたかも、「桃花源記とうかげんき」で描かれた、両岸に桃の花の林が続く川を遡ってたどり着いた川の源の山の向こうにあった理想郷(桃源郷)のようである。

 このように貝原益軒は、東田原(現生駒市北田原町)と西田原(現四条畷市の下田原)はあたかも桃源郷のようであると賛美していますが、それでは、桃源郷の由来をなす「桃花源記」を著した中国六朝りくちょう時代を代表する文学者はだれでしょう。次から選んでください。


    白居易  杜甫  李白  陶淵明



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2015年10月27日

<問17> 「生駒」の語源・由来

 生駒の語源・由来については次のような諸説があります。

 高原だから「イ(接頭語)・コマ(高原)」。放牧地(牧場)があったから「イ(接頭語)・コマ(駒=馬)」。奥まった小盆地(谷筋)が多いから「イ(接頭語)・クマ(隈)→イコマ」。大和の国の西方の隅(すみ)に位置するから「イリ(入り)・クマ(隅)→イコマ」。分かれ嶺があるから「クマル(分)→イコマ」。生駒への渡来人の国にちなんで「イ(接頭語)・コマ(高句麗)」。生きた駒(馬)のような山容(山の姿)をしているから。山中を駒(馬)が走り回っていたから。

 これらはいずれも、弥生時代にまで遡(さかのぼ)って当時に使用されていた言語で生駒がどのように呼ばれていたかに語源・由来を求めるものですが、生駒にはすでに弥生時代以前の縄文時代に人が住まいしており、この時代にまで遡ったものでないので定説(ある事柄について、その説が正しいと広く認められている説・学説)とは言い難いものです。

 ところで実は、縄文時代に使用されていた言語で生駒がどう呼ばれていたかに生駒の語源・由来を求めた、定説とすべき説があります。それは次のようなものです。

 縄文時代に生駒付近で住まいしていた人々のことを日本書紀は愛瀰詩(えみし)と呼んでいます。これは、三文字とも麗わしい文字を使用している(「瀰」は水の盛なさまの意)ように尊称です。日本書紀は愛瀰詩を「一人で百人に当るほど強いが、戦わない人々」と紹介しています。この愛瀰詩(縄文人)が使用した縄文語の研究によれば、「イコマ」はもともと「イ・コマ」ではなく「イコ・マ」であり、イコ・マの語源を遡れば、イコ・マ→イク・オマ→ユック・オマー(yuk‐oma)となり、ユック・オマーとは、ユックがオマー(そこにいる。)という意味です。ユックとは、当時、生駒山にたくさん生息していたある動物のことです。

 縄文時代、水の豊かな生駒山系一帯の、木の実の豊かな雑木の原始林には狩猟対象の動物が沢山棲息し、縄文人にとって生駒山は四季を通じて獲物の宝庫で、山に分け入って狩りさえすれば山の幸が必ず授かり人々は飢餓におち入らずに済んだという有難い山でした。そこで誰が言うともなく、この山は「ユックがそこにいる」山、すなわち「ユックのオマー(そこにいる)」山→「イク・オマ」の山→「イコ・マ」の山→「イコマ」の山と呼ばれるようになったのです。そしてやがて、イコマには膽駒、射駒、伊駒、伊古麻、伊故麻、生馬、往馬などの漢字が宛てられていきました。

 それでは、縄文時代のイコマ(生駒)の山の代表的な動物で、生駒の語源・由来となった、縄文語でユック(yuk)と呼ばれた動物の現代名は何でしょうか。次より選んでください(なお、それは、縄文語を引き継いでいるとされるアイヌ語の研究の第一人者である知里真志保教授編纂の「地名アイヌ語小辞典」に記載のユック―yuk―の現代日本語訳とします)。


     ウサギ  イノシシ  シカ  キツネ



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2015年09月07日

<問16> 仏教芸術(建築)

 東京の中央部に位置する港区には、3つのホテルとコンベンション施設や貴賓館等が立ち並ぶ広大なプリンスホテル高輪エリアがあります(↓地図<クリックで拡大>)。
ああプリンスホテル高輪エリア 出典あり.jpg
 このエリアの中心は、約2ヘクタールに及ぶ「日本庭園」と呼ばれる大庭園で、そこには、滝を持つ大きな自然池や茶寮さりょう・鐘楼しょうろう・茶室のほか、山門を持つ御堂みどうが配置されています。この御堂は、人々に慈悲をもたらす観世音菩薩かんぜおんぼさつを安置しているので「観音堂」(↓写真<クリックで拡大>)と呼ばれています。

観音堂takanawakannondou55.jpg

 この、日本の自然美・伝統美を現出した「日本庭園」は、国内外から来京する人々や東京という大都会で働き居住する人々の癒しと憩いの場所となっていますが、実は、「日本庭園」の中核をなす「観音堂」は、生駒のある寺院にあった三重塔の初層(一階)部分を移築したものです。

 ある寺院とはどこでしょう。次から選んでください。


     長福寺  竹林寺  長弓寺  圓證寺  円福寺



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2015年06月29日

<問15> 神話の里(その2) 〜「国生み神話」の舞台〜

 日本書紀には、次のような「国生み神話」が記されています。

 男女二神は、8つの洲しまを生んだ。これによって大八洲国おおやしまのくに多くの洲からなる国、または、8つの洲を元とする国の意で、日本の異称)という名が起こった。次に海を生んだ。次に川を生んだ。次に山を生んだ。

 この神話は、次のような、人は洲から内陸に向かうという、この神話をつくった人々の国土観を伝えています。

 すなわち、縄文時代の末から海の向こうより船に乗ってやって来た人々は、まず8つの洲しまに住み着いた。次に、その周辺の海を、更には遠くの海を自分たちのものにしながら各地の海辺に活動拠点を設け、そこより山麓・山中の川を遡り、その沿岸沿いに居住・農耕などの活動範囲を拡大していった。このようにして、後に日本と呼ばれる国土が形成された。なお、当初、新しく日本にやって来た人々が居住・活動できる場所としては海辺や川沿いの段丘はありましたが、のちの平野部分はほとんど海水で覆われていました。つまり、日本列島は島と海辺と川と山だけだったので、「国生み神話」には平野(平地)を生んだという表現はありません。なお、魏志倭人伝に「倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島さんとうに依りて国邑くにむらをなす」となっているように、卑弥呼の時代(弥生時代後半)になっても、「山島」(山が海ぎわまで迫っていて平地に乏しい地形)と呼ばれる地形が日本の地形でした。

 ところで、大八洲国という名の起こりの8つの洲とはどこでしょう。日本書紀本文では、淡路洲あわじしま(現淡路島)、億岐洲おきのしま(現隠岐島)と佐度洲さどのしま(現佐渡島)という双子の島、大洲おおのしま(現周防大島/洲を「クニ」と読んで大洲おおクニ=大国=出雲、とする説もあり)、吉備子洲きびのこしま(古代は島だった現児島半島)の4洲(双子の島は1洲として)と、豊秋津洲とよあきつしま(本州、または本州にあった洲)、伊予二名洲いよのふたなしま(四国、または四国にあった洲)、筑紫洲つくしのしま(九州、または九州にあった洲)、越洲こしのしま(越前〜越後にあった洲)の4洲を記しています。うしろの4洲の比定地については、これまでは信頼できる定説がありませんでしたが、豊秋津洲とよあきつしまについては、最近、下に掲載した4つの地図(クリックで拡大できます/各地図の出典は、解答・解説に記載)などに示された古代の畿内きない大和・山城・河内・摂津・和泉)の地形の変化を考慮した結果、豊秋津洲を、海に浮かぶ島から大阪湾に突き出た島状の半島に地形を変化させてきた現生駒市に比定する説が出されています。この説に従えば、まさに生駒は日本国土の根(ネ/根本・基礎)だということになります。

吉本隆明「ハイ・イメージ論」第3図表示付きhighimagetizu.jpg

地図 浮かぶ生駒山地 次期入り.jpg

海面が+60mだった頃の生駒市 年代入り○.jpg

古代の鍵を握る奈良湖53 時代入り〇.jpg

 このように注目される「国生み神話」において、大八洲国の名の起こりの8つの洲しまと海・川・山を生み出した女神とは誰ですか。次から選んでください。


   アマテラス(天照大神あまてらすおおみかみ)  ツクヨミ(月読命つくよみのみこと)  アメノウズメ(天鈿女命あめのうずめのみこと)  イザナミ(伊弉冉尊いざなみのみこと



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2014年07月03日

<問14>歴史が息吹く生駒の古道  

(1)次の文の(   )に入る、頓智トンチで有名な室町時代中期の高僧の名前を答えてください。

 檀家制度が確立する江戸時代に入るまで、交通手段も通信網も限られていたにもかかわらず、お坊さんは広範囲をマメに歩き、信者の家を訪ねたりお葬式をあげたりしていた。そういう宗教者の存在ほど、民衆にとって心強いものはなかった。

 この人物も晩年、南山城の酬恩寺を根拠地に、京都東山や摂津、和泉堺などの間を頻繁に往来した。

 大和の国の北端に位置する高山は、河内・山城の両国との三国の境にあり、古来、交通の要地であった。この人物は、旅の往還に高山の交通の要衝である中村の里を通る街道を月1回は通ったという。そのため、この街道は「(   )さんの通い路かよいじ」と呼ばれている。

(2)次の文の(   )に入る、戦国時代を終わらせた有力武将の名前を答えてください。

 本能寺の変が起こったとき、(   )は、当時滞在していた摂津・和泉の国境に位置する堺から河内の国飯盛山西麓を経て、本国三河の国岡崎城に命からがら帰還した。その際にたどった、伊賀の山中を越えたので伊賀越えと呼ばれる逃走経路には諸説あるが、三国境みくにさかいを越える天王道てんのうどうを走り抜けたとの説も有力である。三国境とは、大和の国 ・ 河内の国 ・ 山城の国の三国の境をいい、現在の奈良県(生駒市高山町傍示ほうじ) ・ 大阪府(枚方市穂谷ほたん) ・ 京都府(京田辺市天王てんのう)の3県境である。(   )がこの経路を利用したとすれば、その逃走経路は、「三国境・伊賀越え」と呼べる。(なお、三国境の位置は地理院地図とGoogle マップとでは異なっているなど、三国境は謎(疑問)のある場所となっています。)

(3)下の文の(   )に入る語句を次から選んでください。

   奇兵隊 天狗党 天誅組(天忠組) 赤報隊

 幕末の文久3(1863)年8月17日、尊皇攘夷派の武装集団である(  )は、大和の国の幕府天領の五条の代官所を攻撃し、五条を天朝直轄地とする旨を宣言した。これは、幕府に対する尊攘派の初めての武力蜂起という画期的なものであり、幕府の威光を更に失墜させた。しかし、時期悪く、翌日に八月十八日の政変が起きて、(  )は一夜にして「逆賊」となり、尊攘派は京都より一掃されて政治的影響力を失う中、間もなく反乱は鎮圧され、兵士たちは敗走した。(  )の記録方であった国学者で歌人の伴林光平ともばやしみつひらは法隆寺から磐船街道を大坂へ逃亡中、9月25日、大和の国北田原村(現生駒市北田原町)北佐越(この地図ご参照)の一軒茶屋(現在の新茶屋付近)で捕えられ、翌年2月、京都で斬首処刑された。「雲を踏み 嵐を攀じて御熊野の 果て無し山の果も見しかな」(伴林光平 獄中にて詠めり)

(4)次の文の(  )に入る適語を答えてください。

 1868(慶応4)年、1年4か月に及ぶ戊辰戦争の初戦となる(  )の戦いが勃発した。この戦いは4日間で終わり、負けた幕府軍の一部は南下し、高山の伊勢街道と清水道(鹿畑の伊勢街道)生駒北部の古道ご参照>を敗走、仏坂を経て奈良へ、そこより伊勢に至り、そこから海路江戸に向かった。



2014年03月16日

<問13> 歴史を見つめてきた暗峠(くらがりとうげ)   

 暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)は、難波と大和を結ぶ古代からの街道で、その最高所にある暗峠(標高455m)は交通の要衝です。この峠は、生駒山地の中央部に位置します。
08暗峠.jpg

 @1694年10月27日(元禄7年9月9日)に、奈良から大坂へ向かう途中この峠を通り、「菊の香に くらがり登る 節句哉かな」という重陽ちょうようの節句(注)にちなんだ句を詠んだ俳人の名前を答えてください。

   (注)重陽の節句は、五節句の一つ。節句は季節の節目ふしめとなる日。五節句とは、1月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日で、それぞれ、七草の節句・桃の節句・菖蒲の節句・七夕の節句・菊の節句という。なお、漢名ではそれぞれ、人日じんじ・上巳じょうし・端午たんご・七夕しちせき・重陽ちょうようという。

 A道鏡が天皇から皇位を譲り受けようとしたとき、@の人物がこの峠を通ったときより925年前の769年(神護景雲元年)に豊前(現福岡県北東部と大分県北西部)宇佐八幡宮に出向いて「皇位は皇族以外の者に譲ってはならない」というのが神託であると確認して、道鏡への譲位に反対し、そのため大隅国(現鹿児島県東部)に流罪とされ、そこに向かう途上でこの峠を通ったとされる人物の名前を答えてください。

  なお、道鏡の命で刺客がこの人物をこの峠で暗殺せんとしたとき、にわかにものすごい雷雨が起こり天地が暗黒になり、その為にこの人物は危難をのがれたといい、その時暗くなったので、ここを暗峠というようになった、との説があります。 

 B@の人物がこの峠を通ったときより約940年前の753年(天平勝宝5年)に、難波津から平城京に向かう途中この峠を越え、のち、唐招提寺を創建した中国渡来の人物の名前を答えてください。

 C@の人物がこの峠を通ったときより約110年前の1585年(天正13年)に、ある人物が大和・紀伊・和泉の3国を治める110万石の郡山城主となり、この峠を越えて郡山城大坂城を往来して豊臣政権を支えました。しかし、1591年(天正19年)に郡山城内で亡くなり、その早すぎる死により最強の支えと英知を失った豊臣政権は、朝鮮出兵を最大とする愚策によって崩壊していきました。もし、もう少し長命を保っていたならば豊臣政権の崩壊はなく、家康に豊臣家を滅ぼされる事も無かったと今だに言われている、この人物の名前を答えてください。

 D@の人物がこの峠を通ったときより約80年前の1615年(慶長20年)の4月26日、大野治房隊は、この峠を越えて大和国へ侵入し、翌27日に郡山城を陥落させました(郡山城の戦い)。この豊臣方の先制攻撃で始まった2回目の豊臣方と幕府方の戦争の名前を答えてください。

 なお、豊臣方と幕府方の戦争といえば、その1回目の開始直前、司馬遼太郎「城塞」によれば、真田幸村が、一隊はこの峠を越えて奈良へ達せしめ、他の一隊は中垣内越えをもって山城の木津を経て奈良に達せしめて、大坂に向かう途中に奈良で宿泊していた家康を急襲して亡き者にせんとする戦策をたてました。これは、変則ながら豊臣方の事実上の総帥に似たかたちとなっていた大野修理が同意しなかったために実現しませんでしたが、もし、これが成功していれば、2回にわたる豊臣方と幕府方の戦争はあるいはなかったかもしれません。

 E@の人物がこの峠を通ったときより約10年後の1705年(宝永2年)に、お蔭参り(おかげまいり)と呼ばれるものが爆発的に流行しました。このとき、一日七万人もの人々が、暗越奈良街道を歩き、途中でこの峠を越えて奈良に至り、更にある場所をめざしました。この場所の名前を答えてください。

 F@の人物がこの峠を通ったときより約95年前の1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いがありました。このとき、敗北した西軍のある将は敵中突破を敢行し、信楽・奈良を経てこの峠を通って堺に至り、そこより海路逃走、鹿児島へたどり着きました。敵軍の総大将の本陣の目の前を横切って逃げ去った前代未聞のこの敗軍の将の名前を答えてください。

 G@の人物がこの峠を通ったときより約160年後の1858年(安政5年)に安政五ヵ国条約が締結され、約200年にわたる鎖国の扉が開かれると、外国人が長崎から海路で神戸へ、上陸して陸路で大坂を経てこの峠を通って奈良に至り、そこより山城の加茂、伊賀・伊勢両国境の加太越かぶとごえを経由、関宿で東海道に入り江戸に向かいました。これらの外国人の中には、長崎から江戸への旅のことを「大君の都」という書物に記したイギリスの駐日公使もいました。この人物の名を次より選んでください。

     ハリス  パークス  オールコック  ロッシュ

 H暗越奈良街道は、多数の渡来人が往来し、古代の外来文化を都にもたらした道です。@の人物がこの峠を通ったときより約960年前の736年(天平8)の5月には、入唐していたインド僧の菩提僊那ぼだいせんな、同じく林邑りんゆう(現ベトナム)僧の仏哲ぶってつ、唐僧の道璿どうせんらが、入唐していた遣唐使による日本への渡来要請に応えて大宰府に来航し、8月に難波津に到着、そこで、僧侶99人と雅楽による壮大な式典を伴った、のちに東大寺の大仏を建立する日本初の大僧正の出迎えを受け、その案内でこの峠を越えて平城京に入り、752(天平勝宝4)年の壮大な大仏開眼供養会では、菩提僊那が開眼の筆を執り聖武上皇に代わって開眼師を、道璿は呪願じゅがん文を読む呪願師を務めました。
 それでは、この日本初の大僧正の名前を答えてください。なお、それは<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人の答と同じ人物です。

 I下の文は、「矢野騒動」について述べたものです。(  )に入る藩名を次より選んでください。

     会津  越前  紀伊  水戸  長州

  @の人物がこの峠を通ったときより約170年後の1868(慶応4)年、戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いがおき、新政府側がこれに勝利してから約半月後に、現生駒市域の旗本松平氏領(平群郡のうち11か村、5、000石)で、矢野騒動とよばれる一揆が起こりました。その呼称は、平群郡辻村の陣屋にあって苛政を行なってきた代官矢野弥平太らが攻撃対象とされたことによるもので、「御一新」が行なわれようとするなか、領民が旧来の陣屋役人による支配を拒否し、惣代が大坂の(  )藩の出張陣屋へ赴き、「(  )様之御下之さまのおしたの百姓]になりたいと願い出たところに、大きな特色がありました。この一揆の主諜者は、平群郡小瀬おぜ村の宮大工与平らで、(  )藩出張陣屋への願書には、「拾壱ヶ村百姓惣代じゅういっかそんひゃくしょうそうだい」として、同村九郎兵衛くろべえ・太郎右衛門たろえもんと平群郡小平尾こびらお村浅助・八郎兵衛はちろべえ・忠七の名前も記されています。彼らは村役人ではなく、一般百姓のなかの有力者であり、この一揆は、彼らの指導のもと、当時困窮に陥っていた「小前百姓こまえびゃくしょう」らを主体勢力として、村役人をも巻きこむ形で展開されたのです。これと関わって注目されるのは、一揆を起こすにあたって村ごとに作成された傘形連判状かさがたれんぱんじょうです。一揆に参加した11か村のうち、7か村(南田原・小明・辻・菜畑・有里・萩原・小瀬)の連判状がこれまでに見つかっていますが、そこには「小明村一同連印」「萩原村一統約定やくじょう連印」などと記されており、「地方じかた役人」(代官・同心・大庄屋おおじょうや・大庄屋目付)をのぞく、各村の全戸主が連判状に名を連ねたものと思われます。歎願をうけた(  )藩の一隊は、大坂から暗峠を越え、1月23日に辻村の陣屋へ到着しました。そして、同陣屋を包囲していた約500人の百姓たちが見守るなか、矢野代官ら陣屋役人の身柄を拘束し大坂へ連行するに至りました。この一揆は、まさに「御一新」が行なわれようとするさなかに起きた、全国的にも注目すべき一揆であり、この一揆を通して、人々の「世直り<引用者:原文のまま>」への期待の大きさと、領主を自ら選びとろうとするたくましさをうかがうことができます。
     <「生駒の歴史と文化」(生駒市教育委員会)より、一部修正して引用>

 J次の文の(  )に入る語句を答えてください。

  ➀の人物がこの峠を越えたときから約980年前、平城京に都が置かれて奈良時代が始まりました。この時代、先進的な技術・政治制度・文化の習得や仏典等の収集を目的に中国に派遣された(  )の一行が、都からこの峠を越えて住吉大社にいたり、そこで航海の安全を祈願してから難波津に行き、そこから大陸に出立しました。全部で19回派遣された(  )のうち、この時代のそれは第9回から第17回でしたが、その使節をはじめとする派遣者のなかには、阿倍仲麻呂吉備真備玄ムなどがいました。

 K➀の人物がこの峠を越えてから約100年後の1798(寛政10)年に完成した「古事記伝」は、暗峠のことを「この道は近いから直越じかごえという」と記しています。この書物を著した国学者の名前を答えてください。

 L➀の人物がこの峠を越えた前々年の1692(元禄5)年に刊行された、浮世草紙「世間胸算用せけんむねさんよう」に、次のような暗峠を舞台とする「数の子追い剥ぎの物語」が記されています。この浮世草紙の作者の名前を答えてください。

  奈良特産の晒布さらしぬのは年中京都の呉服屋へ売られ、奈良の商人は大晦日に上京して集金をするが、その金銀を道中で狙う浪人達もいた。大和の片田舎に隠れ住んでいた素浪人たち四人は、年越しできない貧しさのため、死罪を覚悟で街道筋まで追い剥ぎをするために出掛けたが、やって来る相手は三十貫目、五十貫目という潤沢な金銀を運ぶ大商人ばかりであった。自分たちが今すぐ必要とするはした金ではなかったので怖気おじけづいて、追い剥ぎ行為をせずにあれこれと見比べるだけであった。小心な彼らは、「酒代を出せ」とも言えなかったので、場所を変えて大阪から帰る通行人を暗峠で待ち伏せることにした。そこへ菰包こもつつみを軽そうに担いだ手頃な相手の小男が来たので、彼らは、「重きものを軽く見せたるは、隠し銀にちがいない」と襲いかかり、菰包みを奪い取って逃げ去ろうとした。すると、その小男が後の方から大きな声で、「明日の御用には役に立ちませんよ、役立ちませんよ」と叫んだ。そこで、四人の素浪人が包みを開けてみたところ、何と中身は金銀ではなく数の子であった。<下の図は、「世間胸算用」の挿絵

06世間胸算用.jpg

 M@の人物がこの峠を越えてから約100年後の1792(寛政4)年、ある人物は江戸を出発して、1788年までの足掛け7年、実質6年あまりの長期にわたる西国(九州・中四国・近畿)俳諧修行の旅に出た。この人物は、@の人物、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人であり、西国俳諧修行のさい、1795年と1797〜1788年に大和の国にも立ち寄り、そのとき、次のようなこの峠を題材にした俳句を詠んだ(この句が詠まれた正確な年月やこの人物がこの峠を越えたかどうかは確認されていない)。この俳人の名前を答えてください。

行春の空はくらがり峠かな



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<問12> チャレンジする都市

 国は、目指す社会の姿を具体的に分かりやすく示すために、高い目標を掲げて先駆的な取組にチャレンジする都市をモデル都市として選定し、その実現を支援しています。生駒市が選ばれたことが14(H26)年3月に発表されたのは何モデル都市でしょうか。次から選んでください。


     環境モデル都市  食と農のモデル都市  健康モデル都市  ITモデル都市



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2014年03月12日

<問11> 虹色に輝く「幻の菓子」

 生駒市にある小さな町工場で作られる、虹色に輝くカラフルで透明感のある、人気があるものの入手困難なため「幻の菓子」と呼ばれているものは何ですか。次から選んでください。


     レインボークッキー レインボーチョコ  レインボーキャンデー レインボーラムネ



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<問10> 「男はつらいよ」生駒の巻

 山田洋次監督の人気映画「男はつらいよ」第27作の「浪花の恋の寅次郎」では、生駒山の東稜にある宝山寺が舞台の一つとなっており、そこで寅さんがデートします。そのデートの相手である浜田ふみさんを演じた女優さんは誰でしょう。次から選んでください。


     大原麗子  松坂慶子  吉永小百合  浅丘ルリ子



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<問9> 国際色豊か

 生駒市には、2014(H26)年3月現在で何カ国の外国籍の人々が居住しているでしょうか。次から選んでください。


     約15カ国  約30カ国  約45カ国  約60カ国



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<問8> 芸術の香りあふれる

 2010(H22)年より2015(H27)年まで毎年、生駒市において開催されていた国際的な芸術的催しは何でしょうか。次から選んでください。


     いこま国際演劇祭  いこま国際映画祭  いこま国際音楽祭  いこま国際美術展



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<問7> 「氷河時代の生き証人」

 日本古来の「秋の七草」の1つでありながら、いまや「絶滅危惧種」となっている植物が、「平成19・20年度 生駒市自然環境調査報告」に高山町や北・南田原町での確認種として記され、また、「大和都市計画事業高山土地区画整理事業(学研高山第2工区宅地造成事業)」の環境影響評価書(平成12年8月)」に「事業予定地内で確認された貴重な植物種(絶滅危惧種)」と記されています。この「氷河時代の生き証人」と呼ばれる植物の名前は何でしょうか。



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<問6> 息づく野生動物

 「平成19・20年度 生駒市自然環境調査報告」に生駒山や矢田丘陵での確認種として記され、高山第2工区でも目撃されている動物を次から選んでください。

     

     ムササビ  ニホンリス  オオワシ  ニホンジカ



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<問5> 不思議な「旅する蝶」

 毎年、秋には本州の高原地域から九州や沖縄・八重山諸島まで、春から初夏にかけては南から北上して本州の高原地域まで、片道何百kmも飛んでいき、途中、生駒山の山中や山麓に立ち寄り休息する美しく不思議な「旅する蝶」といわれる蝶の名前は何ですか。



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<問4> 自然が生んだ伝統工芸 

 下記の文は、「高山の茶筌ちゃせん作りの由来」と「茶筌がなぜあのようなかたちをしているのか」について述べたものです。(   )に入る人物名を答えてください。なお、太字部分は「茶筌がなぜあのようなかたちをしているのか」について述べた部分です。

 生駒市高山町は、古くは鷹山郷と呼ばれた。言い伝えによると、室町時代中期、鷹山城主頼栄よりさかの次男である宗砌そうせつが、親交のあった茶道の祖である(   )のために茶筌を考案したという。高山は今でも鷹が多い。万葉人の狩猟の地でもあった。鷹が空を飛び風を切る。その時、風切羽が風の強さをやわらげる。その様を竹に写す。宗砌の試みは見事に成功した。後土御門ごつちみかど天皇に献上された茶筌は、羽毛のように優雅で穂先はしなやかで柔らかいと驚嘆され、『高穂』の銘を賜った。帝の銘名にちなんで鷹山は高山と改められたという。これが高山の里に茶筌作りが起こったいわれである。今日でも作業はすべて手作業である。宗砌以来、五〇〇年その工程は基本的には何ら変わらず受け継がれている。



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<問3> 生駒を愛し今も生駒に眠る偉人  

 下記の文は、白鳳〜奈良時代に活躍した生駒ゆかりの人物について述べたものです。その人物名をお答えください。


 彼の偉大な業績は、何といっても、仏教を民衆のものにしたことである。仏教の根本の教えは、「慈(喜びや楽しみを与える)悲(悲しみや苦しみを取り除く)の実践(悲しみ・苦しみと喜び・楽しみの共有)による縁起の法(すべてのものは互いに支え合っている)の自覚による苦悩の超克」である。それまでの仏寺といえば、貴族や天皇家の私物であって、そのあり方自体が仏教の教えに反するものであった。仏教伝来ののち、まず蘇我氏が仏寺を建立し、仏を祀る権利を得た。そののち、天皇家や諸豪族が、寺を建立していった。ただし、民衆には、信仰は浸透せず、仏教は貴族等の独占物であった。そして、僧侶は国家の庇護を受けて生活し、寺院に閉じこもって祈りと勉学の日々を送ることを強いられ、社会に出て活動することは規制されていた。これに対し彼は、愛する母を失って悲しみの底に落とされたのち、規制をはね除けて社会に出て、多くの人たちに仏教の教えを説いた。

 また、当時、税として納める諸国の産物は庶民が直接都へ出向いて納めなければいけなかったが、都へ向かう途中で力尽きて餓死したり、都へついたものの帰りの旅費が無く、都で浮浪者になる者も多かった。そこで彼は、彼らを収容するための布施屋とよばれる救護所を作った。また、薬師寺で学んだ土木技術の知識を活かして、重い税や労役にあえぎ苦しみながらも税を都に運ぶ人々のために各地に橋をかけ道路を修理し、ため池や用水路を掘ったりして、民衆救済に尽くした。

 こうして、人々は、彼を「菩薩」(慈悲を実践する者)とあがめ慕って集まった。

 彼は仏教の教えを説きながら近畿を中心に各地をまわり、先々に道場を建て、その数四十九院におよんだ。彼につきしたがう者の数は1000名にのぼり、流民(重課税等に抗するため土地を離れ仕事を放棄して税をおさめない人々)となった。

 当時の奈良王朝の根本は、定住して農地を耕し納税する“良民”の存在を前提につくられた律令制度であったが、仏教の支配層による独占を打破しながら、民衆救済に力を尽くし、流民化した民衆を率いる彼は、鋭い律令体制の批判者となった。彼の運動が広がれば「律令の体制=律令国家」が崩壊しかねない事態となった。当然、彼は朝廷から激しく迫害された。

 しかし、彼は民衆に守られて布教を続けた。730年秋には、平城京の若草山で、毎日数千人から1万人の民衆が、彼を中心に集会するという事態が生じた。

 ここにいたって朝廷は、ローマ帝国が迫害していたキリスト教を突然公認したように、翌年、彼の布教を公認した。

 やがて、聖武天皇に乞われて大仏建立の責任者として招聘された(740年)彼は、大仏建立を重い税を課し朝廷の財力で行うのでなく、仏教に導かれた、延べ260万以上もの民衆の力を結集して推し進めた。この間(745年)、彼は日本初の大僧正となった。

 彼は、大仏開眼を見ることなく、その2年前、82歳で逝去(749年)し、生駒山東稜にある、現生駒市の竹林寺に埋葬され、今もそこに眠る。

 彼は40歳の707(慶雲4)年から生駒山東稜の山房(生駒仙房せんぼう/現竹林寺付近)で、母と暮らして孝養をつくしながら修行し、710(和銅3)年に母を見送り、生駒山中の草野かやの仙房(所在地不詳)に移って712(和銅5)年まで喪に服しながら修養した(下線部については異論もある)。生駒の地で、愛する人と過ごした日々と愛する人の死と向き合った日々の修行と修養が彼の人生に決定的な影響を与えた。かかる思い出深い生駒の地に埋葬されることは彼の遺言であった。

 彼が、民衆に仏教を広め、民衆救済の活動を開始するのは母の喪が明けた40歳代後半であるが、愛する人の死と直面したことが、その契機になった。



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<問2>古来、列島中央部にあってその存在感を示してきた「生駒山」、それに寄り添う「平群の山」

33_2019102222250134 広義の生駒山たる生駒山地は、標高642mの狭義の生駒山を最高峰(主峰)とし、その北に連なる北嶺ほくれい(北の尾根)と南に連なる南嶺なんれい(南の尾根)の合わせて35qの細長い山地であり、竜(龍)田川上流域の生駒谷とその下流域の平群谷をはさんでその東側に並立して13qの嶺みね(尾根)を連ねているのが平群山(矢田丘陵)です<上図2つご参照(クリックで拡大)>。
42 生駒山はさほど高い山地(連峰)ではないにもかかわらず、問題表題にもあるように、古来、列島中央部にあって(右の列島地図ご参照(クリックで拡大))その存在感を示してきました。このような生駒山にかかる問題をいくつか、この生駒検定<全国版>では取り上げていますが、ここでは、それ以外のものを掲載いたします。
 また、生駒山に寄り添っている平群の山(矢田丘陵)にかかるものも掲載いたします。

生駒山の謎の1つは、その最高峰から真西に古代日本の宮殿があることです。その宮殿を次から選んでください。

     藤原宮  長岡宮  難波宮  平城宮

今も昔も、海の向こうの隣国と日本の関係に緊張が生まれると、その影響をいち早く受ける島があります。今より約1300年前の664年に、この島と飛鳥の都の間の各所にとぶひ(飛火とぶひ・のろし台ともいう)と呼ばれる施設が設置されました。これは、663年の白村江の戦いの敗北によって高まった、都への緊急の知らせをのろし(烽火・烽燧・狼煙)によって伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から行われたものです。

 都が飛鳥から藤原京に、次いで710年に平城京に遷されると、712年に、高安山にあった烽が廃止されて、代わりに、生駒山地中央部にある暗峠より北へ少し行ったところにある天照山てんしょうやま(510m)<地図>に、高見の烽が設置されました。これは、この島を起点に壱岐〜筑紫〜屋島など瀬戸内海各所〜難波方面からのろしによって伝達されてきた大陸・半島の動きについての情報を、のろしによって平城の都に知らせる役割を持つものでした。

 では、この島の名前を答えてください<問 A>。

 また、天照山は江戸時代から近代に至るまで、大坂の米市場の米相場を東海地方に伝達する「旗振山はたふりやま(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」でもありました。

 では、この米市場があった場所の名を答えてください<問 B>。

 なお、暗峠から直線距離で南西約700mの旗立山(486m)<地図>には、南北朝時代に見張り場があったといわれています。

 思えば、かのナガスネヒコが、瀬戸内海の彼方からの東征軍が河内湾に侵入したことをいち早く知ることができたのも生駒山が西方からの情報を受信できる格好の場であったからであり、戦時中は、山上の飛行塔が軍の防空監視所とされ(そのため、戦時中の金属回収令で多くの金属が回収されたが、飛行塔は奇跡的に生き残りました)、その近くに、1941(S16)年、宇宙からの情報を収集するために京都帝国大学(現京都大学)天文台が建設され(残念ながら、1972年に大気汚染等のために閉鎖)、今日でも、生駒山上にはテレビ塔が林立しているように、古代より、生駒山は、遠近の情報を収集・伝達するステーションであったのです。

)次の2つの歌のうち、➀の歌は日本書紀に記された、景行天皇が歌ったものです。Aの歌は、古事記に記された、その子が歌ったものです(文中、・・・・・は省略部分)。Aの歌を歌った人物は誰でしょう。漢字名は難しいので、カタカナで答えてください。

 @<景行紀>天皇は・・・・・子湯県こゆのあがた(現宮崎県児湯郡)においでになり・・・・・そのとき東方を望まれて、お側のものにいわれるのに、「この国は真直に日の出る方に向いているなあ」と。それでその国を名付けて日向ひむかという。この日、野中の大石にのぼって、都をしのんで歌をよまれた。

   愛しきよし 従吾わぎへの家方かたゆ 雲居くもい起来たちくも 倭やまとは 国くにの真区まほらば 畳たたづく 青垣あをがき 山籠やまこもれる 倭やまとし 麗うるはし 命いのちの 全またけむ人ひとは 畳薦たたみこも 平群の山の 白樫しらがしが枝を 髻華うずに挿 この子

   (歌の訳)なつかしいなあ、我が家の方から、雲が湧いて流れてくるよ。大和は最もすぐれた国。青々とした山が重なって、垣のように包んでいる。大和の国は美しいなあ。命の満ち溢れた人は、平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿しなさい。この子よ。

  と、これを国しのびの歌という。(以上、歌以外、講談社学術文庫版より/太字は引用者による)

 A<景行記>・・・・・そこより能煩野のぼの(現鈴鹿山脈の野登山ののぼりやまの麓)に到りまししとき、国を思しのいて歌曰うたひたまはく

   倭やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山隠やまごもれる 倭やまとしうるはし

  また歌曰うたひたまはく、

   命いのちの 全またけむ人は たたみこも 平群の山の くま白かし葉を うずに挿せ その子

  この歌は国思歌くにしのひうたなり。また、歌曰うたひたまはく、

   しけやし 我家わぎへの方かたよ 雲居くもゐち来も 

      たたみこも・・・まこもの葉を編んだ敷物を「一重」「二重」と数えるので、「重へ」から「平群」にかけた枕詞 

  (歌の現代語訳)大和国やまとのくには国々の中で最もよい国だ。重なり合って、青い垣をめぐらしたような山々、その山々に囲まれた大和は美しい国だ。 命の完全な人は、平群の山のくま樫かしの葉を髪に挿して、生命を謳歌するがよい。みなの者よ。(以上、講談社学術文庫版より)

 なお、親子でほとんど同じ歌(これを小異歌という)をなぜ歌ったかなど、➀と➁の歌を説明しているページへの入り口は、「解答・解説」にあります。

次の2つの文は、二首の長歌のそれぞれの大意です。これらの歌は、対になった乞食者ほかひびと祝いや娯楽のための口上・踊り等の芸を売る見返りに食を得ていた芸能民との説が有力の長歌です。

@の文を大意とする歌は、鹿の爲に痛みを述べて作られ、➁の文を大意とする歌は、蟹の爲に痛みを述べて作られており、@の文を大意とする歌には平群の山が詠われていますが、この二種の歌を収めている和歌集は何でしょうか。<ヒント:世界最古にして、全20巻4516首を収める世界最大の選歌集です。> 

 @〔大意〕韓國の虎という神様を生捕りにして、八頭も持ち帰り、その皮を畳に作る、その八重畳やへだたみ平群の山で、四月から五月にかけて藥猟くすりがりに奉仕しますときに、この片山に二本立っている櫟いちひのもとで、沢山の弓矢を携えて鹿を待っていると、そこへ一頭の牡鹿がやって来て、嘆きますにはもうすぐ私は死にましょうが、そうすれば大君のお役にたちましょう。私の角は 御笠の装飾に、耳は御墨壺みすみつぼに、眼は澄んだ御鏡に、爪は御弓の弭ゆはずに、毛は御筆みふみての材料に、皮は御箱の皮に、肉や肝はおなますの料に、胃の腑は御塩辛の料となりましょう。年老いた奴の私の身一つに、このようにも七重八重に花が咲くと申しはやして下さい、申しはやして下さい。  この一首は、鹿の爲に痛みを述べて作られた。

 A〔大意(意訳部分あり)〕 難波の江河内湾・河内潟・河内湖のこと)に仮屋を作って隠れ住む蟹の私を、大君がお召しになるということだ。何のためだろうか。歌うたいとしてだろうか。笛吹き、琴弾きとしてだろうか。そんな筈はないが、とにかく仰せを承ろうと、飛鳥に行き、皇居の東の中門から、参内して、承って見ると、馬にこそ絆がかけられ、牛にこそ鼻縄がつけられるのだが、牛馬でもない私をつかまえ、楡にれの皮を沢山はいで垂らされて天日に干された挙句に碓子うすでつかれてしまい、私の故郷である難波の江の濃厚な辛い初塩を持ってきて、陶人すえひとの作った瓶かめに入れて醤ひしお(タレ)をつくり、それをまる干しになった私に塗ってご賞味なさいます。ご賞味なさいますことよ。  この一首は、蟹の爲に痛みを述べて作られた。

 以上の大意の二種の長歌がどんな意味を持つのかなどの説明は「解答・解説」にあります。  



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<問1> 神話の里(その1) 〜生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)〜

 下記の文は「日本書紀」の一部です。( 1 )〜( 5 )に入る人物は誰でしょう。次の人物名≪   ≫からそれぞれ選んでください。

     人物名 ≪ 長髄彦(ながすねひこ)  三炊屋媛(みかしきやひめ)  可美真手命(うましまでのみこと)  〔神日本〕磐余彦尊(〔かむやまと〕いわれひこのみこと)  饒速日命(にぎはやひのみこと) ≫


  のちに即位して神武天皇となる( 1 )が、航海と製塩の神である塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと「東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(あめのいわふね)に乗って、とび降(ふ)ってきた者がある」とのことであった。そこで思った。「その土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、( 2 )というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。

 その年冬に、( 1 )は九州を出立して東征に向った。瀬戸内海を東に向かい、途中、安芸国(あきのくに/現広島県)と吉備国(きびのくに/現岡山県)に立ち寄り、春に浪速(なみはや/現大阪)に着いた。

 夏、( 1 )の軍たる皇軍は兵を整え、生駒山を越えて内つ国(うちつくに/大和国(やまとのくに)のこと/現奈良県)に入ろうとした。そのときに( 3 )がそれを聞き、「天神(てんじん/天津神<あまつかみ>のこと/高天原<たかまがはら/天上界>に生まれた神のこと)の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか/生駒山西麓/現東大阪市日下<くさか>)で戦った。矢が、( 1 )の兄である五瀬命(いつせのみこと)のひじとすねに当たった。皇軍は進むことができなかった。( 1 )は考えた。「日に向って敵を討つのは、天道(てんとう/太陽)に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、背中に太陽を負い、日神(ひのかみ/太陽神)の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」。そこで軍中に告げていった。「いったん停止。ここから進むな」と。そして軍兵を引いた。( 3 )の軍もあえて後を追わなかった

 その後、皇軍は、紀伊半島を迂回、熊野付近で上陸し、紀伊半島を縦断して大和国に入り、冬、再び( 3 )の軍と相見(あいまみ)えた。しかし、戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空か暗くなってきて、雹(ひょう)が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、( 1 )の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようであった。このため( 3 )の軍勢は、皆眩惑されて力戦できなかった

 そこで、( 3 )は使いを送って、( 1 )に言った。「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られた。( 2 )という。この人が我が妹の( 4 )を娶(め)とって子ができた。名を( 5 )という。それで、手前は、( 2 )を君として仕えている。一体天神の子は二人おられるのか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのか。」と。

 ( 1 )がいった。「天神の子は多くいる。」と。

 ( 2 )は、もとより天神が深く心配されるのは天孫(てんそん/天神の子孫)のことだけであることを知っており、また、天神と人とは全く異なるのだということを( 3 )に教えても分りそうもないことを見てこれを殺害し、部下達を率いて帰順した

   <注>太字部分は、生駒の神話のポイント部分



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2014年03月11日

<問27> 古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。 

 古来、生駒山は、人々に愛され、多くの和歌や俳句に詠まれてきました。それらについての次の各問に答えてください。

(1)次の和歌が登場する、平安初期に成立した歌物語は何ですか。<ヒント:在原業平が作者ともいわれています。>

二十三段 君があたり 見つつを居らむ 生駒山 雲なかくしそ 雨は降るとも

  ※「な〜そ」で禁止を表す。

 〔大意〕あなたがいらっしゃるあたりを見続けておりましょう。生駒山を、雲よ、隠さないでおくれ。雨は降ろうとも。

(2)次の四首の和歌を詠んだ人は誰ですか。<ヒント:古今和歌集(平安前期に編纂)や新古今和歌集(鎌倉初期に編纂)などから選んだ小倉百人一首(鎌倉初期に成立)の選者です。>

いこま山 あらしも秋の 色にふく 手染のいとの よるぞかなしき

 〔大意〕生駒山では、嵐も秋の色模様に吹いている。手引きの糸がよれてからまったように。

いこま山 いさむる嶺に ゐるくもの 浮きて思はき ゆる日もなし

〇 秋の色と 身を知る雨の ゆふ雲に 伊駒のやまも おもがはりして

〇 津の国の こやさく花と 今もみる いこまの山の ゆきのむらざえ

※なお、この人物も選者であった新古今和歌集には、(1)の歌も選ばれて所収されています(巻15 恋歌5 1369)。

(3)次の和歌を詠んだ人は誰ですか。<ヒント:この和歌は「金槐きんかい和歌集」(鎌倉初期に成立)に収められています。>

347 雲ふかき み山のあらし さえさえて 生駒の嶽たけに 霰あられふるらし

 〔大意〕雲が深くたれこめた山に嵐が吹き、一面に冷えこむと、生駒の岳には霰が降るだろう。

(4)次の俳句を吟じた俳諧師は誰ですか。<ヒント:<問13>歴史を見つめてきた暗峠のLの答の人物(浮世草紙「世間胸算用せけんむねさんよう」の作者)と同じ人物

〇霞かすみつつ 生駒みねども 夕べかな <1692年刊行の和気遠舟編「すがた哉」に入集>

 〔大意〕霞がかかって生駒山は見えないけれど春の夕べの風情は手にとるようにわかる。

(5)次の和歌を詠んだ歌人は誰ですか。<ヒント:怪異小説『雨月物語』の作者として知られています。>

〇生駒山 かげまだ峰に 別かれぬを 浪華の海に 月になりけり

(6)次の二首の和歌を詠んだ歌人は誰ですか。<ヒント:この二首は「みだれ髪」<1901(M34)年に発表>(↓下図は表紙)に収められています。>

45 誰ぞ夕ゆふべ ひがし生駒の 山の上の まよひの雲に この子うらなへ

 〔俵万智 超訳↓下図は表紙>生駒山の夕べさまよう雲たちで誰か私の恋占って

271 すげ笠に あるべき歌と 強ひゆきぬ 若葉よ薫れ 生駒葛城

 俵万智 超訳〕「歌人なら歌を詠んで」と囁いた 若葉よ薫れ生駒葛城

05みだれ髪.jpg07みだれ髪.jpg

(7)次の俳句を吟じた俳人は誰ですか。<ヒント:正岡子規に始まる近代俳句の流れを確固たるものにした高浜虚子の教えを受け、今日に至る近代俳句の隆盛をもたらした、水原秋桜子しゅうおうし・高野素十すじゅう・山口誓子せいしと共に「ホトトギスの四Sしいエス・よんエス」と呼ばれる。>

生駒より 峰山高し 麦刈れば



(8)次の和歌を収めている和歌集は何ですか。<ヒント:日本最古の和歌集(奈良時代末期に成立)です。> 出典は<解説>に記載しています。       

巻 6- 977 直越ただこえの この道にして 押し照るや 難波の海と 名づけけらしも <733年 神社忌寸老麿かみこそのいみきおゆまろ(伝不詳)>

   ※直越・・・奈良からまっすぐに大阪へ生駒山地を越えて行く道。複数ある。この歌のそれがどれかは不確定。この道を上り切ったところが草香山で、生駒山上の北の峰であるが、どの峰かは不確定。ご参照

   ※この道にして・・・この道において。  ※押し照るや・・・難波にかかる枕詞。

 〔大意〕(この草香山まで登って来てみると、ほんとに難波潟に一面に日の光が照りつけている。)この道でこそ、なるほどオシテルヤ難波の海と名づけたものであるらしいな。

巻 8-1428 おし照るや 難波なにはを過ぎて うちなびく 草香の山を 夕暮に わが越え来れば 山も狭に  咲ける馬酔木の にくからぬ 君を何時いつしか 往きてはや見む <作者未詳>

 〔大意〕難波を過ぎて、草香の山を夕暮れに越えて来ると、山いっぱいに咲いている馬酔木の花のように、心を引かれるあなたに、何時お逢いできるか、行って早くお逢いしたい。

   ※うちなびく・・・草にかかる枕詞。  山も狭に・・・山も狭いほどに。

巻10-2201 妹いもがりと 馬に鞍置きて 生駒山 うち越え来れば 黄葉もみぢりつつ <作者未詳>

   ※妹がりと・・・妹(妻・恋人)の許へ。がりは方向をしめす。  

 〔大意〕妹の許へ行くとて馬に鞍を置いて生駒山を越えて来ると、黄葉がしきりに散っている。

(小明町の総合公園内グランド東の駐車場隅に歌碑あり)

巻12-3032 君があたり 見つつも居らむ 生駒山 雲なたなびき 雨は降るとも <作者未詳>・・・(1)の元歌

 〔大意〕わが君の家のあたりを見ておりましょう。生駒山に、雲よ、たなびかないで下さい。たとい雨は降ろうとも。

(北大和一丁目の四季の森公園/芸術会館美楽来に歌碑あり)

巻15-3589 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてそ吾が来る 妹いもが目を欲り <736年 秦間満はだのはしまろ(伝不詳)

 〔大意〕夕方になると、ヒグラシが来て鳴く生駒山を、越えて私は行く。妹に逢いたくて。 

(生駒市立大瀬中学校の門前に歌碑あり)

巻15-3590 妹に逢はず あらば為方無すべなみ 岩根いはね踏む 生駒の山を 越えてそ吾が来る <736年 遣新羅使人>

 〔大意〕妹に逢わないでいれば、どうにもしようがないので、岩を踏んで歩くけわしい生駒山を越えてやって来たことだ。

(高山竹林園内に歌碑あり)

巻20-4380 難波門なにはとを 榜ぎ出て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく <下野国の防人・大田部三成おほたべのみなり

  ※難波門・・・難波の港  ※神さぶる・・・古めかしく神々しい。

 〔大意〕難波の港を漕ぎ出てみると、神々しい生駒の山に雲がたなびいている。 

(生駒山上遊園地/西畑町の国道308号線である奈良街道暗峠越えの街道沿いに歌碑あり)

(9)(8)の和歌集には、次の歌も収められています。この歌を詠んだ歌人は誰ですか。<ヒント:後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。>

巻3-255 天離あまざかる夷ひなの長道ながぢゆ戀ひ來れば明石の門より大和島見ゆ

  ※天離る・・・枕詞。空遠く離れている意からヒナ(田舎)にかかる。  ※ゆ・・・道筋をずっと経過する意を表す格助詞。  ※大和島・・・大和国の西の境をなす生駒・葛城の連山が、瀬戸内海から7あたかも島のように見えるのでこういった。

  〔この歌が詠まれた背景〕を「生駒市誌U」はこのように述べています⇒古代の生駒山は、奈良の都と難波の港をとを結ぶ東西交通の要路にあたり、旅する者の重要な標識となり、必ず越えねばならない難所であり、国をしのぶ郷愁の山でもあった。多感の〇〇〇〇〇は、なつかしい故郷に長い旅から帰る途中、明石海峡から大和の一角に聳えている生駒山を望見して、その喜びを歌い上げている。(〇〇〇〇〇には、答えの人名が入ります。)

  解答・解説









<問26>生駒の歴史   

<随時、部分修正することがあります>

次の文は、土地制度の変遷を主軸にした生駒の歴史について述べたものです。(  )に入る語句を答えてください。

なお、この問題文は、2つの理由により、大変な長文となっていますが、ご了承ください。

続き

生駒の地には、いつから人が住み始めたか

 この記事には、「有史時代になっても生駒谷はまだ湖水で、そこに暮らした人たちが現われました。縄文人です。岸辺で狩猟生活をした原住民の縄文文化は小平尾遺跡といわれ、萩原からは食器の一部の土器の断片。また、菜畑、有里では、矢じりや石器が発掘されています。鹿や猪、鷹などが獲物だったのです。」とあり、遅くとも、縄文時代には人が住み始めていた

縄文時代・弥生時代

(1)狩猟採集という獲得経済を主とする縄文時代とそれ以前の時代にあっては、土地・他者を支配するという必要性がなかったため土地・人民支配というものはなかった。当然、生駒の地も同様であった。⇒<問17>「生駒」の語源・由来ご参考

(2)水田耕作という生産経済を主とする弥生時代になると、土地・他者の支配の必要性が生じるようになり、「国家」(土地・人民の支配機構)というものが生まれるようになって、部族国家が各地に誕生<部族とは、いくつかの氏族(血縁集団)の結合体>、やがて、それらのいくつかが連合した部族連合国家(諸部族長の連合政権)も各地に形成されていった。最も有名な部族連合国家は、卑弥呼が治めたとされる( @ )である。その場所はいまだ確定されていないが、それと同様の部族連合国家は北九州をはじめ各地に成立し、「 @ 富雄川流域説」もあるように富雄川流域をも含む大和にも形成されていたと考えられ、生駒の地もその国家の領域であったと思われる。

(3)(1)から(2)への移行期、つまり、縄文から弥生への移行の時代に、列島先住民(縄文人)と半島からの渡来人(弥生人)とが出会い衝突した。それが、今に至る日本民族と里山という日本の国土のあり方を形成させたが、この日本史上最大級の出来事は、長く人々の心に刻まれ言い伝えられてくる中で、いつしか、豊秋津洲とよあきつしまを舞台とする神話(生駒の神話)がつくられていった(生駒の神話は里山の誕生の過程を反映したもの)。そして、8世紀に入って、記紀(古事記・日本書紀)の作者は、共に「神武天皇の項」で生駒の神話を記した。古事記(712成立)は国内向けに天皇の正統性を訴えるために、日本書紀(720年完成)は外国向けに日本という国の正統性を主張するために、それぞれ作成されたものであるが、その内容に説得性を持たすためには全くの創作ではなく、各地に伝わる神話や伝承を盛り込む必要があり、それらを、作成意図に沿って修正して記述している。そのため、記紀に記された神話や伝承は、元の内容通りではなく、また、記と紀とは食い違う記述もある。従って、記紀を読む際には、元の内容がどうだったのを判断するリテラシー(適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する力)が必要である。<問1>神話の里(その1)〜生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)〜<問15>神話の里(その2)〜「国生み神話」の舞台〜 ご参照 

古墳時代・飛鳥時代

 各地の部族連合国家は地方権力機構(権力とは人民を統治する力)であり、人口増大に伴い支配領域が拡大してくると他の国家との軋轢が生じて戦争が起こるなど権力を不安定にさせる要因が生まれた。そこで、その要因を排除するため、各地の地方権力を制して中央集権国家をつくる動きが推進され、701年の( A )の制定をもって、645年の乙巳の変いつしのへんを機に整備が加速された律令格式 (各種の法令)に基づき全国に国司頂点とする役人を派遣して朝廷が直接に全国の〔天皇が治める〕土地(公領=公地)・〔天皇が治める〕人民(公民)を支配する<これを公地公民という/朝廷が全国の人民から徴税(いくつかの生産物を徴収し、いろいろな労役を課す)し兵役を課す>仕組みを持つ律令制の国家、つまり、「律令国家=中央集権国家」が成立した。

     )国司・・・高官(高級官吏)は守かみ(一等官=長官/事務統括/国司という場合、これのみを指すこともある)と介すけ(二等官=次官/長官補佐)で、前者は中級・下級貴族、後者は下級貴族・下級官人が任命された。その下に、下級官吏として、掾じょう(三等官/一般事務)、目さかん(四等官/書記)が置かれ、下級官人が任命された。なお、位階は30段階あり、五位以上が貴族とされ、三位以上を上級貴族、四位を中級貴族、五位を下級貴族、六位から初位までの者と雑任ぞうにんと呼ばれた者達を総称して下級官人といった。

  ・蘇我入鹿は645年の乙巳の変で倒されましたが、その前々々年の642年に入鹿は山背大兄王やましろのおおえのおうを攻撃し、王は生駒山中に逃げました。⇒このことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像(13)ご参照

  ・乙巳の変の翌々日に即位した36代天皇孝徳は、652年に難波宮を完成させ、この地を都と定めましたが、この宮殿は生駒山の最高峰から真西にあり、それが生駒山の謎の1つとなっています。⇒このことについては、<問2>謎多き山「生駒山」ご参照

  ・伝承によれば、655年、役行者が、山背大兄王が逃げ込んだあたりの生駒山中を修験道場とし、ここに都史陀山大聖無動寺としださんだいしょうむどうじを建てました。時が過ぎ、1678に湛海律師がこのお寺を再興して、歓喜天を祀り、寺名を宝山寺と改名しました。⇒このお寺が、1981年8月公開の山田洋次監督「男はつらいよ」のロケ地となったことについては、<問10>「男はつらいよ」生駒の巻ご参照。このお寺の浴油供よくゆくについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(7)ご参照。このお寺に、芥川龍之介が、直木三十五、宇野浩二と共に遊行したことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(2)ご参照

  ・645年の乙巳の変で入鹿を倒した中大兄皇子は、658年には、皇位継承にかかる難を避けるため市経いちぶ(現生駒市壱分町)の地(「生駒市誌 X」は、無量寺が皇子の皇居という一説もある、と記しています)に閑居かんきょしていた有間皇子を謀略により処刑しました。⇒このことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(11)ご参照

  ・630年より遣唐使が派遣され、その第8回(702〜704)には、山上憶良や美努岡萬みののおかまろがいた。なお、1872(M5)年、岡萬の墓誌が大和国平群郡萩原村竜王(現在の奈良県生駒市青山台)の丘陵から出土し、のち、岡萬の墓が建てられた。

  ・663年の白村江の戦いの敗北によって高まった、都への緊急の知らせをのろし(烽火・烽燧・狼煙)によって伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から、生駒山地に高見の烽(とぶひ)が設置された。   

  律令制が形成されていく中で、律令に基づく土地制度である班田収授制)が実施されていき、これまでの「氏族単位で田畑や山林を占有し使用する」形態からとってかわっていった。

    ()班田収授制・・・戸籍をつくり、そこに載せて受田資格を確認できた人民へ朝廷から『田』(口分田)が班給(田を割り当てて強制耕作させ、徴税・徴兵すること)され、死亡者の『田』は収公(朝廷が没収)される。

奈良時代

全国的にも、生駒の地でも 律令制が実施された。

 班田農民(口分田を班給された農民)は、税(物納・労役)と兵役の負担が重く、( A )の発布直後から、他郷(他地域)の働き手がほしい有力農民(他の班田農民を支配下に入れて多くの口分田を支配下に入れた班田農民)の下にさかんに逃亡した(当然に国司は連れ戻そうとしたがだめだった)。

 重い負担で農民の貧窮が進むと、710年に母を亡くし、712年に喪が明けるのを待って農民を救済しようと立ち上がったのが行基であった⇒このことについては、<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人ご参照

 班田農民の逃亡で田が荒れてきて思うように徴税できない中、743年、税収増をはかって墾田永年私財法が実施されると、土地制度は変質していった。墾田永年私財法は、開墾した土地は私有地にしてもよい(ただし納税はしなければならない)というもので、貴族・大社寺は、重い負担から逃れるために逃亡してきた農民を使って開墾を進めて私有地(これが荘園)を拡大していった(開墾によって拡大した荘園を墾田地系荘園または初期荘園という)。こうして、公地公民(律令制)は崩れはじめ、荘園制度が発生し始めた。

 荘園制度とは、私有地(=荘園)の領主として貴族・大社寺が土地(私有地)・人民を支配する<貴族・大社寺が自己の支配地の人民から年貢を徴収する> 仕組みである(現地で、年貢徴収や管理をおこなった者を荘官といい、領主の家臣が派遣されたり現地の有力農民が任命された)。

律令制の崩壊開始を背景とする政局の混乱

 律令制は構築されて半世紀もたたないうちに、崩壊をはじめた。農民は負担に耐えかねて逃亡し、徴税・徴兵はうまくいかなくなり、多くの農民の貧窮が進む一方で有力農民が出現して貧富の差が拡大し、貴族や大社寺は荘園経営で富裕化していき、当然に社会不安は高まった。このような社会状況は政治運営を困難化させ、政局の混乱と支配層の内紛をもたらした。それらの事件をざっと並べると次の通りである。

 長屋王の変(729年)→藤原広嗣の乱(740年)→橘諸兄の失脚(756年)→橘奈良麻呂のクーデター計画失敗に終わる(757年)→藤原仲麻呂の乱(764年)→道鏡の皇位譲位要求(769年)→藤原百川による道鏡の追放(770年) 

 社会不安が高まり、政局の混乱が始まると、45代天皇聖武は仏教の教えを遍あまね広めることで平穏な世界を実現せんとし、民衆から菩薩と慕われ絶大な信頼を集めている行基を740年に招聘して大仏の建立をめざした。行基は、仏教に導かれた延べ260万以上もの民衆の力を結集して大仏建立を推し進めた。ついに大仏は完成し、752年に壮大な大仏開眼供養会が開催された。大仏は、正式名称を毘盧遮那仏びるしゃなぶつといい、「宇宙の真理」を万人に照らすことで人々に「平穏な世界」を実現させようという仏である。宇宙の真理とは、「慈楽しみを与える)(苦しみを取る)の実践(悲しみと喜びの共有)により縁起の法すべてのものは互いに支え合っている、との根本法則)の自覚・認識がもたらされ、苦悩を超克することが出来る、というものである。大仏が建立されたからといって平穏な世界(抑圧のない、すべての人々が自由で平等であるがゆえに苦しみのない世界)がすぐに出現するなんてことはない。しかし、大仏は人類の進むべき道を明らかにし、「目指すべき将来世界」と「現実世界」との矛盾を生じさせた。矛盾は原動力。大仏は人類の歴史を平穏な世界へと進める原動力の役割を果たしており、今日、かかる大仏は富士山とともに日本のアイデンティティーを形成している。⇒大仏の建立については、<問3>生駒を愛し今も生駒に眠る偉人も再びご参照 

  ・752年の大仏開眼供養会では、その2年前に逝去していた行基の姿はありませんでしたが、736年に難波津まで出迎えた行基の案内で暗峠を越えて平城京に来京していた菩提僊那ぼだいせんなが、開眼の筆を執り聖武上皇に代わって開眼師を務めました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Hご参照

  ・755年、759年に唐招提寺を創建することになる鑑真が暗峠を越えて平城京に至りました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Bご参照

  ・道鏡が皇位譲位を要求したとき、和気清麻呂はこれに反対し、そのため大隅国に流罪とされ、そこに向かう途上で暗峠を越えました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Aご参照

  ・政局の混乱にもめげず、この時代、進取の気風は失われず先進的な技術・政治制度・文化の習得や仏典等の収集を目的に中国に派遣された第9(717年)〜第17回(779年)の遣唐使の一行が、都の平城京から暗峠を越えて難波津に行き、そこから大陸に出立しました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Jご参照

  ・生駒の地に、長福寺が、その寺伝によると、聖武天皇の勅願で行基により開創されました。このお寺は、15(H27)年7月4日に放映された「ブラタモリ」のロケ地となりました。⇒このことについては、<問19>仏教芸術(建築・絵画)ご参照

  ・生駒の地に、長弓寺が、記録・伝承によると、聖武天皇の命で行基により開創されました(このとき746年、その境内に、鎮守社(そこの土地やそこにある事物を守護する土着の神を祀る神社)として伊弉諾いざなぎ神社も創建されました)。このお寺にあった三重塔の初層(一階)部分は、現在、東京のプリンスホテル高輪エリアの中心である日本庭園の中核をなしている「観音堂」となっています。⇒このことについては、<問16>仏教芸術(建築)ご参照

  ・この時代の末期、日本に現存する最古の和歌集である万葉集が成立しました。そこには、生駒山を詠った和歌が7首収められています。⇒<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(6)ご参照

平安時代

 荘園での農民の負担(年貢)は班田農民のそれより軽かったので、税負担(物納・労役)に苦しむ班田農民は、荘園という逃げ場ができると、そこに逃走する者があとを絶たなくなり、902年の延喜の荘園整理令(口分田の復活をめざす)の失敗をもって、維持不可能となった班田収授制は強制終了した<下記の資料ご参照>。以後、これまでに班給された口分田は実質上農民の私有地となっていき、「公地(公領)」は、やがて、いわば「朝廷を領主とし国司を荘官とする荘園」となっていった(ただし、これは、貴族・大社寺を領主とする荘園と区別するため国衙領こくがりょうと呼ばれる)。なお、班田収授制が崩れだすと、天皇は冨を確保するため、9世紀初めから、勅旨田ちょくしでん(勅旨、つまり天皇の命令で設置される田)という名の皇室領(いわば、天皇を領主とする荘園)をさかんに拡大した。

   <資料>吉備国(現岡山県)の邇磨(旧名 二万)郷にまごうの朝廷への納税人口調査の残された記録

  660(皇極6)年 約20,000人<徴兵数>→765(天平神護1)年ごろ 1,900余人→860(貞観2)年頃 70余人→893(寛平5)年 9人→911(延喜11)年 0人<約20,000人いたこともあった朝廷への納税農民が、約250年の間に、すべて荘園支配下に入った。>

 荘園は、当初は、皇室領を除いて免税地ではなかったが、9世紀の末には、貴族・大社寺の荘園は、不輸の権(租税を納めなくてもよいという特権)を獲得し、11世紀からは不入の権(役人を入らせなくてもよいという特権)も獲得して、荘園は朝廷から半ば独立的な存在となった。ここに荘園制度は、貴族が領主である荘園が、貴族が牛耳る朝廷から半ば独立的な存在となるという矛盾した土地制度となった。矛盾が歴史を動かす。これ以降、日本の歴史は、現地の支配者として台頭した武士が、中央(現地から遠く離れた都)の支配者(貴族)とそれと結ぶ大社寺から領主権を奪うことで、この矛盾を解決していく歴史となる。

 農民の中でも武装してやがて武士となっていく有力農民は、小農民を支配下に入れて盛んに開墾をおこない開発領主(在地の小領主/土豪などともいう)となり、国司からの税徴収を免れるために、上級領主(貴族・大社寺)に領地を寄進し、いわばみかじめ料をはらって下級領主(下級領主権=現地での支配権を保持)となり、荘官(荘園内の年貢徴収・管理人)になった。このようにして拡大した荘園を、寄進地系荘園といい、10世紀ごろから増加した。

 以上のような動きは、857年に( B 良房が初めての人臣じんしん(皇族以外の人間)摂政となって開始し、969年の安和の変ののちに摂関(摂政と関白)が常置されて本格化し、1086年の院政開始まで続いた( B )氏の摂関政治による天皇権力の弱体化(=公地公民意識の一層の希薄化)の下で進行した。院政は承久の乱(1221)まで続く。なお、( B )氏は、院政開始後も一定の政治力を保持し、鎌倉時に入って5摂家に分立するも没落することなく、公家社会では一定の影響力を持ち続け、政治の中枢とは隔絶したまま明治に至る。⇒( B 良房については、<問24>生駒ゆかりの諸群像(9)ご参照 

生駒の地でもこの時代、以下のように荘園制度で覆われていった

 <( B 氏の氏寺である( C )は、( B )氏の権勢の庇護の下で勢力を全国化させ、大和一国も支配下に治め、生駒の地も次のようにその支配下に置かれた。この土地・人民支配体制は、「戦国時代=下剋上という世直しの時代」まで長期にわたって続いた。>  以下、生駒の地図.jpgを見ながらお読みください。

(1)高(鷹)山谷(富雄川最上流)では、( C )の荘園として鷹山庄が成立 

    ( C  )は2つの院(一乗院と大乗院)で構成されていて、その最高職である別当は、両院の門主が交互に就任する習わしとなっていたが、鷹山庄は一乗院の支配地となった。鷹山庄は( C  )雑役免田ぞうえきめんでん、との記録が『( C  )雑役免帳』に残されているが、雑役免田とは、国衙こくが(その地域を治める役所)に納める生産物一般農産物や特産物・雑役(各種の労役)のうち、雑役を免除されて生産物だけを納める田地のこと。当時は、生産物の物納より労働力を奪われる雑役を強制される方がはるかに苦痛であった。

(2)鳥見谷(富雄川上中流域)では、( C  )の荘園として鳥見庄が成立

    鳥見庄が拡大すると、時期は不明だが、上鳥見庄かみつとみのしょう(現生駒市上町・鹿畑町とその周辺/伊弉諾いざなぎ神社が鎮守/遺跡)・中鳥見庄なかつとみのしょう(奈良市三碓町とその周辺/添御県坐そうのみあがたにいます神社が鎮守)・下鳥見庄しもつとみのしょう(奈良市石木町とその周辺/登弥とみ神社が鎮守)の3つに分かれ、順に、大乗院仁和寺御室おむろ(出家した天皇の住居)領、( C  )西金堂さいこんどう領となった。

(3)生駒谷(竜田川流域)では、12世紀前半、開発領主が、虎の威を借って土地支配を安定化させるため私領を一乗院に寄進して荘園が成立(生馬庄)。この荘園は、やがて、現地支配権(領主職しき)は3分の2と3分の1に2分され、二分方一分方という区分ができた。後者では、「壱分」という地名が現在も残っている。現菜畑駅東100mの十字路は「傍示ほうじふだを立てて、ここが境であることを示すこと、また、その場所の辻」といっていたが、そこが両者の境であり、そこから北側一帯が二分方であった。

  ・平安初期に成立した歌物語「伊勢物語」には、生駒山を詠んだ和歌が登場します。⇒<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(1)ご参照

  ・平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、2つの勅撰集「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」や小倉百人一首を撰進した藤原定家は、生駒山も和歌に詠っています。⇒<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(2)ご参照

荘園制度が展開されていく中、

 貴族の生活は豪華になっていく一方、農民の負担は続いて社会不安は高まり、盗賊も横行するようになった。それと共に、都で暮らし甘い汁だけを吸ういわば社会の寄生者となった貴族への批判が高まる中で、多くの荘園の有力農民は武装して武士(貴族・大社寺のように「権威や特権に頼る」のでなく、「<自力=実力(武力)>に頼って」私有地を拡大せんとする者)として台頭し、武士団を形成。一方、国衙領(公領)においても、多くの守かみ(一等官の国司)や介すけ(二等官の国司)が遥任(現地には赴任せず都に住んで任国からの収益を吸うだけの者)となる中で、現地に赴いた守やそれより下位の国司の中には、現地に土着して武士団を形成して勢力を張るものが出て、各地の武士団を糾合して棟梁となるものも出現した。それが平氏と源氏である(平氏と源氏の興りご参照)。こうして、社会の底辺から実力が物をいい始める傾向が出てくると、10世紀後半より、大社寺も、興福寺・延暦寺のように自らの荘園守るために独自の武力(=僧兵)を組織していった。

古代から中世へ

 1086年の院政開始で摂関家<( B )氏のこと>による摂関政治が終わると、院政の下で、皇室と摂関家の対立、そのそれぞれの内部対立がおこり、やがて、各勢力が平氏と源氏の武力を頼りに抗争するようになり、保元の乱(1156年7月1日)・平治の乱(1160年1〜4月)が起こった。これらの乱を通じて武士が台頭し、1167年頃〜1179年にかけての平氏政権が成立していく時期を経て、1180〜1185年の源平合戦(治承・寿永の乱が起こり、それに勝利していく源氏が、関東御料関東御分国関東御口入地という広大な荘園・国衙領を財源とする武士の権力機構として1180年〜1192年にかけて鎌倉幕府を成立させ、公(朝廷・貴族・大社寺)と武(武士)の2権力が並立することとなった。

続き



<問26>生駒の歴史<続き>  

承前

鎌倉時代

 公武2権力並立は長くは続かず、公(上皇)が武(幕府)に仕掛けた1221年の戦争(承久の乱)で敗北した公の側は、厳しく処分され、その貴族とそれに加担した武士の所領約3000か所が、幕府の任命する地頭(荘園内の年貢徴収と荘園の管理)の設置により幕府の支配下となり、武士の政治権力独裁が実現し、以後、公(朝廷)は武(幕府)の従属下におかれることとなった(承久の乱を機とする北条泰時による公の処断を日本唯一の革命とする説もある⇒ご参照)。ただし、貴族・大社寺による土地・人民支配が完全に終わるのは戦国時代まで待たねばならない。

  ・鎌倉幕府第3代将軍の源実朝は、生駒山を和歌に詠いました。実朝は1219年に暗殺され満26歳という若さで亡くなり、源氏将軍が断絶しました。⇒実朝が生駒山を詠った和歌については、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(3)ご参照

  ・生駒の地の行基ゆかりの竹林寺で修行を積んだ忍性は、承久の乱の約20年後の1243年に大和国の般若寺近辺に北山十八間戸を創設するなど、ハンセン病などの重病者を保護・救済する活動を展開しました。このことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像(8)ご参照 

 この時代には、幕府から地頭<公領(国衙領)内の徴税・管理人/幕府から任命された荘官(荘園内の年貢徴収・管理人)>に任命された武士による国衙領・荘園の横領(税・年貢を上納しないで我が領土のようにしてしまう)が行われた。また、幕府が全国に配置した守護(各国の軍事・行政権を行使)により国司は権限を奪われていき形だけのもになり、律令制は実質終了していった(形式的には明治維新まで存続)。

 この時代の生駒の地の状況を伝えるものとしては、上鳥見庄は鎌倉末期には57町7段(27.4ha)という大きな荘園となった/生駒谷では二分方が仁和寺御室(出家した天皇の住居)領となった、との記録が残っている。

南北朝時代

 この時代の動乱の中で、守護の大名(地頭などの武士を家臣にして任国の支配権を強め領主になったもの)化が進展し、地頭の多くは有力守護の被官(家臣)となっていった。

 この時代の生駒の地の状況を伝えるものとしては、高山谷の鷹山庄は一乗院領、鳥見谷の上鳥見庄は大乗院領、との記録(『( C )造営段米田数帳』)が残っている。

室町時代

 南北朝の争乱を経て室町時代に入ると、守護大名(守護が大名になったもの)は表向きは荘園制度を否定しないものの、その領国支配(国をまるごと支配)は荘園制度を次第に崩していった。

 そして、( D )の乱(1467〜1478)が勃発し、それが原因となって世は戦国時代へと移行した。

 そんな中、生駒の地では、高山谷の鷹山庄は興福寺一乗院領、との記録(『( C )造営段米田数帳』)も残っているが、( D  )の乱が拡大すると、生駒庄荘官(荘園内の年貢徴収・管理人)でもあった生駒氏は、身辺の危険を感じ、戦火を逃れて1475〜1476年、鷹山氏と交代するかのように、縁者を頼って、交通の要所たる尾張国丹羽にわ郡小折こおりに移住していった。生駒氏については、<問24>生駒ゆかりの諸群像(9)ご参照

 なお、( D )の乱のときの天皇は103代天皇後土御門であった(位1464〜1500年)。

  ・この天皇の勅命により大徳寺の住持じゅうじ(寺の主僧)に任ぜられた、100代天皇後小松の落胤ともいわれる一休宗純は、晩年、南山城の酬恩寺を根拠地に京都東山や摂津、和泉堺などの間を頻繁に往来し、古来、交通の要衝であった大和国の高山の中村の里を通る街道を月1回は通ったといわれています。⇒このことについては、<問14>歴史が息吹く生駒の古道の(1)ご参照

  ・また、この天皇に、大和国の高山城主頼栄よりさかの次男の宗砌そうせつが考案した茶筌が献上されました。⇒このことについては、<問4>自然が生んだ伝統工芸ご参照/茶筌については、<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(2)もご参照

戦国時代

 戦国時代には、戦国大名(戦いによって大名になった者で荘園制度を否定する)による領国支配や地方武士等の国盗り合戦(地域支配権の争奪)により荘園制度の崩壊が進行した。

生駒の地では、鷹山氏が、

戦国時代黎明期<( D )の乱の時期>、

この頃に生駒の地を去った生駒氏と交代するように、

立ち現われ(歴史の表舞台に登場し)、

大和の地方武士のひとりとして、

大名や有力地方武士への臣従離反や他の地方武士との連携離反

を繰り返しつつ

疾風怒涛の戦国の世を約100年間、交通の要衝たる高山を拠点に、

大和・山城・河内等一帯を転戦し、駆け抜けた。

その過程で、生駒の地の3荘園(鷹山庄・上鳥見庄・生馬庄)

一掃された。

そして、鷹山氏は、

戦国時代終焉期(安土・桃山時代)、

立ち去った(歴史の表舞台からは退場した)

まさに、荘園制度という公家・大社寺といった古代勢力がつくりだした古い土地支配の仕方を一掃して、武士による新しい土地支配の仕方を完成させていった(=世直した)戦国の世の申し子だった。

鷹山氏の詳細については、こちらをご参照ください>

安土桃山時代

(1戦国の戦乱の中で荘園制度が崩壊するとともに力を失った大社寺の荘園支配は生駒の地でも終焉した。そんな中、天正3(1575)年3月、全国統一を進めてきた ( E  )より南山城守護に任じられていたばん/はなわ直政が大和守護の兼務を命じられ、( E  ) の支配が生駒の地にも及んできた

(2)そんな中、1577(天正5)年、信貴山城の戦い松永久秀 VS ( E )>が起こると、鷹山氏は松永側で参陣し、敗北して没落した。

(3)天正4(1576)年4月、直政が石山合戦で討死すると、筒井順慶が、 同年5月に( E ) より大和一国支配を任され、天正8(1580)年11月に拠城を筒井城から郡山城に移した(理由は、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったためであるが、ここにも、かつて奈良盆地は海であった名残が残されていた)。順慶は、家臣の島左近生駒谷を支配させた。順慶は、天正10(1582)年6月2日に本能寺の変が起こると、明智光秀の与力(自分より有力な武士に従う武士)であったにもかかわらず( F ) に恭順し、その家臣となり、大和の所領は安堵された。

  ・司馬遼太郎「関ケ原」は、島左近が暗峠を往来する場面を描いています。⇒このことについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(10)ご参照

  ・本能寺の変が起こったとき、堺で遊覧していた家康は急遽三河国へ逃げ帰りました。そのルートの候補の1つが生駒の街道です。⇒このことについては、<問14>歴史が息吹く生駒の古道の(2)ご参照 

(4)( F )は、本能寺の変の11日後の6月13日の山崎の合戦で光秀を討ち、合戦の2週間後の6月27日の清洲会議を経て、その10か月後の天正11(1583)年4月19日から4日間の賤ヶ岳の戦いに勝利することで天下人への地歩を固めるが、山崎の合戦の翌月の1582年7月には山崎の地を手始めに太閤検地を本格開始した。太閤検地は、1598年まで続けられ、荘園制度の完全終了をもたらすことになる。

(5)天正12(1584)年8月に順慶が病死すると、その養子の定次が跡をついだが、翌年8月、突如、伊賀上野城に国替させられ、翌月の天正13(1585)年9月、( G )が 、但馬国出石城から紀和泉(紀伊・大和・和泉の三国)百十万石の太守一国以上を領有した大名として郡山城に入城。

  郡山城主となった( G  )は、太閤検地とともに、いち早く刀狩(兵農分離、つまり、武器を取り上げて農民には耕作に専念させることで年貢徴収の確実化を図ること。これで、平安時代半ば以来の農民の「武装化=武士化」は不可能になり、身分の固定化がなされた)も実施した。これにより、生駒の地の「武装した農民」(半農半武)も普通の農民に戻らされた。刀狩令は、天正16(1488)年には全国に発せられた。なお、( G  )は、暗峠を越えて郡山城と大坂城を往来して豊臣政権を支えました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Cご参照  

  太閤検地により、(公家や大社寺ではなく、実際の)土地保有者は石高所有者として検地帳に記載され、各村々はその結合体として、石高を中心に編成され、自然発生的な村が「行政単位=課税単位」として決定付けられることで政治支配の基礎とされた。 <土地所有形態を革新していった太閤検地と刀狩は、ともに、農民を武士の完全支配下におく政策だった。>

  小田原征伐をもって、天正18(1590)年7月、( F  )の全国統一はなった。 

(6)天正19(1591)年1月に( G  )が病死すると、その養子の秀保が跡を継いだ。秀保は、(  F  が開始した朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に文禄1(1592)年3月に出陣し、翌年10月に帰還した。生駒の地では、秀保が郡山城主のときの文禄元(1592)年、 高山村 東方ひがしかた(高山の東半分)と鹿畑が秀吉家臣の堀田一継の、高山村 西方にしかた(高山の西半分)が秀吉家臣の森可政よしまさの所領となった。

  秀保が郡山城主のときの文禄3(1594)年、( F  )は、改めて太閤検地の方針を規定  

(7)文禄4(1595)年4月、秀保が病死すると、その後継ぎがいなかった(大和豊臣家が断絶した)ので、同年7月、豊臣政権五奉行の第三席である増田長盛郡山城主となり、生駒の地もその支配下に入った。 

  生駒の地では、長盛が太閤検地を実施したようで、1595(文禄4)年中にそれが終わり、その結果、荘園制は完全に消滅し、21の村(大字)が成立した(のち、東田原村が2つに分かれて22の村となる。この22の村については、明治時代をご参照 )。最高石高は、高山郷ともいうべき高山村の1430石余、最低石高は、小倉寺山村の70石余。

(8)慶長3(1598)年8月 、( F  )病死。長盛は、慶長5(1600)年9月15日の( H )の戦いには参加せず、戦後の9月25日、出家して謝罪するも、高野山に追放され、のち、大坂夏の陣で豊臣氏に与し、戦後その責任を問われ自害した。

    ・( H )の戦いに敗北した西軍の将島津義弘は、敵中突破を敢行し、暗峠を越えて逃走しました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のFご参照

10江戸時代

 戦国の戦乱(=荘園制度を完全否定する世直しでもある)太閤検地によって荘園制は完全に廃止された。つまり、中世権力(平安時代末期より台頭してきた武士)が古代権力(平安時代までに権力を確立し、その力を中世権力と反比例させてきた貴族・大社寺)より土地・人民の支配権を奪うという400年に及ぶ歴史的作業がやっと完全終了し、江戸時代に入って幕藩体制(幕府と藩による領国支配) が確立され、鎌倉時代に入るころより進められてきた武士が全国の土地・人民を分割して支配する<武士が自己の支配地の人民から年貢を徴収する>仕組みがようやく完成した。

  ・1603年に江戸幕府が創設されてから約10年後の1615年に大野治房率いる隊は暗峠を越えて大和国へ侵入し、郡山城を陥落させました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のCご参照

  ・その約85年後の1689年、江戸時代前期を代表する諸学問の学者であり、紀行家でもあった貝原益軒が田原の里(現生駒市北田原町・四条畷市下田原)を訪れ、ここはあたかも桃源郷のようであると紀行文に記しました。⇒これについては、<問18>生駒に「桃源郷」があった!ご参照 

  ・その3年後の1692年、井原西鶴が、暗峠を舞台とする「数の子追い剥ぎの物語」が記された浮世草紙「世間胸算用」を刊行しました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のLご参照

  ・その2年後の1694年、芭蕉が暗峠を越えました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」の@ご参照

  ・その約10年後の1705年、お蔭参りおかげまいりが爆発的に流行し、一日七万人もの参加者が暗峠を越えました。⇒これについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のEご参照

  ・その5年後の1730年に開設された堂島米会所の米相場を東海地方に伝達するため、生駒山地天照山てんしょうやま旗振山(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)とされました(高見の烽とぶひに、このことについての言及あり)。

幕藩体制下、生駒の地の状況は次の通り

(1)( H )の戦いののち、大和国は小藩領と天領に細分されたが、生駒の地の所領地については、1605(慶長10)年前後の状況を記した「慶長郷帳」によれば、次の通り(乙田村については、なぜか不詳)。

 @高山谷東部・鹿畑⇒添下そえじもぐん・こおりの高山村 東方・鹿畑村・・・秀吉死後に家康に帰順して旗本に取り立てられた堀田氏の領地(687石余)

 A高山谷西部⇒添下郡の高山村 西方・・・秀吉死後に家康に帰順して旗本に取り立てられた森氏の領地 (743石余)

 B鳥見谷・生駒谷北部⇒添下郡の上村・東田原村・・・天領(代官小堀政一)

 C生駒谷中部⇒平群郡の小明村・俵口村・谷田村・山崎村・辻村・菜畑村⇒竜田藩領(片桐氏)

 D生駒谷南部⇒平群郡の壱分村・有里村・萩原村・小瀬村・小平尾村・藤尾村・大門村・鬼取村・小倉寺村・西畑村・・・天領(代官大久保長安)

 <こうした村々の名前は地名として今に残り、その地域の歴史を今の我々の目の前に伝えている。>

(2)1615(元和元)年

  鳥見谷・生駒谷北部・南部⇒上村・東田原村と南生駒の天領<(1)-D>が郡山藩となる(天領消滅)。

   ・1619(元和5)年には、郡山藩領は4,500石となる、との記録がある。

(*)1624(寛永元)年、黒添池くろんどいけ築造工事着手。竣工は、181年後の1803(享和3)年。

(3)1639(寛永16)年、生駒谷中部の竜田藩領の6ヶ村が郡山藩領に編入される(竜田藩領消滅)。

(4)1678(延宝6)年、東田原村が北田原村と南田原村に分かれる。(残された資料ではなぜか不詳だった)乙田村の再検地実施される。

(5)1679(延宝7)年、高山谷・鹿畑以外の領地再編成

 @鳥見谷・生駒谷中・南部⇒上村、山崎村・壱分村・藤尾村・大門村・鬼取村・小倉寺村・西畑村・乙田村(吉田源左衛門領、御餌指ごえざし<餌指とは鷹の餌となる小鳥を捕らえる職務>新三郎領を除く)の9ヶ村のみを郡山藩領とする。

 A生駒谷北・中・南部⇒北田原村・南田原村・小明村・辻村・俵口村・谷田村・菜畑村・有里村・萩原村・小瀬村・小平尾村の11ヶ村5千石を、旗本松平氏領とする(これは、以後幕末まで190年間続く)。

    ・交通の要衝たる辻村の豪農矢野氏の屋敷内に松平氏領の陣屋である生駒陣屋陣屋とは藩庁または代官所のこと)<ご参照⇒その1その2>を置く。

(6)1688(元禄元)年頃、乙田の御餌指領、天領となる。1801(享和1)年、乙田領の一部(天領の御餌指領)を郡山藩領に編入。

  ・この時代の中頃、進歩的意義をもった、つまり、次の時代へと社会を動かす要素を持った学問の二大潮流、蘭学国学が発展し、前者では「解体新書」(1771年に翻訳開始し1774年に刊行)が、後者では「古事記伝」(1764年に起稿し1798年に脱稿)が著された。なお、古事記伝は、暗峠のことを「この道は近いから直越じかごえという」と記しています。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠」のKご参照

11幕末・明治維新

 時が過ぎ、幕藩体制に対する批判が高まる中、嘉永6(1853)年6月3日に黒船が来航すると、これを機に幕末・明治維新という激動の時代に突入する。

 黒船来航の約5年後の安政5(1858)年6〜9年に安政五ヵ国条約が締結されて約200年にわたる鎖国の扉が開かれた。

  ・日本が開国すると、長崎に来航した外国人の中には暗峠を越えて江戸に向かう人もいました。これらの中には、長崎から江戸への旅のことを「大君の都」という書物に記したイギリスの駐日公使のオールコックもいました。「奈良市史 P.445」によると、彼は、文久元(1861)年5月12日に暗峠を越えました。⇒このことについては、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Gご参照

 反幕府勢力は、文久3(1863)年の天誅組の乱を嚆矢こうし(はじめ)に討幕運動を開始した。

  ・天誅組の乱は現地の民衆の支持を組織できなかったためにたやすく鎮圧されましたが、この反乱者の逃走ルートの1つになったのが生駒の街道でした。⇒このことについては、<問14>歴史が息吹く生駒の古道の(3)ご参照

 慶応3(1868)年12月9日に新政府が樹立されると、新政府軍は慶応4(1868)年1月3日、幕府軍と戦端を開いた(約1年3か月に及ぶ戊辰戦争の始まり)。この鳥羽・伏見の戦いは同月6日には新政府軍の勝利で終わり、翌日、新政府は、徳川家の圧政に苦しめられてきた万民を救うために徳川慶喜を追討すると宣言、翌月には反幕諸藩からなる大軍を江戸に向けて発した。

  ・鳥羽・伏見の戦いで敗北した幕府軍の逃走ルートの1つになったのが生駒の街道でした。⇒このことについては、<問14>歴史が息吹く生駒の古道の(4)ご参照

 民衆の幕府批判を強化するために日本史上で初めて旧支配者の圧政から人民を解放するとの名目で戦争開始が宣言されると、各地で、世直し一揆が起こった。生駒の地でも、慶喜追討宣言の2週間後の1月21日、「生駒谷におこった『世直し一揆』の一つである」(生駒市誌 X)矢野騒動)がおこり、幕藩体制崩壊の一翼を担った。。

  ()矢野騒動とは、旗本松平氏領(北田原村・南田原村・小明村・辻村・俵口村・谷田村・菜畑村・有里村・萩原村・小瀬村・小平尾村の平群郡11ヶ村)の領民の蜂起のこと。⇒矢野騒動については、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Iご参照 

 世直し一揆が激化し、単なる負担軽減要求から、文字通りの世直し、つまり、今日で言う土地制度(土地所有)の民主化(耕作農民が安心して農業できるだけの土地を平等に分配すること)を要求するものへと変化する、つまり、新政府の期待以上に民衆の旧支配者に対する批判が高まり、平等を求める反乱にまで発展しかねない様相を帯びてきた。それを察知した新政府と幕府は、新政府を支持するイギリスの忠告もあり、早期に慶喜追討戦を終わらすべく妥協し(つまり、慶喜は追討せず、すなわち、徳川家はつぶさず、静岡の80万石の大名とする代わりに江戸城は開城するとし)、慶応4(1868)年4月11日、江戸城は無血開城され、それを象徴的事件として幕藩体制は崩壊した。この後も戊辰戦争は、明治2(1869)年5月18日の函館戦争終結まで続くが、それは旧幕府軍の愚かな武士の意地による消化試合の戦いであって犬死(意味のない命を粗末にする死)するものを量産した(東北の戊辰戦争である秋田戦争において生駒氏は新政府側に組した)。なお、戊辰戦争で戦死した新政府軍の将兵は、慶応4(1868)年6月29日に新政府が創建した靖国神社(当初の名は東京招魂社)に、弔いの対象たる神として祀られた。一方、同じ戦争での死者であっても旧幕府軍側の人々は、東京招魂社に祀られることはなく打ち捨てられ、見せしめとされた。

12明治時代

 幕藩体制(武士が全国の土地・人民を分割して支配)に代わるものとして、法令に基づき(=法治主義により)政府が直接に全国の土地・人民を一括統治する<政府が全国の人民から一括徴税する> 仕組みが西欧の模倣でつくられ、それに沿って、行政組織が整備され、地租改正等により、地主制が成立した。結局、明治維新は土地の民主化は実現せず、それは昭和中期のアジア太平洋戦争の敗北による大日本帝国の崩壊後まで待たねばならなかった。

生駒の地での状況は次の通り

(1)1870(明治3)年、旗本堀田氏領上知あげち(官に返納)により高山村 東方・鹿畑村は奈良県に編入される、など。

(2)1871(明治4)年、廃藩置県により、郡山藩は郡山県となる。さらに郡山県が廃され、大和一円は奈良県となる。

(3)1889(明治22)年、北倭村、北生駒村、南生駒村発足(4月1日)。全22ヶ村

 北倭村・・・高山谷・鹿畑・鳥見谷の5ヶ村(添下郡の高山村・鹿畑村・上村・南田原村・北田原村)<下線は旧郡山藩

 北生駒村・・・生駒谷北部の6ヶ村(平群郡の山崎村・谷田村・俵口村・小明村・辻村・菜畑村)<下線は旧郡山藩領>

 南生駒村・・・生駒谷南部の11ヶ村(平群郡の小瀬村、乙田村、小平尾村、萩原村、藤尾村西畑村鬼取村大門村小倉寺村、有里村、壱分村)<下線は旧郡山藩領>

(4)以上のような行政整備、地租改正等にともなって生駒の地でも、地主制の形成が進展した。

  ・日露戦争(1904.2〜1905.9)が開始された7か月後の9月、与謝野晶子は、雑誌「明星」に新体詩「君死にたもうことなかれ」を発表しました。これは、非戦・避戦の精神が顕現化したものと考えられ、現在に至るまで、非戦・避戦を訴えています。かかる影響力のある新体詩を残した晶子は、生駒山も和歌に詠いました。⇒これについては、<問27>古来、生駒山は和歌や俳句に詠まれてきた。(6)ご参照

13昭和時代

 明治時代に入って導入された法治主義は模倣しただけ(=形だけ)のもので真の法治主義(民主的に制定された法令に基づいて統治される)ではなく、人治主義(法令ではなく有力者の勝手な裁量や判断に立脚すること)とさほどかわらなかったため、土地所有の民主化も基本的人権の尊重等も実現せず、地主制に立脚する非民主主義が国家のあり方となり、それは、朝鮮侵略、日中戦争、アジア太平洋戦争を導き、国の崩壊をもたらした。

 それに対する反省から、敗戦を機に民主主義(自由と平等)で権力を規制する日本国憲法<1946(S21)年11月公布、1947(S22)年5月施行>が制定されることで、真の法治主義(基本的人権・人民主権を規定した憲法を最高法とし、それに基づいた法令にのっとって政府が権力を行使する)が導入された。

 そんな民主化の流れの中で、土地所有の民主化(地主制の廃止=小作農の解放)が行われ、当生駒地域でも、「生駒史誌 X」によれば、「昭和二十一年十二月、生駒、南生駒、北倭の三町村<引用者注:北倭・北生駒・南生駒の3村のうち、北生駒村は、1921年(大正10)年2月の町制施行で生駒町と改称した単位に農地委員会が設立され、農地の買収と小作人の解放が推進された。( I )実施前の昭和二一年では、小作農家は四六八戸で全農家八〇五戸の五十八%を占めていたが、終了の昭和三十一年では、自作農家は一一九五戸で全農家一二八五戸の九三%に増加し小作農家は九〇戸七%に減少し、小作農はほぼ解放され」、生駒の地においても、地主制は崩壊した。

 こうして、政府が強制的に地主から農地を買い取り小作人に安く売り渡すという( I )により、全国でも、生駒の地でも、土地所有の民主化が実現した。

承前

  解答・解説

<問26>生駒の歴史<付録 : 現代の出来事>へ








<問26>生駒の歴史<付録 : 現代の出来事>(問題設定はありません)

                                 <問26>生駒の歴史
戦前

<1911(M44)年> 生駒トンネル工事に着工。1914(T3)年に竣工・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−➈ご参照。生駒トンネルについては、<問24>生駒ゆかりの諸群像の(2)もご参照 

<1918(T7)年> 日本初のケーブルカーが鳥居前駅〜宝山寺駅間に開通。それは、1929(S2)年には生駒山上まで延長され、生駒山上遊園地が開設された。この遊園地で1931(S4)年から動いている飛行塔は、全国最古の現役の大型アトラクション・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−Bご参照。

1918(T7)年>泉鏡花作「紫障子」発表。この作品の中で、宝山寺の浴油供よくゆくが登場・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(7)ご参照

<1919(T8).1.1・1.15>「赤い鳥」(1・2月号)にて、生駒山も舞台とする、芥川龍之介作「犬と笛」が発表される・・<問23>短編小説「犬と笛」ご参照

<1930年代前半> ブルーノ・タウトが、生駒山嶺小都市計画を立案・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(1)ご参照


戦後

<1951(S26).9〜1952(S27).11> 宇野浩二作「芥川龍之介」が「文学界」に連載された。1953(S28).5 刊行。この作品によると、芥川龍之介が、直木三十五、宇野浩二と共に宝山寺方面に遊行した・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(2)ご参照

<1981(S56). 8>宝山寺も舞台とする、映画「男はつらいよ(第27作)〜浪花の恋の寅次郎〜」公開・・・<問10>「男はつらいよ」生駒の巻ご参照

<1993(H 5). 4> 奈良先端科学技術大学院大学開講(法律上の開学は、1991(H3).10)。これにより、生駒市在住外国人が増加した・・・これについては、<問9>国際色豊かご参照

<1997(H9)>「こども100当番の家」制度の家庭版が生駒市で全国に先駆けて開始された・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−ご参照。

<1998(H10)> 貞久秀紀さん、詩集「空気集め」でH氏賞を受賞・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(6)ご参照

<1999(H11).12〜2004(HH19).9> 山中伸弥さん、奈良先端科学技術大学院大学に在職・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(3)ご参照

<2000(H12)> レインボーラムネ商品化なる・・・レインボーラムネについては、<問11>虹色に輝く「幻の菓子」ご参照

2000(H12).8>「大和都市計画事業高山土地区画整理事業(学研高山第2工区宅地造成事業)」の環境影響評価書がとりまとめられ、3種の植物と6種の動物の絶滅危惧種が事業区域内で確認された。うちの1つは、キキョウだった。・・・<問7>「氷河時代の生き証人」ご参照

<2006(H21).3> 「平成1920年度 生駒市自然環境調査報告」がとりまとめられた。この中で、
   生駒市の山地には二ホンリスが生息していることが確認された。・・・<問6>息づく野生動物ご参照
   アサギマダラは長距離の渡りをするチョウで、生駒山は渡りの通過点となっている、と記された。・・・<問5>不思議な「旅する蝶」ご参照

<2006(H21).3.27けいはんな線開業・・・けいはんな線については、<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(4)及び(1)−➈参照。

<2009(H21)年10月〜11月> 市議解職請求署名(リコール署名)・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−ご参照。

<2010(H22).5>森見登美彦さん作「ペンギン・ハイウェイ」が刊行。同年、第31回日本SF大賞受・・・<問22>小説「ペンギン・ハイウェイ」ご参照

<2010(H22).10.3011. 311.14> 第1回いこま国際音楽祭開催<第6回(2015. 11. 211. 8)まで毎年開催された>・・・<問8>芸術の香りあふれるご参照

<2014(H26)年3> 生駒市が環境モデル都市に選定された・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−ご参照。

<2015(H27)年> 生駒市は「介護予防・日常生活支援総合事業」を導入・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−ご参照。

<2015(H27)年9月20日> 生駒市図書館が「第1回ビブリオバトル全国大会」を開催<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−ご参照。

<2016(H28).1>金時鐘さん、「朝鮮と日本に生きるー済州島から猪飼野へ」で第42回(2015年度)大佛次郎賞を受賞・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(5)ご参照 

<2016(H28).8> 前野ひろみち作「満月と近鉄」(「ランボー怒りの改新」所収)刊行・・・<問24>生駒ゆかりの諸群像の(4)ご参照

<2017(H29).7.18> 生駒市の地域エネルギー会社である「いこま市民パワー」設立・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(1)−ご参照。

<2018(H30).8.17> 劇場アニメ「ペンギン・ハイウェイ」公開・・・<問22>小説「ペンギン・ハイウェイ」ご参照
   漫画「ペンギン・ハイウェイ」も「月刊コミックアライブ」20185月号から20194月号まで連載。

<上記にある以外の全国初の行政施策>・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(2)ご参照。

<上記にある以外の全国一またはトップクラスの行政施策等>・・・<問25>生駒の全国初・全国先駆け・全国一・全国唯一・全国最古の(3)ご参照。

<問0> 市等作成問題

「広報いこま(11年10月15日号) 特集 : 市制40周年特別企画 生駒検定」 <写真問題(6問)と一問一答問題(20問)の問題と解答>


いこま検定(解答はありませんが、80点以上取れば次へ進めます)



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<問1>の解答・解説  

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解答> (1)磐余彦尊(いわれひこのみこと)   (2)饒速日命(にぎはやひのみこと)   (3)長髄彦(ながすねひこ)   (4)三炊屋媛(みかしきやひめ)   (5)可美真手命(うましまでのみこと)

解説
 @問題文の太字の部分に現われているように、生駒の神話は「非戦・避戦の精神」に貫かれています。このことについては、生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<大要>をご参照。

 「非戦・避戦の精神」については、日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」ご参照。

 A「生駒の神話」全般については、生駒の神話ご参照

 B宮崎駿監督の映画「もののけ姫(リンク)」は長髄彦(ナガスネヒコ)の話をモデルにしたもの(自然と人間の共生/原生林に生きる人間とそれを切り開く人間の共生への道)で、主人公であるアシタカ〔ヒコ〕↓ はナガスネヒコに由来すると言われています(ちなみに、「千と千尋の神隠し」のハク(ニギハヤミコハクヌシ)はニギハヤヒノミコトに由来しているといわれています)。なお、長髄彦(ナガスネヒコ)は元の名を中州根彦といいます。中洲根彦(ナカスネヒコ・ナガスネヒコ)とは、中洲(ナカス・ナガス<彦をヒコともビコとも言うように日本の古語には清音と濁音の区別はなかった>/なかつくに=中心の国/倭=現在の奈良県)の根(ネ/根・根本・基礎)をつくった彦(ヒコ・ビコ/おおいなるひと・すぐれたひと・大夫)という意味を持ちます。従って、長髄彦は、長い髄(脛/スネ)の彦(男性)という意味ではありません。アシタカ〔ヒコ〕の足・脛が特別長いことはないように。

 C「中心の国、倭の根をつくった大夫」である長髄彦が生まれ育ち活動したのは、生駒山・平群の山一帯でした。その生駒山・平群の山につては生駒山のこと矢田丘陵(記紀では「平群の山」)ご参照ください。


アシタカ〔ヒコ〕1.jpg

アシタカ〔ヒコ〕2.jpg

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2014年03月10日

<問2>の解答・解説

                  問題文はこちら

解答> (1)難波宮なにわのみや  (2)<問 A>対馬 <問 B>堂島  (3)ヤマトタケルノミコト  (4)万葉集

解説

(1)について  難波宮は、飛鳥時代・奈良時代に難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿です。聖武天皇はここを平城京の副都としました。生駒山の謎については、古代日本における生駒山の不思議と謎をご参照  参考 : 大和森林物語 謎の山・生駒山を歩く@〜G


(3)について  矢田丘陵(記紀では「平群の山」)(2)〜(4)ご参照



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2014年03月09日

<問3>の解答・解説 

                  問題文はこちら
解答> 行基

解説Wikipedia


行基〜『消された王権・物部氏の謎』より〜   竹林寺<じゃらん>   行基生誕1350年<(竹林寺の写真あり) >

行基は死去に際して竹林院から少し真南の往生院で火葬にされたが、これが日本で最初の 火葬である。


参考・・・生駒山のこと

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2014年03月08日

<問4>の解答・解説  

                  問題文はこちら

解答> 村田珠光じゅこう


 B茶せんは「茶筌」「茶筅」どっち?⇒ご参照 

 Awikipedia <村田珠光  後土御門天皇  >

 @生駒には、茶筌づくりを中心とした竹文化が息づいており、それを象徴する催しとして、毎年、高山竹林園にて「高山竹あかり(の夕べ)」が開催されています。↓第18回<14(H26)年10月>のご案内(クリックで拡大)

竹あかり.jpg

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2014年03月07日

<問5>の解答・解説

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解答> アサギマダラ



11八重山諸島与那国島.jpg


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2014年03月06日

<問6>の解答・解説

                  問題文はこちら
解答> ニホンリス



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2014年03月05日

<問7>の解答・解説

                  問題文はこちら
解答> ききょう


解説> Wikipedia    「平成19・20年度 生駒市自然環境調査報告」   「大和都市計画高山土地区画整理事業に係る環境庁長官意見」ミラー   「大和都市計画高山特定土地区画整理事業の環境影響評価書に係る建設大臣意見」「大和都市計画高山土地区画整理事業に係る環境影響評価書に対する建設大臣意見」  〇秋の七草は万葉集で挙げられましたが、万葉集の「朝貌あさがおの花」は、現在のキキョウを指すといわれます(現在の朝顔は、奈良時代末期以降に日本に来ました)<ご参照>。

2014年03月04日

<問8>の解答・解説

                     問題文はこちら
解答> いこま国際音楽祭



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2014年03月03日

<問9>の解答・解説

                  問題文はこちら               
解答> 約60カ国


解説> 生駒市には60カ国弱もの外国籍の人々が居住しています。生駒市は、これほど多くの外国籍の人々が居住する国際的なまちといえます。

 生駒市在住外国人の国籍内訳⇒14(H26)年4 月1 日現在13(H25)年4 月1 日現在.pdf

 生駒市は、外国人投票権条項のある常設型(実施必至型)住民投票条例を制定する(ご参照)など、生駒在住外国人の意見も反映したまちづくりをしています。

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2014年03月02日

<問10>の解答・解説

                  問題文はこちら
解答> 松坂慶子



<ご参考> @本地垂迹説ほんちすいじゃくせつを説明するときに参照されるのが、宝山寺所蔵(奈良国立博物館寄託)の春日本迹曼荼羅かすがほんじゃくまんだら(重要文化財)です。
         A生駒市のロケ地














2014年03月01日

<問11>の解答・解説 

                  問題文はこちら
                                            
解答> レインボーラムネ <↓ 画像は、下記解説@の記事より>

asahi(130904)レインボーラムネsyashin.jpg

解説



 HTVでの紹介⇒毎日放送の水野真紀の魔法のレストラン(18年10月17日)/東京放送系列のワールドビジネスサテライト(18.8.17) /毎日放送のちちんぷいぷい(18.6.14)/NHK総合大阪のえぇトコ(17年12月6日)/テレビ朝日系列のスーパーJチャンネル(17年6月27日)/NHKのあさイチ(17年3月30日)/日本テレビ系列のスッキリ!(16年3月23日) /日本テレビ系列の月曜から夜ふかし(15年2月2日)/テレビ朝日系列のモーニングバード!(14年6月5日)/読売テレビの秘密のケンミンshow(14.1.14)ミラー/日本テレビの未来創造堂(08年12月26日)



 Eどうしても「幻のラムネ」を食べてみたい方への情報⇒幻のレインボーラムネを並ばずに手に入れる方法 / サンワ酒店さんでは入荷(不定期)があったときに販売されています。

 D<14(H26). 9.17>奈良発「幻のラムネ」大人を魅了する味わい(解説記事ミラー

 C<14(H26). 6. 7>ふるさと納税の記念品に加えられた「レインボーラムネ」は、希望が殺到して実質4日間で予定数に達しました(報道資料.pdf報道記事.jpg 報道記事.pdf報道記事

 B<14(H26). 6. 2> 「幻のラムネ」効果でふるさと納税が、レインボーラムネが記念品に加わった14(H26).6.2の初日だけで78万円!⇒報道記事.jpg

 A<14(H26). 5.27>レインボーラムネがふるさと納税の記念品に加わったことが公表されました : 報道記事.jpg 報道記事.pdf報道資料

 @懐かしさ膨らむね レインボーラムネ (購入申し込み先の記載あり)

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2014年02月28日

<問12>の解答・解説

                    問題文はこちら 
解答> 環境モデル都市


解説> 環境モデル都市

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2014年02月27日

<問13>の解答・解説

                  問題文はこちら

解答> @ 松尾芭蕉  A 和気清麻呂  B 鑑真  C 豊臣秀長  D大阪(大坂)夏の陣  E 伊勢神宮  F島津義弘  Gオールコック  H行基  I長州   J遣唐使   K本居宣長   L井原西鶴   M小林一茶   N A 対馬 B 堂島 

解説

1暗峠・暗越奈良街道について


A古代より難波と大和を結んできた奈良街道は複数ありますが、そのうち、最も急峻であるが最短で難波と大和を結んだのが暗越奈良街道でした(古代の河内平野と大和盆地.jpgご参照)。暗越奈良街道(現国道308号と重なる)と並ぶ代表的な奈良街道が、高低差が少ない点で楽な竜田越奈良街道(現国道25号と重なる)

B暗越奈良街道ができた時期(レファレンス共同データベース)

C司馬遼太郎「関ケ原」の舞台の1つとなっています・・・生駒検定<全国版><問24>生駒ゆかりの諸群像の(10)ご参照




西畑の棚田.png
2各問について

 Aについて Wikipedia和気清麻呂

 Bについて Wikipedia<鑑真


 Dについて  郡山城の戦い   大阪(大坂)夏の陣については、このページ(リンク)やikipediaをご参照  司馬遼太郎「城塞」  「城塞」の中で幸村が言及している「中垣内越え」は、「龍間越え」とも「古堤ふるつつみ街道(現阪奈道路が大東市龍間付近で上下線に分離するあたりで北ルートと南ルートに別れますが、幸村が言及した木津に通じる方は前者)」ともいい、現大東市龍間付近で阪奈道路と重なっています。司馬さんは「城塞」の冒頭で、「中垣内(龍間)越え」の坂のことを、「孔舎衙坂くさかざか」と言っています。古堤街道(中垣内越え/龍間越え)のルート街道歩きさんより引用させていただきました)。  司馬さんは、「関が原」の中でも、暗峠を小説の舞台にしています[<問24>生駒ゆかりの諸群像の(10)ご参照]。

 Eについて Wikipedia<お蔭参り

  お伊勢参り
   ・広義の伊勢本街道(大坂〜奈良<暗越奈良街道>/奈良〜桜井<上街道>/桜井〜榛原<初瀬街道>榛原〜伊勢<狭義の伊勢本街道>)の全行程マップ等(その一部⇒暗峠付近のマップ
  
   ・正吉「・・・・・暗峠を越えてなあ、奈良やあ。そっから榛原へ行って、その先はお伊勢さんまでもう一本道やあ。・・・・・」(NHK連続テレビ小説『あさが来た』<第71話>の一場面/その記事その動画
   

   ・「高山八幡宮古記録」に、「おかげまいり、四国阿波から30万人が高山を経過(3〜5月)」とあります。こちらの参詣団は暗越ではなく傍示越、つまり、阿波→大阪湾→淀川→枚方→交野→かいがけ道<交野から傍示を越えて高山へ>→高山→奈良→伊勢のルートで伊勢神宮までいったのでしょう。

 Fについて Wikipedia<島津義弘>  300人で80000人に突っ込んだ島津義弘ミラー

 Gについて Wikipedia<オールコック>  オールコックらが奈良を経過したときの様子.pdf(『奈良市史 通史三』の「第五章 幕末の奈良 第一節 幕末の奈良町」の444〜446ページ

 Hについて  Wikipedia菩提僊那仏哲道璿>  行基は暗越奈良街道を整備したともいわれていますが、それは、問題文に書いたことを行基がおこなったときかもしれません(記録サーチの要あり)。  東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」としています。

 Iについて
  ・矢野騒動については、生駒検定<全国版><問26>生駒の歴史<続き>1868(慶応4)年のところを参照
  ・松平氏の陣屋(生駒陣屋)  ・生駒谷に残る傘形連判状   ・傘連判状の謎.jpg   ・生駒の一揆.pdf(「いこま歴史読本」より)
  ・辻村の地は、生駒から、京都、大阪、奈良、郡山、龍田方面に通じる道路の四ツ辻にあり、しかも、南北に細長い11か村の領域の中心にあったので陣屋が置かれました。  

 Jについて  遣唐使と生駒のかかわりといえば、それが暗峠を越えて暗越奈良街道を往来したということのほかに、702(大宝2)年に出立した第8回遣唐使で山上憶良らとともに中国に渡った美努岡萬みののおかまろ(wikipediaご参照.pdf)を忘れることができません。

 Kについて   wikipedia本居宣長古事記伝

 Lについて  wikipedia<井原西鶴世間胸算用>   問題文の挿絵は生駒市デジタルミュージアムミラーより

 Mについて  wikipedia<小林一茶


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*あああ
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<問14>の解答・解説  

          問題文はこちら

<解答> (1)一休(一休宗純)   (2)徳川家康   (3)天誅組   (4)鳥羽・伏見

<解説>

(*)

(1)の問題のことについて  一休さんの通い路(「生駒の古道」<紹介記事報道資料 ↓ 表紙>より)

13生駒のい古道 表紙.jpg

(2)の問題のことについて

 <1>「家康の三国境・伊賀越え」
  @その経路

  A三国境を駆けた家康の逃避行(上記「生駒の古道」より)


(3)の問題のことについて   奇兵隊<wikipedia> 天狗党wikipedia 天誅組wikipedia 赤報隊wikipedia>  伴林光平wikipedia>   [美しき日本] 奈良 天忠組   なら再発見 天誅組決起150年−夢破れた「皇軍御先鋒」   問題文に記載した地図では、北佐越付近の磐船街道は天の川より少し高いところを通っています。今よりずっと以前は、汀線ていせん・みぎわせん(海面・湖面・川面と陸地との境の線)はそのあたりだったのです。だから、大阪湾よりやってきた船は、天の川源流にある、海の神を祀る住吉神社付近まで来ることができたのです。

(4)の問題について   戊辰戦争wikipedia  鳥羽・伏見の戦い<wikipedia>   いこま歴史散歩の1968(慶応4)年の欄には「鳥羽伏見の戦い起こり、砲音聞こえる。」とあります。   奈良から伊勢への伊勢街道はこのルートマップをご参照  

(*)昔の人は行き先をもって街道名としました。奈良へ(奈良街道)、伊勢神宮へ(伊勢街道)、吉野・大峰へ(大峰街道)、高野山へ(高野街道)。そして、それらすべての街道は熊野参詣道さんけいみち(↓ 下図参照)につながっていたので熊野街道ともいいました。生駒北部の主な道も奈良街道・伊勢街道・大峰街道・高野街道、そして熊野街道と呼ばれていました。

 古くは、すべての道は熊野に通じ、「蟻の熊野詣もうで」と言われるほど全国から大勢の参詣者が切れ目なく熊野に訪れたと伝えられています。

14熊野本宮観光協会〇.jpg


2014年02月26日

<問15>の解答・解説  

                  問題文はこちら

解答> イザナミ(伊弉冉尊いざなみのみこと


出典> 問題文中の4つの地図の出典(上から順)
         生駒市誌生駒市誌は、古代の生駒を「古大阪湾に浮ぶ菱形の緑の島」と表現しています。)>
         竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史

解説>日本書紀の国生み神話でいう「洲」は何なのか、どう読むのか、については論争のあるところですが、古代には船で行けるところは途中が地続きでも、「洲=島=船で行くところ」として意識されるときがあったとのことであり、洲しまとは、島や半島も含め船で行き来する「海上交通の要衝」となる地域のことであったようです(森浩一「日本神話の考古学」第1章 国生み物語と海上交通ご参照)。また、「洲」は「クニ」と読み、「洲国(クニ)」の略で、限定された一定領域(海に接した一地域・一地点)を指す言葉とのことです(古田武彦「盗まれた神話 記・紀の秘密」ご参照」)。この2つの説を総合すると、「洲」を「しま」と読むか「クニ」と読むかにかかわらず、「洲とは、島・半島であるなしにかかわらず、とにかく海上交通の要衝となる地域をいう」というのが最も説得力のある説となります。
 さて、今より2千数百年前までの縄文時代は、現在よりも温暖でした。そのため、三内丸山遺跡に代表される大規模集落が日本列島の北部にあったのです。温暖であるがゆえに、いわゆる「縄文海進(縄文時代での海の水位上昇による陸地への進出)」により、日本列島の平野部は海の底でした。大阪平野・奈良盆地・京都盆地(山城平野)もすべて海の底で、この3つは一繋がりの海でした<1万年前の畿内の概念図折節の記より)>。貝塚のあるところが当時の海岸でした。縄文時代の終わりごろから、気温の低下、地盤の隆起、河口の堆積により「海水後退」が進行する中で、大阪平野は海・潟かた砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼)・湿地帯という地形になり、奈良盆地や京都盆地は湖と湿地帯となりました。かかる地形における湿地を利用して弥生人は水田稲作を発展させたのです。このような、干潟や湿地帯一面に葦あしが生い茂っていて日本列島の中央に位置する、生駒を中心部とする大阪平野・奈良盆地・京都盆地一帯、または、それより狭く奈良盆地のようなところを日本神話は葦原中国あしはらのなかつくにの代表的舞台(中心部)としていますが、かかる地形では、人々の活動にとって重要だったのは船により人や物を運べる海・湖・潟や河川でした。これは弥生時代の次の古墳時代・飛鳥時代になっても変わりませんでした(「古代では、一番最初にできるのは海上国家、港の近くに都ができて発展するわけです。ところが年月がたつうちに内陸部に入っていく。・・・・・路はあまりないんです。当時の交通はほとんど川です。・・・・・川が水路。八割まで川。造られた道は、・・・・・もうほんとに二つか三つ、それと獣道に似た小道、あとは全部川です。」<黒岩重吾「古代史への旅」より>)。風水では都は背山臨水の地がよいとされており、それに即して平城京が造られたことは、その南方には、奈良時代になったころにもまだ広大な湿原・湿地が拡がっていたことを今に伝えています。
 このような地形において居住・活動する古代(弥生時代)の人々と現在人の私たちとでは国土観が大きく異なります。現代人の感覚で古代のことを考察しては間違えます。私たち現代人の国土観は、まず平地(平野)があって、自分たちはそこで居住・活動する。近くまたは遠くには海があり、海で活動することもあるが、主たる活動地はやはり平地(平野)である。そして、昔、陸の隆起によって山ができており、そこから川が流れてくる、というものです(「内陸から時には海へ」つまり、内陸で居住・活動、時には海へ、川は山からかってに流れて来る)。しかし、古代の国土観は、まず、取り付く(自分たちが居住・活動するための拠り所となる)しま(海上交通の要衝となる地域)がある(今日「取り付く島がない」という言葉は、元々は「自分たちが居住・活動するための拠り所がない」という意味だったのでは?)。そのまわりには海があり、そこは、船で活動する場であり、その沿岸に更なる活動拠点をつくれる。そこから川を交通の手段に利用して山麓・山中の川沿いに居住・活動範囲を拡げていける、というものです(「洲から内陸へ」つまり、洲から海へ、海辺から川を遡って内陸へ、と居住・活動を拡大/森浩一「日本神話の考古学」第2章 黄泉の国の世界ご参照)。先に紹介した「年月がたつうちに内陸部に入っていく」という文も、かかる国土観に基づくものでした。かかる国土観は、山から流れてくる川が氾濫して広大な平野を作ったのではなく、平野を覆い盆地を満たしていた古代の海が退いていった後に現在の海までの水路として川が残った(そして、海底であった平野・盆地は海水後退とともに、海→塩分の残る湿地→葦原→塩分の抜けた湿地→水田へと変遷していった)という事実に基づくものです。なお、卑弥呼の時代(弥生時代後半)の日本の地形(谷川健一「列島縦断地名逍遥」よりご参照)について魏志倭人伝が伝えていることを問題文中で指摘しました。
 従来は、古代の地形がどうなっていたかという視点をおろそかにしたまま神話を含む古代のことを考えていたため、疑問点(謎)が解けず、また、的外れな考察になっていたと批判されるようになってきました。問題文に掲載した4つの地図をみればその批判に共感できるのでないでしょうか。
 なお、記紀に記された国生み神話の豊秋津洲を本州という大きな島だする説や、洲は国だとして豊秋津洲を大和の国のことだという説もありますが、本州や大和の国は海岸・川・山から構成されています。なのに、なぜ日本書紀は、本州または大和の国を生んだのち、海・川・山を生んだとするのでしょうか。説明できません。まず本州または国という平地を生んだのだ。というのなら、これは、まず平地ありきという現代人の国土観に基づく発想ですが、それによれば平地が生まれたら、次に山が生まれ、次に川が生まれて山から流れてくる、となるはずですが、日本書紀は逆に、次に川を生み、次に山を生んだ、と記しています(森浩一「日本神話の考古学」第2章 黄泉の国の世界ご参照)。
 本州だとする説については更に、記紀が書かれた8世紀初頭の東北地方はまだ蝦夷えぞ地であり、記紀の作者には本州全体が自分たちの国という認識はなかっただろうし、そもそも津軽海峡はまだ、見たことはないのはもちろん、その存在についても確信できていない彼らに本州という大きな島という認識・発想があったとは考え難いでしょう。また、越洲こしのしまが本州の一部ではなかったことをきちんと実証した上で豊秋津洲は本州だと唱えられているのではないことも説得力を失わさせています。
 古代、本州の中の畿内にも当然海上交通の要衝があったはずであり、だとすれば、畿内の海上交通の要衝として最適であったのは、島から島状の半島に地形を変化させていた生駒であり、やはり、豊秋津洲は古代の生駒のことだとするのが妥当な説です。

<追記1>海の向こうからやって来た人々は、平均して年に数百人〜千人程度だったという試算があります(どれだけの人々が渡来してきたのか.pdf)。こんな少人数で海の向こうから未知の土地にやって来た人々が居住・活動しようとすれば、まず島や半島など海上交通の要衝となるところを活動拠点とするでしょう。

豊秋津洲のイメージ 1↓
豊秋津島 修正.png
 <海の上に崇高に浮かぶ。近づけば、緑豊かな島状の半島だと分かる。日本海・近淡海(ちかつあわうみ/現琵琶湖)方面から南進してきた人々(ニギハヤヒもその1人)や瀬戸内海を東進してきた人々(イワレヒコもその1人)が目にしたのはこんなに美しい島(実際は島状の半島)でした。これを見れば、ここに住みたくなるのは当然でした(だがしかし、神話でいう豊秋津洲は無人ではなかったのです。ナガスネヒコもそこの住民の1人)。この緑豊かな秋津島は、生駒の神話の舞台の1つとなり、のちに、「あきつしま」は美(うま)し国大和の枕詞となります(舒明天皇のうたご参照)。>

豊秋津洲のイメージ 2↓
安土城76.jpg
 <信長が安土城を築いたときは安土山は琵琶湖に浮かぶ半島だった。それと同じく、渡来人がやってきた弥生時代の生駒山も大阪湾に浮かぶ半島だった。>

<追記2>秋津は、蜻蛉(アキツ)の古名であり、トンボのことです。トンボは稲作をする人々にとっては大切な存在(益虫)です。幼虫のヤゴのときは水中で、成虫になれば空中で悪いもの(害虫)を食べてくれます。ですから、トンボは豊かな秋の実りをもたらしてくれます。また、トンボは人間を恐れない友人のような存在です。人間を支えてくれる大切な存在の比喩として、また、秋の実りをもたらす豊かさの象徴として「秋津=蜻蛉」(アキツ)が当てられたのです。ということで、豊秋津とは、地名・固有名詞ではなく、「(トンボがたくさんいる)豊かで大切な」という様態を示す、いわば様態詞です。豊秋津の豊は豊かさを強調する、または、語句全体に美しさを加える接頭語です。古代の生駒は、葦原中国あしはらのなかつくにの代表的舞台の根(ネ/根本・基礎)の部分にあたるところといってもよいほどに特に重要な洲であったので豊秋津洲(豊かで大切な洲)と呼ばれたのでしょう。生駒山も古代日本において特別な位置を占めていたのではないかといわれています生駒検定<全国版>問2の解説でご紹介した古代日本における生駒山の不思議ご参照)。
 なお、洲・島という語句は、時代が下ると「国」という意味も持つようになります。日本書紀の神武東征神話には、神武天皇が自らの治める国を秋津洲あきつしま(豊かで大切な国)と名付けたと記されています(下に注)。また、日本書紀・古事記には、雄略天皇が、虻アブにかまれたときに蜻蛉あきつ(トンボ)が飛んできてその虻を食べ去ったことにより、ヤマト(倭)の国を「蜻蛉島あきつしま」(トンボが幸せと豊かさをもたらしてくれる国)と名付けた、と記されています。
 (注)神武天皇は自らの治める国を「狭い国ではあるけれども、蜻蛉がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国」といっています。これは、生駒山を含む山々がトンボがトナメしているように連なり囲んでいる湖と湿地帯の奈良盆地をいっています。本州のことをいっているのではありません(念のため)。

<追記3>海洋的性格を持つ伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ)

<追記4>「国生み」は海洋民の伝承弥生人は海人的性格も備えていた


<追記5>日本が沈没すると、再び生駒山は大阪湾に浮かぶ島に戻ります。「大仏殿の標高(その近くの県庁の標高約90mよりやや高い)+大仏殿の床の高さ+大仏の台座の高さ+大仏が座っている蓮華の高さ(約3m)+大仏の肩までの高さ(約10m)」の高低差まで日本が沈没したと仮定した場合の生駒山が、映画「日本沈没」で描かれました↓。
日本沈没150.jpg


<追記6>世界の創世神話には「なる(成る)」「うむ(生む)」「つくる(造る)」の3種の語り口がありますが、日本の神話では「成った」神が洲しまを「生んだ」という語り口になっており、「つくる(造る)」という語り口はありません。これは、日本には「絶対神=万物の創造主」という概念が生まれなかったためと考えられます(「なる」で始まる世界ミラー>ご参照)。
 また、日本の創世神話は淡路島の海人族あまぞくの「島生み神話」が元になっているともいわれており、その点からも、今日「国生み神話」と呼ばれている日本の創世神話は「(「国土=国」の元となった)州しま生み神話」といった方が正確でしょう。日本の創世神話は、のちに「人間が造っていく」国土(国)の元となった州を神が「生んだ」という構図になっています。創造主ではない日本の神は、完成された国土(国)は「造らない」のです。
 イザナギ・イザナミは日本の国(東北を除く本州、九州、四国、他の五つの島)を生んだ、との説がありますが、この説は、日本固有の領土には北方領土を含む北海道、東北は含まないと外国人に解釈されてしまう危惧も伴います(もっとも、北方領土を含む北海道、東北や沖縄はヤマト王権の支配外にあったので、この解釈の方が正しいともいえます)。

<追記7>ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)であるとするなら、奈良盆地を中心とする古代日本は、イザナミが生んだ8つの州という周縁から生成されたといえ、<追記6>との関連でいえば、「なった(成った)」といえるのではないか。

<追記8>今日多くの人々が住む平野や段丘は、もともとは海水面下で形成され、海水面が下がることで姿を現したものです(平野のできるまでをご参照)。

<追記9>日本にも伝来した最古の仏典とされる「法句経ほっくきょう」には次の記述があるように、「洲」は「究極の拠り所」という意があり、国生み神話でいう「洲」は「究極の拠り所たる島」と考えることができる。
   心はふるいたち 精進(はげみ)つつしみて おのれを理(とと)のうるもの かかる賢き人こそ 暴流(あらなみ)もおかすすべなき 心の洲(しま)をつくるべし(友松圓諦訳)
     (現代語訳)思慮ある人は、奮い立ち、努め励み、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。(中村元訳)

<追記10>びっくり!!生駒山は島だった?.pdf

<ご 参 考>生駒山のこと

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2014年02月22日

<問16>の解答・解説

                  問題文はこちら
解答> 長弓寺

解説>長弓寺の三重塔は、1279年(鎌倉時代)に建てられた本堂(国宝)とほぼ同時期(1285年頃)に建立されたが、早い時期に二層・三層部分を失い、近世には初層(一階)部分のみしか残されていなかった。その初層部分も、1934(S9)年の室戸台風で倒された木の直撃により本堂の屋根が大破した際、その修理費用を捻出する為に売却され、奈良の宮大工により鎌倉へ移建され補修されて「長弓堂」と名付けられたと伝えられる。戦後、西武グループの創始者の手に渡り、1954年、前年に開業した品川プリンスホテル(1978年に隣接丁目に開業の同名ホテルとは別ホテル)の庭に再移築され、「観音堂」と名付けられた。その後、同ホテルは1968年に高輪プリンスホテルと改称され(さらに2007年にはグランドプリンスホテル高輪と改称)、1971年には建て替えられた。その際、同ホテルの庭は、皇居新宮殿なども手がけた作庭家の故楠岡悌二氏により約2ヘクタールに及ぶ大庭園として整備され、日本庭園と名付けられた。

 同ホテルの敷地内(港区高輪3丁目南西部一帯)では、1982年にグランドプリンスホテル新高輪、1990年に国際館パミール(コンベンション施設)、1998年にザ・プリンス さくらタワー東京(高層ホテル)が建てられ、グランドプリンスホテル高輪とともに広大なホテル・コンベンションエリアを形成した。これが、プリンスホテル高輪エリアであるが、その中心となったのが日本庭園であり、さらにその中核をなしているのが、周囲には滝を持つ大きな自然池茶寮さりょう(惠庵)(昭和の名建築家故村野藤吾氏の設計による1985年築の純日本様式の数寄屋造り)・鐘楼(1656年に建立されたもので1959年に奈良市の念仏寺より移築)・茶室(竹心庵)、正面には山門(来歴不明確)、といった日本の自然美・伝統美を配した「観音堂」である。

 「観音堂」の内部に立つ四天柱(周囲の4つの柱)には壁画が描かれており、その中央には「十一面観音半迦(踏下)像」(写真/室町時代の作以外の来歴不明/十一面観音半迦(踏下)像の説明)が安置されている(観音像が安置されている御堂みどうだから「観音堂」と名付けられた)。

 人々に慈悲をもたらす観音像を安置する「観音堂」と、それを取り囲む日本庭園は無料で開放されており、国内外から東京にやってくる人々や東京という大都会に労住する人々の癒しと憩いの場所となっている(最寄駅等の地図アクセス)。

 <追伸>Wikipediaの長弓寺の項には、日本庭園に配置されている鐘楼と山門も長弓寺から移築されたものだと記されているが、グランドプリンスホテル高輪に問合わせた限りでは、それは確認できなかった。

 <追伸>参考・・・動画「雨の長弓寺(18.6.29)<奈良、時の雫 17 >

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2014年02月14日

<問17>の解答・解説

                  問題文はこちら
解答> シカ


解説

 @「生駒」の語源・由来  A知里真志保教授編纂「地名アイヌ語小辞典」では、「yuk シカ。―この語は、いま、もっぱらシカの意に用いられるが、もとは狩りの獲物の中でその肉が食料として重要であったクマ・シカ・エゾタヌキなどをもさした。」とあります。  B鹿と人間  C縄文時代から時代は下っても生駒と鹿の縁えにしは強く、生駒の山田川の源流域に生息していた鹿が、鹿を神使とする春日大社に奉納されたことが、「奈良の鹿」のルーツとなりました(問20をご参照)。

 〇参考・・・生駒山のこと

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2014年02月13日

<問18>解答・解説 

                  問題文はこちら                     
解答>陶淵明とうえんめい 


解説

(1)問題中の岩船(磐船神社あり)、天の川(天野川)、同川に沿った街道(磐船街道)、北田原(北田原町)の位置についてはこの地図でご確認ください(同地図の左下です)。

 また、田原の里の位置についてはこの地図でもご確認ください。

 岩船〜天野川・磐船街道〜北田原の地形については、この地図でご確認ください。


 なお、生駒市誌は、天の川を「生駒郡北倭村大字南田原なる星森ほしのもりの泉に發し磐船谷を流下して幽渓奇勝を形づくり牧野村枚方町の間に至り淀川に合す。」と説明しています。


(2)貝原益軒の名は「篤信」で、益軒は号です。益軒が貝原篤信の名で書いた「諸州めぐり南遊紀行」の全文はここで読むことができます。


(3)「諸州めぐり南遊紀行」の中で問題文に関係する部分を次に抜粋しました。なお、問題文にとって関係の深い箇所は太字にしました。また、(  )とその内文、ふりがなの多くは引用者によります。下の図は、挿絵です。

 天川あまのかわ(現天野川あまのがわ)の源は、生駒山の下の北より流出ながれいで、田原たはらと云いう谷を過すぎ、岩船いわふね(現磐船)におち、私市きさいち村の南を経へて、枚方町の北へ出て淀川に入る。獅子窟ししくつ山より天川を見おろせば、其川東西に直すぐにながれ、砂川にて水少く、其その川原白く、ひろく、長くして、恰あたかも天上の銀あまの河の形の如し。扨さてこそ此この川を、天の川とは、名付たれ。われ此所ここより見ざるさきは、只ただ天の川の流の末ばかりをわたりて、古人の天の川と名づけし意をしらず。凡およそ諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして数里(1里=約3.9km)長くつづきたるはいまだ見ず。天川と名付し事、むべなり。

 岩舟(現磐船)より入て、おくの谷中七八町おくのたになかしちはっちょう(1町=約109m)東に行ば、谷の内頗すこぶる広し。其中に天川ながる。其里を田原と云いう。川の東を東田原と云いい、大和国也。川の西を西田原と云、河内国也。一澗ひとたにの中にて両国にわかれ、川を境とし名を同くす。此谷このたに水南より北にながれ、又西に転じて、岩舟に出いで、ひきゝ(低き)所にながれ、天川となる。凡およそ田原と云所いうところ、此外このほかに多し。宇治の南にも、奈良の東にもあり。皆山間の幽谷の中なる里なり。此田原も、其入口は岩舟のせばき山澗やまたにを過て、其おくは頗ひろき谷也。恰陶淵明桃花源記にかけるがごとし。是れより大和歌姫の方に近し。

 此の谷のおくに、星の森あり。星のあり。其の~は牽牛織女也。天川の上なれば、此二~をいはへり。孫姫の式にいへる、筑前國大島の天川のほとりにも、二星の有がごとし。田原の谷を南に越せば、和州平群谷に出づ。田原谷と平群谷との間は、小嶺ことうげあり。平群谷と田原谷と南北相對す。田原の里の農長出て、我にし、良久しく此の處の事をかたる。予元來河内の山の根路を行くべき志なれば、大和へゆかずして、西田原より西の山を越て、飯盛山の下に出、是を大坂越と云。山路十八町行て、清滝嶺の茶屋一宇あり。是大坂越の嶺なり。此嶺高からざる故に、路けはしからず。此嶺を下り尽して、城村に至る。是飯盛山の北の麓なり。飯盛の城址、北の麓よりみれば、山の形なり飯を盛たるがごとし。故に飯盛山と号す。
63田原谷.jpg

(4)桃花源とは、両岸に桃の花の林が続く川を遡ってたどり着いた川の源の山の向こうにあった理想郷のことをいい、「桃花源記」はその物語のことで、理想郷を意味する「桃源郷」という言葉はこの物語に由来します。

 なお、桃は古くから中国では「生命の象徴」「不老不死をもたらす果実」とされており、桃源郷とは生命の生まれ出ずる処、不老不死の里というのが元々の意味と考えられます。

 日本でも、古来、桃には呪力があると信じられてきました(ご参照.jpg」)。

京都・晴明神社の「厄除け桃」.jpg


(5)今日の生駒市北田原地区には工業団地や変電所が建設され、貝原益軒が訪れたときと比べると様変わりしていますが、それでも、「桃源郷」のごとしと讃えられた景観の面影は今も残っており、それは、優れた景観形成のモデル<下の写真>(「ヤマ・ムラ・ノラ」の説明)とされています。
12北田原町 文付き.jpg

 また、北田原地区で確認されている「氷河時代の生き証人」と呼ばれる可憐な草花も、「桃源郷」のごとしと讃えられた四季折々の美しい草花が咲き誇っていたであろう美しい景観の面影を今に伝えています(「氷河時代の生き証人」については、<問7>をご参照ください)。


(6)日本の農村の原風景が残っている北田原地区のスケッチ⇒その1その2



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2014年01月21日

<問19>の解答・解説  

                  問題文はこちら

解答> (1)長福寺  (2)迦陵頻迦


解説> ブラタモリ #11 奈良の宝   長福寺の場所など⇒タモリのブラブラ足跡マップミラー>    長福寺本堂 保存修理事業    宮大工の仕事.pdf(長福寺本道解体修理についての記述あり)<「祈りの回廊」2016年春夏号(奈良県観光局)より>   長福寺の迦陵頻迦

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2014年01月14日

<問20>の解答・解説  

              問題文はこちら
解答> 竜田(龍田)

解説
(*)生駒市は、山田川、天の川、竜田川、富雄川の4つの川の水源都市です。


(2)山田川にかかること
 @記紀に記されている、いわゆる「国譲り」によって天照大神が大国主命の上位におかれ、天照大神に従う神々が天津神あまつかみ、素盞嗚命を含む大国主命ゆかりの神々が天津神より格下の国津神くにつかみとされましたが、素盞嗚神社ではその格が逆転しています。その理由は、饒速日命の国譲り神話をお読みいただければお分かりになると存じます。
 A山田川源流域をルーツとする「奈良の鹿」は海外にも好意を持って紹介されています⇒ご参照ミラー
 B素盞嗚命神社の神社記録(昭和33年3月)「一部伝説によると、昔鹿が住み居りし為、鹿畑村と名附られた。其の鹿を奈良春日神社へ奉納せられし者にして、奈良の鹿は元来、鹿畑村より奉納せられしものと聞く。」(「生駒市誌」W P.682)

(3)天の川にかかること
 @星の森の泉があった住吉神社の説明(この神社の出自は現大阪市住吉区にある住吉大社より古いことも考えられる)
   日本書紀 巻二十六 斉明天皇に「夏五月一日、大空に竜に乗った者が現れ、顔かたちは唐の人に似ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、生駒山の方角に空を馳せて隠れた。正午頃に住吉の松嶺まつみねの上から、西に向かって馳せ去った。」とありますが、この住吉というのは、住吉神社のことだと思われます。

(4)竜田川にかかること
 @佐保姫と竜田姫、そして登美彦  生駒の神話については<問1>神話の里をご参照ください。

(5)富雄川にかかること
 @普通、八幡神は武運の神(武神)といわれていますが、生駒市誌には「蛇神の呼称は数多くあり、トビ(トベ)・ナガ(ナガラ)のほかヤアタ(ヤワタ)・ミワ(ミイ)などが、後世になって混在したことも考えられる。長髄彦の名も、スネが長いというのが本来ではなくて、長=ナガ=蛇神の呼称であり、したがって古事記の登美彦(トミ・トビ)の名のほうか原型であったとおもわれる。」などとあることから、鹿畑の素盞嗚神社で祀られている八幡神は、もとは「ヤアタ(ヤワタ)の神=蛇神」であったと思われます。
 A長髄彦(登美彦)にペンネームの由来を持つ小説家の森見登美彦さんは、この文章の中で富雄川のことを次のように述べています。〜高台から坂をくだれば川が流れて、その両側には田んぼが続き、昔ながらの農村風景が広がっていた。神武東征の折、九州からやってきた天皇を迎え撃ったという「ナガスネヒコ」の話を母から聞いたのも、そんな川沿いの風景を眺めながらのことである。〜

(6)4つの川にかかること
 @山田川源流域にある鹿畑では素盞嗚神社の東約300mに龍王四天(龍王社)が祀られ、天野川には龍ヶ淵伝説があり、富雄川の水源は竜王山という言い伝えがあり、竜田川は名前にずばり竜がついており、生駒では古来、竜(龍)・竜(龍)王が水(雨・川)の神として信仰されてきたことがうかがえます(参考 : 日本の竜神・竜王蛇口の語源・由来)。ちなみに、「千と千尋の神隠し」の登場人物のハク(本名は「ニギハヤミコハクヌシ(饒速水小白主)/英語版では Kohaku River)の正体は白龍で、コハク川という小さい川を司る神とされています(これご参照)が、宮崎監督は、ハクのキャラクターに「竜(もとは蛇)は水(川)の神」という古代日本の信仰を反映させています。

2014年01月12日

<問21>の解答・解説 

              問題文はこちら
解答> 鶏

解説>(追記を重ねましたので、記述が重複している部分があることをお許しください。)

)神功皇后は、夫の仲哀天皇亡きあと応神天皇即位まで実権を持ち続け、天皇として即位はしませんでしたが、日本書紀では皇后という称号のまま第15代目の天皇として位置づけられました。しかし、かかる事情により 1926(大正15)年10月の詔書により歴代天皇から外されましたが、折口信夫「女帝考」によれば、神と天皇の中間に立つ「ナカツスメラミコト」でした。そんな皇后がやろうとした行為(「三韓=海上に見える国」征伐)に反対する下記の3つの話日本書紀には記されています

          (注)三韓とは、馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)の3国のこと。

   @<巻第八 仲哀天皇紀 神の啓示の項>仲哀天皇は、目にまばゆい金・銀などが沢山ある海上に見える国を服従させなさいとの神功皇后に託した神託(神がかりになった神功皇后の言うこと)に反論して「私が見渡しましたのに、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒らに私を欺くのでしょう。」といわれた。その5か月後、天皇は急死された。

   A<卷第九 神功皇后 新羅出兵の項>神功皇后は、諸国に介して船舶を集め兵を練られた。ときに軍卒が集まりにくかった

   B<卷第九 神功皇后 新羅出兵の項>神功皇后は、吾瓮海人烏摩呂あへのあまおまろを使って、西の海に出て、国があるかと見させられた。還っていうのに、「国は見えません」と。

 「ナカツスメラミコト」の意に反する動きの説話を3つも書紀が記さざるを得なかったことは、古代日本において、縄文時代以来の「戦いを否定する精神」が持続していたことを伝えています。

日本書紀には、

 次のように、(ナカツスメラミコトである)神功皇后の意に反する者は死に追いやられると記されています。

   @<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>(皇后に託された神のお言葉を採用されなかったので)天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。

   A<卷第九 神功皇后 神功皇后の熊襲征伐>兵をあげて羽白熊鷲はしろくまわしを殺した。/土蜘蛛つちぐも――田油津媛たぶらつひめを殺した。

   B<卷第九 神功皇后 麛坂王かごさかのみこ・忍熊王おしくまのみこの策謀>赤い猪が急に飛び出してきて桟敷さじきに上って、麛坂王を喰い殺した。/忍熊王は逃げて隠れるところもなく、・・・・・瀬田の渡りに沈んで死んだ。

 しかし、<卷第九 神功皇后 新羅出兵>を読むと、三韓(新羅・高麗・百済)の3王については死に追いやるどころか、戦いさえもしていません(出兵したとあるが、戦ったとはしていない)。日本の戦国時代を見ても、降伏した敵の将兵の命は助けても、のちに反旗を翻す可能性ある首領の命を助けるお人よしな事例はないことから見ると、戦わずして服属させた(=朝貢させるようにした)となっているのは、実は、古代日本において、日本と朝鮮半島との交易がおこなわれていたことを伝える説話であるからととらえることができます。その交易も朝鮮から先進的・貴重な物資(日本にはないもの=日本書紀に記されている「金・銀・彩色・綾・羅うすはた・縑絹かとりきぬ」など)が日本にもたらされるというものでした。しかし、優れた物資や文化が外来する(物資は文化と共に到来する)ことは日本が一段低いということであり口惜しいので、日本書紀が成立した当時の統治者が国内外に虚勢を張るために、新羅再征の説話(新羅を討ち破ったとの説話)をわざわざ日本書紀の<卷第九 神功皇后>の部分に加述させたのです。これが、後世、「三韓征伐」(新羅のみ「征伐」したので、正しくは「新羅征伐」)と呼ばれるものです。

    (注)この日本書紀の新羅再征の説話をもとに、後世、軍国主義(対外戦争勝利)の象徴たる神功皇后のイメージがつくられました。

 なお、三韓(新羅)の「征伐」は、国内向けに天皇の正統性を訴えるために作成された「古事記」には記載がなく、外国向けに日本という国の正統性を主張するために作成された「日本書紀」に次の(3)で述べるように誇張と虚像として記載されたのです。

 日本書紀の<巻第八 仲哀天皇 神の啓示>や<卷第九 神功皇后 新羅出兵>に記された、後世「三韓征伐」と呼ばれることになる説話をよく読めば、「海上に見える国がある。この国には目に眩まばゆい金・銀・彩色などが沢山ある。これらが欲しいので、それを手に入れるために海上に見える国に攻め込んで行こう」という、大変に卑しい行為を行おうというものであって、実際にかかる行為を古代の日本人がやったと主張するなら、それは日本民族の尊厳を貶おとしめることになります。それを回避するためにも、「三韓征伐」と呼ばれる説話は、実はそれは、古代における日本と朝鮮半島との交易・交流を反映したものである、と述べなければなりません。なお、ネトウヨ(ネット社会で新しく湧き出した右翼的な考えを持つ人々を批判的に呼ぶ呼び方)の人々が こんなTシャツを購入することで分かるように「三韓征伐」というのは、どういう文脈で使用されるか次第では(肯定的に使用すれば)ヘイト(他民族への憎悪を煽る)用語となります。

古田武彦「古代は輝いていたU 日本列島の大王たち」の中で、次のことが記述・実証されています。

  @「古事記には(引用者:この現代語訳の「中巻 仲哀天皇 三 神功皇后の新羅遠征」の箇所)、神功は新羅へ渡って新羅国王との間に平和的に国交関係を樹立したことがのべられているだけであって、戦闘描写は全くない。これに対して、日本書紀の場合(引用者:この現代語訳の「卷第九 神功皇后 新羅再征」の箇所)、朝鮮半島南半部各地に転戦させ、新羅側と戦い、百済に占領地を与えた(その領有を承認した)旨が記されている。大きなちがいだ。いずれが真実か。いうまでもない。古事記の方だ。」

  A「神功は新羅の王子・・・・・の子孫であり、新羅は彼女にとって、(母系の)父祖の国だった」(引用者:このことは この古事記の現代語訳の「中巻 応神天皇 八 天之日矛の渡来」に記載されており、このことも古代より日本と朝鮮は深い交流があったことを反映しています。ご参考

  B「神功は、・・・・・その故国(新羅)へ征伐などに行ったのではない。提携と国交を求めに行き、新羅および百済との間で、それに成功した」(引用者:@とAを考察すれば、このようになります。)

  C「神功の平和的国交の樹立は、憎悪の連鎖の相乗効果を生みやすい戦争や征服とは別種の永続的な効果をもたらした」(引用者:この古事記の現代語訳の「中巻 応神天皇 六 百済の朝貢」の記述はこのように読み取れます。)

  D誇張と虚像は、日本書紀の記述において加えられただけでなく、古事記の記述にも存在する。例えば、新羅国が神功皇后に屈服と服従を誓ったことである(引用者:この古事記の現代語訳の「中巻 仲哀天皇 三 神功皇后の新羅遠征」の箇所)。これらの誇張と虚像は、成果を誇示するためであった

「三韓征伐」という用語は記紀には記載がありません。その用語がいつから使用されたかについて通説はありませんが、このように教科書が国定化される前の明治中期に使われた初期の段階の教科書である『帝国小史』(1893年)には記載があることから、江華島事件(1875年)を機とする朝鮮侵出開始後しばらくして使用され始めたと思われます。

 (1)〜(3)で見たように、「三韓征伐」などというものはなかったのですが、明治に入ってから、「朝鮮半島は古代より、日本の支配下に置かれるのが当然であった」という、侵略を正当化するいわばイデオロギーとして、日本書紀の記述に加えられた誇張と虚像に基づいて作られたものです。

 それにより、神功皇后は本当は「平和的国交の樹立者」であったにもかかわらず、1945年の終戦まで「大日本帝国による朝鮮半島支配の正当性の象徴・根拠」として喧伝され続けました。なお、日本で最初の本格的な肖像入り紙幣の肖像は彼女でした(その紙幣<原版はイタリア人技術者が作成したため、西洋風の女性に描かれている>)。

 戦前に作られた神功皇后の軍国主義(対外戦争勝利)の象徴たるイメージは戦後70年以上が経た現在も払拭されていません。生駒ゆかりの人物の一人である神功皇后がそんなイメージのままであることは誠に残念です。国際的な友好平和樹立という課題の重要性が高まる中、神功皇后の名誉回復、つまり、軍国主義の象徴から平和的国交樹立の先駆者への人物像の転換が求められています。


)参考 : 皇后考皇后考女帝論

)生駒(生駒山とその麓)の産土神うぶすながみ(その土地を守護する神)は伊古麻都比古神いこまつひこのかみ(生駒を守護する男の神/「都」は「の」の意」)と、伊古麻都比賣神いこまつひめのかみ(生駒を守護する女神)の2神ですが、この2神が、神功皇后軍の出発の合図をするよう命じられていた鶏を未明(午前3時ごろ)に追い払うことで、神功皇后軍をして征伐戦争に出発させないようにしたとの「生駒の産土神の鶏追とりおい」伝承もあります。

  征伐戦争は、殺戮を伴うものです。生駒の産土神(生駒の守護神)の鶏追は、神の使いでありながら殺戮に加担して堕落することから鶏を守護し、また、殺戮の首謀者となって堕落することから神功皇后を守護することであったといえます。それは、日本書紀に記された生駒神話(攻め込んできた磐余彦軍を殺戮せんとした長髄彦軍が、長髄彦軍の守護神である金の鵄によって打ちのめされて戦えないようにされることで、殺戮の実行者となって堕落することから守護されたとの口承を核とする神話/生駒の神話<大要>の【2】ご参照)と共鳴しています。

  なお、伊古麻都比古神は、「大和の国譲り」(生駒の神話<大要>の【1】ご参照)を行なったとされる饒速日命にぎはやひのみことのことだとの伝承もあります。

)生駒には鶏にかかわる伝承で有名なものが2つあります。2つとは、「神功皇后と鶏」と「生駒の産土神の鶏追とりおいです。


)鶏にまつわること

 @龍田神社の鶏の話手水場ちょうずば(清めの場)の鶏像の写真(↓)あり

龍田神社の鶏.jpg
 A本来鶏は、常世長鳴鳥とこよのながなきどりと呼ばれ、太陽を呼び出し、鳴声は時を知る手だてとされる有難い鳥であり(ご参照)、神の使いとして暁の声を立てて時を知らせ一切衆生の眠りを覚まし本覚の道にいれさせ給う任務を持つ鶏(ご参照ミラー>)が、神功皇后の出発の時を知らせなかった(知らせることが出来ないように追われた)のは、征伐戦争否定が神意であったからといえます。

 B古来から鶏は「神鶏しんけい/神使しんし」(神の使い)とされていて、伊勢神宮や石上いそのかみ神宮などでは、春日大社の鹿と同様に神使として放し飼いにされています(ご参照/ご参照.pdf)。神社の鳥居ももともとは檜の白木素地のままで、神の使いである鶏の止まり木としてつくられていたとの説もあります(鶏は鳥目ゆえ夜には目が見えないので、安全のため暗くなると木に上って夜を過ごす)。

 C Bの(ご参照)に記されているように、常世の長鳴鳥は天照大神を天の岩戸から外へ出す際に、「カケコー、カケコー、カケコー」と三回鳴いたと言われていることに由来して、伊勢神宮の式年遷宮(20年ごとに社殿を更新し、新たな社殿に神体を移すこと)では、宮司が儀式の始まりに鶏の鳴き声の真似を3回唱える「鶏鳴三声けいめいさんせい」(この動画の2分35秒〜2分50秒)を行ないます。

 Dニワトリには夜明けを告げるだけでなく、闇の中に潜む怪しいものを察知し、鳴き声で追い払う役割も期待されていた。古墳に立てられた鶏形埴輪にも、被葬者の安らかな眠りを妨げる邪悪な魑魅魍魎ちみもうりょうの物音をいち早く察知し、鳴き声で朝が来たと錯覚させ、退散させるという役割があったのかもしれない。< 朝日新聞「関西遺産 石上いそのかみ神宮のニワトリ」(17.1.4)より>

 E問題文中の「毎年元旦には神社の裏山から金の〇の吉兆の鳴き声が聞こえる」の裏山とは、龍田神社の北側にある龍田の神奈備かんなび(神の鎮座する山)とされる御廟山ごぼうやまのことですが、金の鶏が鳴くといわれる所は大和各地にあります⇒大和の傳説 金鶏の鳴く所(リンク)をご参照


 G参考 : 伊藤若冲は鶏の姿に生命の美しさを見ていたといわれます。下図は、若冲作「紫陽花双鶏図あじさいそうけいず」(部分)<「仙台市政だより」(2013年3月号)より>ですが、ここに描かれた鶏は鳳凰のごとくです。

若冲作「紫陽花双鶏図」.jpg

)参考 : 鶏など神使になった動物たち<リンク>  生駒山のこと   




2014年01月11日

<問22>の解答・解説

                  問題文はこちら
解答> 森見登美彦 

小説「ペンギン・ハイウェイ」の解説

(1)問題文中の作者の言葉は、この記事からの引用です。
  関連記事

(2)@なぜ、題名が「ペンギン・ハイウェイ」なのか。  Aなぜ、生駒市北部のまちが舞台なのか。
    @に対する答⇒作者は〈ペンキン・ハイウェイ〉という言葉を知り、これを題名にすることではじめて小説「ペンギン・ハイウェイ」を書けたから。
    Aに対する答❶⇒作者が小説家として原点に再び立ち返ろうとしたとき、かつて自分自身がものを書き始めたはじまりの場所を舞台に選んだから。
    *上記の答は、、「野生時代」(2010.7月号)〜総力特集 竹とペンギンと森見登美彦〜の中のこの部分.pdfの青太字の部分に書かれています。


    @とAに対する答はここ.pdfにも載っています。

(3)「ペンギン・ハイウェイ」(Wikipedia)の舞台について


 A森見登美彦さんは、「ペンギン・ハイウェイ」と「千と千尋の神隠し」の舞台の共通点をこのように.pdf述べています。




(4)作者(森見登美彦さん)のこと


 A「登美彦」というペンネームの由来である「登美彦(長髄彦)」や登美彦(長髄彦)が主人公である「生駒の神話」については、<問1>と その解答・解説をご参照ください。

「神武東征の折、(略)先祖が長髄彦(引用者:ナガスネヒコと読む)に従って戦ったという伝承を信じ、それを誇りにしている人たちが現代もいる」(出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』より)。そんな大人から登美トミの長髄彦(単に長髄彦または登美彦ともいう)の話を聞く機会があった、富雄川流域地域の子どもたちは、英雄としてナガスネヒコに憧れ、ナガスネヒコが活躍した地域が故郷であることに誇りを持っています。お母さんからナガスネヒコの話を聞いた(「ペンギン・ハイウェイ」や「千と千尋の神隠し」の舞台となったのはこんなところご参照)森見さんも、そんな子どもの一人だったのでペンネームを登美彦にしたのでしょう。

 Bこの小説には「県境の向こうにある街から引っ越してきたのは、ぼくが七歳と九ヶ月のときだ」とありますが、「野生時代」(2010.7月号)〜総力特集 竹とペンギンと森見登美彦〜では、登美彦さんは、「9歳の時<引用者:88(S63).1.6〜89(S64).1.5>に家族で奈良県の郊外に引っ越したんです」と述べています。また、「ジブリの教科書12 千と千尋の神隠し」の中では「私が大阪から奈良へ引っ越してきたのは、小学四年生<引用者:88(S63).4〜89(H1).3>の夏だった」と述べています。ブログでは「生駒市は登美彦氏がこの世に生をうけた地」とあります。森見さんは、79(S54)年1月に生駒市で生まれ、幼稚園の頃に大阪の万博公園近くに転居し、小4の夏(88年夏)に再び生駒市に引っ越してきました。なお、この小説の舞台のモデルとなった北大和住宅地に入居が開始されたのは、88(S63)年12月です。

 C趣味は近鉄の特急電車に乗ることだそうです(ご参照)。   予備校の帰りに生駒山を歩き回ったそうです(ご参照.pdf)。   森見さんのおすすめスポットは、古代の雰囲気が漂う生駒山と大和文華館だそうです(ご参照.pdf)<司馬遼太郎さんの「城塞」の冒頭部分を読むと、生駒山が古代の雰囲気を漂わせている理由がわかります>。 
  

(5)書評1記事版  書評2.pdf記事版>  書評3.pdf  書評4  書評5ミラー(「ペンギン・ハイウェイ」は「全体小説」との最大評価批評)  書評6  萩尾望都「森見作品では『ペンギン・ハイウェイ』が好きです」(ご参照ご参照)  最高評価書評(その1その2その3その4)  楽しみながらノート術が学べる本

(6)(2)〜(4)の記述を基に「小説『 ペンギン・ハイウェイ』舞台探訪」ガイドブック.pdfその<簡略版>.pdfを作成しました。

  〜上記の「ガイドブック.pdf」をプリントアウトできない方など、「小説『ペンギン・ハイウェイ』舞台探訪 ガイドブック」(A4版 27ページ)<表紙はこれ>をご希望の方は、本検定作成者の吉波伸治(〒630-0121 生駒市北大和3−2−7)まで「205円切手」をお送りください。その切手を使用して同ガイドブック(無料)を郵送でお届けいたします。〜


(7)映像・イラスト


 APV<絵も音楽も素敵なPVです。コスモスクエア行きの電車は「新しい鉄道」なので「少年」と「お姉さん」は乗れていませんので、「コスモスクエア」ではない別の表示の方がよいのではないでしょうか。給水タンク(配水池)ではなく、給水タンクと給水塔(高架水槽)または給水塔のみ、の方がよいのではないでしょうか。>   このPVのBGM⇒その1その2



 Dインスタ映えする「ペンギン・ハイウェイ」⇒その1その2   ツイート「ペンギン・ハイウェイ」  SNS



(8)これらの感想(その1その2その3)を読んでもわかりますが、アオヤマ少年は当時はまだ意識していないものの、お姉さんという1人の女性とハマモトさんという1人の少女の間で微妙な位置に立たされています(下に注)。それを踏まえて、その後.pdfを想定してみました。
   注 : 感想(その2)さんがいう、P.377(引用者:角川文庫版)の「アオヤマ君とハマモトさんの会話」の部分.pdf
ペンギン・ハイウェイ○.jpg 
↑カバーイラストは、くまおり純さんの作(くまおりさんの他の作品
 

(9)「ペンギン・ハイウェイ」一言紹介 : 生駒市北部のまちを舞台に、少年少女が、素敵な大人と出会い、さまざまな研究と探検をしながら、未知との遭遇や世界の果ての探求を通して成長をしていくSF冒険物語。

(10)デカルトもルロイ修道士もアオヤマ君のお父さんもみんな「困難は分割せよ」といっている(ご参照ミラー。   ペンギンハイウェイ式問題解決の三原則(リンク)

(11)アニメ映画化されました⇒アニメ映画「ペンギン・ハイウェイ」(2018.8.17 公開)
<↓下の図は予告ポスター>

ポスター.jpg

予告編@の一場面に「奈良・生駒」という文字が見えます(↓下の図の黄色〇のところ)

(12)小説「ペンギン・ハイウェイ」が月刊コミックアライブにてコミカライズされることになり、第1話がアップされました。第2話は5月1日にアップ予定です。 <↓下の図は1場面>。  作者のツイート

おねえさん.jpg

↓作者による登場人物紹介

人物紹介.jpg
(13)つばさ文庫版「ペンギン・ハイウェイ」が18.6.15に発売されました(ご参照)。

(14)参考になる記事(リンク)

(15)小説のみならず、アニメ映画にも漫画にもなった「ペンギン・ハイウェイ」の主人公のアオヤマ君とお姉さんと準主人公のハマモトさん・ウチダ君、いや一層のこと、アオヤマ君のおとうさん・おかあさん・妹、山中教授と同僚らしいハマモトさんのお父さん、スズキ君に至るまで、生駒市民と認めてはどうだろうか(ご参照.pdfご参照)。  

(16)寸評

 @「さみしくなったね」と父は言った。「そうだね」「お姉さんから何か聞いたかい?」「ぼくらはサヨナラをしたよ」「そうか。しかし急なことだったね」・・・・・「父さん、ぼくはお姉さんがたいへん好きだったんだね」と僕は言った。「知っていたとも」と父は言った。<文庫版 P.379〜P.381/太字は引用者によります>⇒この場面は、この小説のハイライトの1つで、信頼できる大人(アオヤマ君の場合は父とお姉さん)との出会いと信頼できる大人から見られているということが子どもに何かを成し遂げさせ子どもを成長させることを暗示しています。この場面は、「人には、自分がだれかから見られているということを意識することによってはじめて、自分の行動をなしうるというところがある。」.pdfという言葉を思い起こさせます(ご参照)。

 A福岡伸一さんは動的平衡の中で次のように言っています。「大人はたいへんだ。生計を立て、パートナーを探し、敵を警戒し、縄張りを守らねばならない。対して子どもにだけ許されていることは? 遊びである。闘争よりもゲーム、攻撃よりも友好、防御よりも探検、警戒よりも好奇心、現実より空想。それが子どもの特権である。なかなか成就しないかわりに、遊びの中で学び、試し、気づく。これが脳を鍛え、知恵を育むことにつなかった。こうしてヒトはヒトになった。(太字は引用者によります)
 ペンギン・ハイウェイとは、人類が海から陸に上陸して人類になるために辿らねばならなかった道のことでもあり、ヒトがヒトになるための道のことでもあるのでしょう。

(17)生駒と小説「ペンギン・ハイウェイ」に関する部分を抜粋⇒森見登美彦「太陽と乙女」 <抜粋>  / 文藝別冊 総特集「森見登美彦」<抜粋>


 

2014年01月10日

<問23>の解答・解説   

                  問題文はこちら
解答> 芥川龍之介


解説

(1)「犬と笛」の全文は、青空文庫で読むことができます。


(2)作品「犬と笛」の謎 : 児童雑誌に掲載されたこの小説の副題は「いく子さんに献ず」です。いく子さんとは、芥川夫人の文ふみさん(当時18歳)の母の従妹で、当時15歳ですから、もはや児童ではありません。当時、芥川は26歳で、10ヶ月前に結婚したばかりでした(ちなみに、文さんは16歳のときに芥川と縁談契約書を交わし、17歳のときに結婚しています)。なぜ芥川は、新妻の文さんがいながら、わざわざ自らの作品をいく子さんに献じたのでしょうか。作品を献じる人というのは余程大切な人です。

 思えば、この物語も、1人の男性(髪長彦)が2人の女性(御姫様姉妹)の間で不安定な位置に置かれていることを示唆して終わっています。また、この物語は、2人の女神(駒姫と笠姫)が1人の男性(髪長彦)を助けるという話でもあります。2人の女神と1人の男性といえば、立(龍)田姫・佐保姫と、髪長彦ならぬ長髄彦(登美彦)が連想されます(問20ご参照)。更に、生駒北部のまちを舞台とする小説「ペンギン・ハイウェイ」の主人公の少年も1人の女性と1人の少女の間で微妙な位置に立たされています〜<問22>の解答・解説の(8)ご参照〜。

 このように、生駒ゆかりの伝承・物語は、2人の姫(優れた女性)または2人の女神対1人の彦(優れた男性)という図式になっているのですが、この物語の御姫様姉妹と、年齢的にも姉妹のような文さん・いく子さんが重なってしまいます。そのためか、この作品は、その後刊行された芥川の童話集「三つの寶」には収録されず、当時、どの短編集にもついに収録されませんでした。児童向け雑誌に1回掲載されたのみで封印されたのです。

(3)髪長彦の冒険飛行ルート(下記の地図/クリックで拡大 )・・・この作品中に「美しい大和やまと国原くにはらを足の下に見下して、ずんずん空を飛んで行きました。」とある「大和の国原」とは、山々に囲まれた「奈良盆地」のことです。髪長彦たちは、まだ大阪湾につながる「海湾または海水湖」であった奈良盆地の上空を笠置山から葛城山の方へ飛んでいったと思われます。物語的には、海や湖の上空を飛行したとした方が美しいですね。
01髪長彦の飛行ルート○.jpg
(*)参考1 : この物語がゲーム化されていることは、この物語がエンターテイメント性に富むことを示しています⇒「脱出ゲーム 絵本風-犬と笛-」ご参照(脱出の仕方は、このページの「ネタバレ内容を表示」に書かれています)。

  この物語のエンターテイメント的要素の1つが、次のような多彩なキャスト

    山中で現れる3つの異形の神/人間が持っていない特殊能力を持つ3匹の犬/美しい2人の御姫様姉妹/2人の姫をさらう異界の物の怪・妖怪・怪物/妖精のような2人の女神/弱き者のために勇気を奮い立たせる柔でこころ優しい主人公/(男の嫉妬ほど醜いものはないが、その醜悪さを持つ)見かけ倒しの無骨で卑劣な侍という主人公とは対照的な男たち。



(*)参考3 : 生駒山の駒姫について


(*)参考5 : 生駒山のこと

2014年01月09日

<問24>解答・解説 

                  問題文はこちら
解答>(1)ブルーノ・タウト (2)芥川龍之介 (3)山中伸弥 (4)前野ひろみち (5)金時鐘  (6)H氏賞  (7)泉鏡花  (8)忍性  (9)藤原良房よしふさ  (10)司馬遼太郎   (11)有間皇子   (12)➀松尾芭蕉 A徳川綱吉   (13)山背大兄王

解説


(2)宇野浩二「芥川龍之介」全文   引用文には「大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかった」と記されています。それに係る事情が「大林芳五郎傳」のこの部分に記載されています。

(3)山中伸弥さん
 A森見登美彦さんのブログに<小説「ペンギン・ハイウェイ」〜問22ご参照〜の登場人物であるハマモト先生と山中(伸弥)先生は同僚であったかもしれない。廊下ですれちがいながら、「おはようございます」と言い合ったかもしれない。>とあります。

  答の選択肢の4人は、奈良(奈良県・奈良市)つながりの小説家たちです。〜万城目学(奈良を舞台とする作品を書く)/仁木英之(現在、奈良に在住)/前野ひろみち(奈良で生まれ育ち、奈良を舞台とする作品を書き、今も奈良に在住)/森見登美彦(奈良で育ち、奈良を舞台とする作品を書き、今は奈良に在住)〜
 @万城目学さんの感想
 A仁木英之さんは、「ランボー怒りの改新」のあとがき(解説)を書いています。 仁木さんの作品である「僕僕先生」の書評  同「まほろばの王たち」の書評(その1その2
 C森見登美彦さんは、ブログで紹介


(6)H氏賞  このページに著者紹介あり  貞久秀紀「空気」
貞久秀紀「証言」<↓クリックで拡大>
証言 95 95○○.jpg

(7)泉鏡花(wikipedia)   問題文の紹介記事全文

(8)忍性(wikipedia)  鎌倉版マザー・テレサともいえる忍  忍性は、高校日本史の教科書にも太字で載っている歴史上の重要人物で、生駒にゆかりがあるにもかかわらず生駒市民にもなじみが薄いことから、忍性菩薩を讃える生駒市民の会は、生駒市民に広く知ってもらう活動を行なっている。  日本名僧・高僧伝 52・忍性  忍性の真実・極楽寺良観と戒律

(9)問題文はこの文書(生駒氏)を基に作成しました。

(10)司馬遼太郎(wikipedia)  司馬さんは、「城塞」でも暗峠を登場させています(<問13> 歴史を見つめてきた暗峠のDをご参照)。


(12)問題文はこの文書(公慶上人)を基に作成しました。   公慶上人⇒wikipedia   行基については、<問3>をご参照

(13)山背大兄王  弓削王は山背大兄王の子  高坂王  長屋王  三努王  古人大兄皇子   問題文中の「高市皇子の子は軍を差し向けられて自害に追い込まれました」とあるのは長屋王の変のことです。  非戦・避戦の精神の系譜

(*)参考 : 生駒山のこと

(*)他の問題でとり上げた「生駒ゆかりの人物」を時代順に記すと、次のようになります。

イザナミ(伊弉冉尊いざなみのみこと)・・・<問15> 神話の里(その2) 〜「国生み神話」の舞台〜
長髄彦ながすねひこ ・ 饒速日命にぎはやひのみこと ・ 三炊屋媛みかしきやひめ ・ 可美真手命うましまでのみこと ・ 〔神日本〕磐余彦尊〔かむやまと〕いわれひこのみこと・・・<問1> 神話の里(その1) 〜生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)〜
神功皇后・・・<問21>生駒伝承
宗砌そうせつ・・・<問4> 自然が生んだ伝統工芸
一休さん(一休宗純)・・・<問14>歴史が息吹く生駒の古道の(1)
徳川家康・・・<問14>歴史が息吹く生駒の古道の(2)

(*)生駒で映画・TVドラマ・PVでロケを行った監督・俳優・歌手としては、山田洋次監督、渥美清さん、松坂慶子さんのほかに、ジョン・ウー監督、チャン・ハンユーさん、森田芳光監督、仲代達矢さん、平井 堅さん、玉木宏さんがおられます(生駒市のロケ地ご参照 )。
ああ*

2014年01月08日

<問25>解答・解説 

                  問題文はこちら
解答

(1)@発電   A茶筌(ちゃせん)   Bケーブルカー   C環境   Dビブリオバトル   E110番   F解職   G介護予防    Hトンネル

(2)カード様式の国保保険証   (3)財政力指数

(4)@東生駒駅  Aけいはんな線   (5)里山

解説> 

(1)の問題について


 A茶筌については、<問4>をご参照

 B近鉄のケーブルカー   問題文にある飛行塔は昭和の雰囲気を色濃く残しており、そのため、映画「阿修羅のごとく(原作 向田邦子)」のロケ地に選ばれ、また、その飛行塔がある生駒山上遊園地は、TVドラマ「鬼畜(原作 松本清張)」のロケ地となりました(生駒市のロケ地ご参照)。   生駒ケーブル 100年の歩み.pdf・・・生駒ケーブルの駅である「霞ヶ丘駅」は秘境駅との記事もあり(参考 : 近鉄生駒ケーブル 霞ヶ丘駅.jpg)   生駒山のシンボル   山上遊園地は、戦時中は休園し、海軍基地として使用された。戦時中の金属回収令で多くの金属が回収されたが、飛行塔は軍の防空監視所だったことで奇跡的に生き残った。

 C環境モデル都市については、<問12>をご参照

 Dビブリオバトルについては、【2】生駒市の図書館をご参照

 Eこども110番の家  店舗版こども110番の家は岐阜県可児市で始まりました(ご参照)が、家庭版こども110番の家は、当時の生駒市のあすか野・真弓地区の駐在さんが地元自治会の協力を得て始められたといわれています(全国では、ほぼ同時期に始まったところもあるようです)。

 F解職請求(リコール)について  この問題は、この文書を元に作成しました。


 H生駒トンネル(Wikipedia)   <問24>生駒ゆかりの諸群像の(2)の問題文に、「生駒山は、海抜は二千尺ぐらゐであるが、金剛山脈の北部を占める生駒山脈の主峰であり、河内と大和の境にそびえる山である。二千六百年の昔、勇敢な神武天皇も越えられなかった、という伝説の山である。大阪から真東にある奈良まで行く電車がなかなかできなかったのは、この大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかったからである。数年の歳月と巨額の金額をつひやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった。」とあります。   生駒トンネルの建設が困難を極めたことについては、「大林芳五郎傳」のこの部分に記載されています。   もし、生駒トンネルが無ければ、今の近鉄は存在しなかったかも(このトンネルをめぐる感動の物語)。       

(2)の問題について




 〇電力固定価格買取制度を活用した自治体浄水場での水力発電設備⇒このページの(4)ご参照

 〇カード様式の国保保険証

 〇公共図書館での電子書籍専用端末の閲覧・貸出サービス⇒04年度に開始されましたが、08年度で終了しました(電子図書館広がらない.pdfご参照)。



 〇全国初!いこま空き家流通促進プラットホームを設立しました・・・その1ミラー)/その2ミラー

 〇都市公園内における障がい者の福祉施設の設置・・・市のHPミラー)/ 記者会見資料.pdf関連記事.pdf

 〇ふるさと納税の寄付を活用した野良猫の避妊・去勢手術費用の全額負担・・・記者会見資料.pdf報道記事報道記事

(3)の問題について

 〇安全・安心な街ランキング(東洋経済新報社 平成24年調査)ご参照.pdf

 〇県外就業率⇒12(H24)年7月20日に平成22年国勢調査 従業地・通学地による人口・産業等集計奈良県結果の概要が公表され、その中の要約及び注記(従業地・通学地集計結果).pdfを見ると奈良県は県外就業率が全国1位で、なかでも生駒市が56%で県下で最高です(報道記事.pdf)。

 〇歩きタバコの違反者への過料⇒報道記事ご参照

 〇財政力指数⇒生駒市と各市の財政状況等についての5ページをご参照(分り易いより新しいデータがあれば差し替えます)

 〇2015年から2025年にかけての後期高齢者(75歳以上)の伸び率⇒ご参照.pdf第1回生駒市医療介護連携ネットワーク協議会<2016年6月開催>で配布された地域包括ケアシステムの構築について より)

  後期高齢者の伸び率がトップクラスの生駒市は、全国から視察団がやってくるほどの介護予防(要介護状態になることをできる限り防ぐ遅らせること、要介護状態であっても、状態がそれ以上に悪化しないようにする、状態の維持・改善を図ること)事業の先進地であり(ご参照.pdf)、要介護認定率(65歳以上の高齢者に占める要支援・要介護認定者の割合)は13年4月現在で15.6%(16年3月厚労省公表の14年度状況資料では、全国平均17.9%、その最下位県の山梨県は14.2%)と低くなっており、生駒市は、将来的には「後期高齢者伸び率トップクラスでありながら、要介護認定率は最下位クラス」に成り得るという注目の自治体となっています。

  後期高齢者の伸びへの対応や介護予防の実践等をはかる地域包括ケアについてお知りになりたい方は、「地域包括ケアシステム」をお読みください。

 〇市役所発行証明書のコンビニ交付の人口あたりの交付率が生駒市は全国一であることを伝える新聞記事

(4)の問題について

 〇大阪市営地下鉄(大阪メトロに改称)中央線と近鉄けいはんな線の路線図<↓クリックで拡大>  生駒市とその周辺の路線図

ゆめはんな.jpg
 〇Osaka-Subway.comさんのこの記事が良き解説となっています。
 〇けいはんな線が第三軌条式になったのは、第三軌条式の大阪市営地下鉄(大阪メトロ)中央線と相互乗り入れできるようにするためでした。同様の理由で、千里中央を始発とし大阪市営地下鉄(大阪メトロ)御堂筋線と相互乗り入れしている北大阪急行も第三軌条式です。逆に、大阪市営地下鉄(大阪メトロ)堺筋線は、架線(架空線)式の阪急と相互乗り入れできるようにするため架線(架空線)式になっています。 

 〇近鉄は、第三軌条式と架線(架空線)式のどちらの集電方式にも対応できる車両の開発に着手しています(ご参照)。

 〇けいはんな線の駅では線路脇などに、下に載せた「変わった踊りを人がしているように見えるイラスト添えの、こわいでんきがながれています」カンバン<クリックで拡大>が表示されています。そのイラストや文言からやや大袈裟なこけおどしのように見る人もいるようですが、実際は、レールに接近すれば、放電されている電気によって感電死してしまうことがあるそうです。ですから、架線式の路線では、線路に降りれば、電車に轢かれなくても死んでしまうことがあるので注意しなくてはなりません。
こわいでんきがながれています.jpg

 〇けいはんな線開業(06.3.27)前と変わらぬ最高速度時速70kmで大阪地下鉄中央線を走ってきた電車が、中央線終点の長田駅からけいはんな線に入り、その終点の奈良登美ヶ丘駅までは、第三軌条式でありながら時速95kmで走行します。鉄道ファンの間では、それを「爆走」と表現する人も少なくありません。
(5)の問題について
 @生駒の神話は里山誕生の過程を反映したもの
 Aご参照・・・土器から見える最古の里山(17.12.12/毎日新聞)/里山“いこま”を、まもり、つかう活動交流会(生駒は、「日本最古の里山」と呼ばれることもある)<ミラー>/「自然力」を「文化力」に!(生駒の高山地区こそ日本の最古の里山群が存在している場所)

(6)問題文には入れなかった日本初

 〇64(S39).4に日本最初のスカイラインである信貴生駒スカイラインが開通

 〇行基は死去に際して竹林院から少し真南の往生院で火葬にされたが、これが日本で最初の 火葬である

2014年01月07日

<問26>解答・解説   

              問題文はこちら

解答>@邪馬台国  A大宝律令  B藤原  C興福寺  D応仁  E織田信長  F豊臣秀吉  G豊臣秀長  H関ケ原  I農地改革

解説
 〇邪馬台国    邪馬台国・富雄川流域説もあるように、邪馬台国がどこにあるかはともかくとして、卑弥呼の時代に、邪馬台国と同様の部族連合国家が富雄川流域にもあり、生駒の地もその領域に入っていたことは確かでしょう。

 〇いこま歴史読本.pdf(生駒市教育委員会)<下図は表紙>
表紙.jpg
 〇参考 : 生駒山のこと







2014年01月06日

<問27>解答・解説

              問題文はこちら

解答>(1)伊勢物語  (2)藤原定家  (3)源実朝  (4)井原西鶴  (5)上田秋成  (6)与謝野晶子  (7)阿波野青畝あわのせいほ  (8)万葉集  (9)柿本人麻呂

解説

(※)生駒山のこと

(1)について  伊勢物語<wikipedia>  在原業平<wikipedia>  〔大意〕はmanapediaから引用しました。   参考記事<リンク>

(2)について  藤原定家<wikipedia

(3)について  金槐和歌集<wikipedia>  源実朝<wikipedia

(4)について  井原西鶴<wikipedia>  芭蕉と同時代の西鶴(芭蕉生誕の前前年に生誕し芭蕉没年の前年に逝去)は、芭蕉風の俳諧が風靡する時勢に対して、談林派俳諧師として対抗的な感懐を抱いていました。

    ※俳諧と俳句・・・鎌倉時代ごろから興った連歌れんが(5・7・5字の長句→7・7の短句→5・7・5字の長句→7・7の短句を、別々の人が100句になるまで詠む)が、室町時代に入って滑稽的・洒落的要素を付与されたのが俳諧はいかい連歌で、略して俳諧といいます。俳諧の最初の長句を発句といい、必ず季語と切れ字を入れなければいけないとされました。芭蕉の登場により発句の独立性が高まり、明治時代に入って、正岡子規が従来の座の文芸たる俳諧から発句を独立させて俳句という個人の文芸とし、近代の俳句を確立し、子規に兄事けいじした高浜虚子が「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱して発展させました。俳句の確立・発展に伴い、俳諧の発句、それを詠う俳諧師も溯って俳句、俳人と呼ばれるようになりました。

(5)について  上田秋成<wikipedia

(6)について  みだれ髪wikipedia>(全文を青空文庫で読むことができます。)  与謝野晶子wikipedia>  チョコレート語訳とは<リンク>  晶子の夫の鉄幹も生駒山を詠んでいます⇒雲を見ず 生駒葛城 ただ青き この日なにとか 人を咀のろはむ(鉄幹)

(7)について  高浜虚子<wikipedia>  阿波野青畝wikipedia>  ホトトギスの四S⇒ご参照<リンク>ミラー

(8)について

 @出典⇒「日本古典文学大系1〜4 萬葉集一〜四」(岩波書店)から引用しました。ただし、注(※)については、一部加筆しています。

 A万葉集<wikipedia>  巻15-3589の和歌の解説⇒はじめての万葉集.pdf   巻15-3590の和歌の解説⇒はじめての万葉集.pdf

 B長いので問題文に入れられなかった、生駒山を詠った長歌万葉集 巻6−1047

 ➃歌碑は、万葉歌碑データベース<リンク>生駒市の歌碑<リンク>をご参照

(9)について   柿本人麻呂<wikipedia

(※)生駒山地の中央部にある暗峠を吟じた俳句については、<問13>歴史を見つめてきた暗峠Mをご参照 

(※) うたまくら ゆかし生駒山暗がりの道の句とふみ